禅定の注意点

 幸福の科学大川隆法総裁は、『信仰告白の時代』で以下のように説かれました。

「禅定の難しさとして言っておきたいことは、一定の精神統一のスタイルをとっていると、霊的な通信の可能性が非常に高まるので、心が天国か地獄かのどちらに向いているかによって、よいことも悪いことも起こりうるということです。ただ、普通は、悪いことが現象化することのほうがきわめて多いのです。なぜなら、地上界はもはや、かなり悪霊の巣窟になっていて、高級霊たちは、そのような地上界には住んでいないからです。禅定をしていると、普通は、浮遊霊、地縛霊、憑依霊といった悪霊のほうがまずやってきます。そのため、地上において禅定に入るということは、きわめて危険なことでもあるのです。したがって、三次元的な悩みの虜になっている人は、禅定してもだめなのです。まず、三次元的な悩みを断ち切るために、「智慧」の力を持たなければいけません。では、智慧の始まりは何かといえば、正しい仏法真理の知識です。これを知らないことには、判断のしようがありません。まず、正しい仏法真理の知識を持つことが必要です。そして、その正しい仏法真理の知識に裏づけられながら、経験を積んでいくことです。それによって智慧が得られます。この智慧によって、三次元的なさまざまな悩みをバシッと断ち切らなければいけないのです。心が揺れている状態で禅定をしても、高級霊のささやき(インスピレーション)など、まずありえません。せいぜい悪霊に取り憑かれるのが関の山です。そうしたときには、導きを求めれば求めるほど、変なものが寄ってきて、悪しきインスピレーションを与えていきます。そして、ふと宗教巡りを始めて、悪霊に憑かれてしまったり、動物霊などの言葉をありがたがってしまったりするのが普通です。したがって、当会では、やがて禅定の実修等の機会がかなり増えてくると思いますが、その基礎段階として、教学による知識的修行をしておかないとだめなのです。頭を鍛えて、三次元的な迷いをバシッと切れる知性を持っていなければいけません。そうでなければ、禅定に入ったときだけホワッといい気持ちになっても、家に帰ると、再び悩みのなかに入ってしまいます。やはり、ある程度、三次元的な悩みを解決する能力を持たないといけません。頭脳を鍛えることのほかに、もう一つ大切なのは、身体のほう、つまり体調をよくするということです。体調が悪いときには、高級霊はまず来ません。高級霊は、病気の人などには、かかってこないのです。頭脳と身体の両方を鍛えて初めて、禅定に入っていってよいのです。ある程度、人間的、人格的に力を持たないと、異次元世界との交流というものは危険な面があるのです。」

 心の波長、心の波というものを調えることなく、精神集中、精神統一というものにのめり込むと、悪霊の憑依のもとになので、よく重度の霊障になる方がいる。瞑想状態に入る前に、まず心の波を平らかにしていく必要がある。潜在意識の扉を開くときには、天国と地獄の両方から入ってこられる可能性、危険性があるので、注意が必要である。

 大川隆法総裁は、『心の挑戦』で以下のように説かれました。

「もし、心の波長、心の波というものを調えることなく、精神集中、精神統一というものにのめり込んでいきますと、これがまた悪霊の憑依のもとになります。そして重度の霊障になる方がよくいます。ですから、瞑想状態に入る前に、まず心の波を平らかにしていく必要があります。怒ってカッカしているような状態、心のなかに愚痴や不平不満がたくさん溜まっているような状態で精神統一をすると、地獄界の魔王や悪霊といわれるものに、非常に簡単に入りこまれてしまうのです。三次元で暮らしていて、肉体中心の生活をしていますと、心の波も非常に三次元波動に染まりやすいのですが、これには功罪の両面があります。功の面は、三次元波動を極端に持っていますと、悪霊もなかなかそれなりに取り憑きにくい点があることです。これは事実です。要するに、彼ら悪霊も、地上の人間とまったく同じようには生活しにくいのです。悪霊も、地上の人たちのように忙しくいろいろなことをするのには、なかなかついていけない部分があるわけです。しかし、そのような忙しい生活には、そういうよい面がある反面、高級霊もまた感応しにくい、インスピレーションを降ろしたりすることが非常に難しいという、諸刃の剣の部分があるわけです。ところが、精神統一の状態に入ってくると、高級霊もかかりやすい反面、悪霊も非常にかかってきやすい状態になってきます。表面意識、潜在意識という言葉が、一般によく使われますが、霊界との交流を始めるときには、潜在意識の部分の扉が開かなければなりません。そして、その潜在意識の扉を開けるためには、表面意識のほうを次第しだいに鎮静化させていかなければならないのです。表面意識とはいったい何であるかというと、たとえば、人と議論をしたり、忙しい計算業務をしたり、電話で話をしたり、書類業務をこなしているときのように、頭脳がいつもフル回転している状態のときに働く意識です。何か作業をするために、常に頭脳が活動している状態のときには、いわゆる表面意識というものが前面に出ています。ところが、リラックスした状態になってくると、脳の活動を中心とした精神作用が次第しだいに鎮静化して、意識の水面下に沈んでいきます。そうすると、それとちょうど交替するようなかたちで、潜在意識という、通常は表に出てこない部分が浮上してきます。つまり、夢のなかでみなさんがいろいろな体験をされるような、心だけの世界、純粋な心の映像の世界が表面に出てくるわけです。潜在意識の扉を開くときには、天国と地獄の両方から入ってこられる可能性、危険性があります。日頃、善なる心でもって生きている人、善なる念いと行ないを心がけている人にとっては、表面意識を鎮静化させていくだけで、守護霊や指導霊といわれる、高級霊界の人たちとの交流が始まりますが、日頃、善なる念いを持つことが少なく、善なる行ないを心がけることの少ない人は、表面意識を鎮静化させることで、かえって悪霊の虜になることもあります。」

 釈尊が菩提樹下で悟ったのは、第一に、自分の心の内が、三次元の宇宙はもちろん、天国・地獄といわれる世界をも包み込む、無限に大きな多次元空間の霊的宇宙につながっていること。第二に、自他の魂は別のようであって別ではなく、実は一体であること。たとえて言えば、オーケストラのそれぞれの楽器の奏でる音楽が全体として一つの曲をつくっているように、大宇宙のなかで、いろいろな生命たちが、根本仏(根本神)の構想した曲を奏でていることを知ったことです。

 大川隆法総裁は、『大悟の法』で以下のように説かれました。

「釈尊が、坐禅をして、心の垢を取り除き、深い深い瞑想の内に入っていったときに見たものは、いったい何だったのでしょうか。実は、釈尊は、「この地球上に、個々人が、小さな豆粒のような存在として生きている」というものではない世界を見たのです。「自分の内に、広大無辺な宇宙につながるものがある。その自分の内なる宇宙は、身長一メートル数十センチ、体重数十キロの、一個の体のなかに閉じこもっているものではない。それは無限に広がっていて、自分の目に見える、この三次元の宇宙をも包むほどの、大きな宇宙につながっているのだ」ということを知ったのです。大宇宙の根本仏(根本神)がつくったと思われるような、無限の多次元空間の神秘。そのなかには、自己の魂というものも当然あるけれども、それを突き抜けて、さらに霊界世界があり、霊界世界のなかに、「魂の兄弟」や、それ以外のさまざまな光の存在がある。また、天国・地獄といわれる世界があり、その世界のなかに、幸福に暮らしている魂たちも、不幸に暮らしている魂たちもいる。そうした広大無辺な霊的宇宙が、自分の内とつながっている。こういうことを発見したのです。これは、「自分というものは、自分であって自分ではない。自分という存在がないわけではなく、それはあるが、その自分は、独立した一つの存在、切り離された存在ではないのだ。近代の哲学や文学が追究しているような、実存的な自分ではないのだ」ということです。  自分の内には、大宇宙そのものとつながっているものがあるのです。その大宇宙は、三次元の星の世界ではありません。さらにそれを包み込んだ大いなる宇宙とつながっている世界が、自分の内にあるのです。マゼランの航海を待たずとも、自分の心の内を見れば、はるかなる世界まで、自由自在に行き来することができたのです。そして、釈尊は、「第一次的な霊眼によれば、自分と他人は別個の存在のようにも見えるが、もっと深い目で見たときには、自他は別のようであって別ではない。自他は別個に非ず、一体なり」ということを悟りました。「自分と他人、自分の魂と他人の魂は、別のようにも見えるけれども、そうではない」ということです。これは、もちろん、魂的に近接な「魂の兄弟」とのつながりということでもありますが、それだけではありません。魂の兄弟たち以外にも、広大無辺な霊界に生きているものたちがいます。人間の魂もあれば、人間ではないもの、動植物の魂に相当するものも数多くいます。これらが、ばらばらに住んでいながら、実は同時に、協力し合い、あるいは依存し合って生きているのです。そうした世界であるということを、釈尊は悟ったわけです。ちょうど、オーケストラのそれぞれの楽器の奏でる音楽が、全体として一つの曲をつくっているように、大宇宙のなかで、いろいろな生物たち、生命たちが、根本仏(根本神)の構想した曲を奏でているのです。そうした世界がそこにあるのだということを、釈尊は知ったわけです。」

 インド大陸だけが世界のすべてだった時代の悟りには、やはりその時代性による限界もある。

 そして、いくら釈尊の悟りが高く、広大な霊界(実在界)の真実を認識していたとしても、それを聞くことができる弟子たちがいなければ、法は十分に説かれないのです。

 総裁は、『釈迦の本心』で以下のように説かれました。

「実在界に対する釈迦の認識はかなり進んだものであって、九次元宇宙界の本質まで悟っており、「九次元世界は地球だけで完結するものではなく、地球以外の惑星にも広がっている。他の惑星にも素晴らしい霊人たちが数多くいて、修行をしている」という事実もつかんでいました。また、「宇宙即我」という自己拡大の経験をしたときには、地球という惑星が非常に小さな点となり、みずからの内臓の細胞の一つになっていくのを実体験していたので、宇宙というものの感覚もつかんでいました。しかし、それらを当時の弟子たちに説くのは非常に困難だったため、さまざまなたとえ話で語るにとどめていました。当時の人びとは、宇宙の構造を聞くまでには、魂の勉強が進んでいなかったのです。現在、私は実在界の姿を解明していますが、そうした世界について、今から二千五百年前のインド社会という限界のなかではありますが、釈迦はすでに知っていたのです。ただ、釈迦に足らざるところがあったとすれば、地上にいるときの世界観が、まだいくぶんインドを中心としたものだったために、幽体離脱をして実在界に行っても、会っている霊人たちが、主としてインドを霊域とした人たちだったということです。違った霊域の人びとと会うには非常に難しい面があったと言えます。また、実在界には、いろいろなスタイルで生きている人が数多くいて、釈迦が彼らを非常に珍しい眼で見ていたことも事実ですが、「彼らの存在がいかなるところからきているのか。彼らはどのような生活をしているのか」ということを、深く追究しないままに終わったところがあります。しかし、釈迦が幽体離脱によって実在界を実体験したことは、生と死の意味、人生の目的、転生輪廻を説く際に、大きな力となったことは事実です。実在世界の発見によって、彼の思想はいっそうの高まりや深み、真実感を得たのです。これはちょうど、私が初期のころに、さまざまな霊言・霊示集を世に問うたことに似ていると言えるでしょう。そうした書物を数多く世に問うことによって、世の人びとは、実在の世界、高級霊の世界がほんとうにあるということを、リアリティー(現実感)を持って感じられるようになったと思います。また、のちに仏法真理の理論書を次々と世に問うにあたって、その裏づけにもなりました。  結局、宗教とは実在界を科学することであり、実在界についての裏づけがない場合には、単なる哲学になってしまうのです。」

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