信解脱

 悟りに到るためには、まず正しい信仰を持つこと。信じることによって「解脱(げだつ)」することである。

 初学者においては、「すべてには原因があって結果がある、播いた種があって実りがある」という「因果の理法」を信ずることが、その出発点である。これによって、人を悟りから遠ざけてしまう「煩悩」から逃れ、光り輝く仏の子としての本来の姿に還ることができる。

 この仏法真理を信ずることができるということは、すでに悟りの第一段階に入ったということである。これが、「信解脱(しんげだつ)」である

 幸福の科学大川隆法総裁は、『信仰告白の時代』で以下のように説かれました。

「あなたがたのまわりに、いや、あなたがた自身に、今、もし悪しき現象が現われ、悩みが現われ、苦しみが現われ、悲しみが現われているとしても、それは因果の理法に基づいて生じたものなのだ。人間のこの世の修行においては、すべて原因があって結果がある。 播(ま)いた種があって実りがあるのだ。 この因果の理法を信ずることこそ、正見(しょうけん)への道であるということを知らねばならない。

 あなたがたは、正見という言葉を、かつて釈迦(釈尊)の説いた八正道(はっしょうどう)のなかの一番目の言葉として記憶していることであろう。 なるほど、正見とは、正しく見ること、 正しい見解を持つことという意味であるが、仏法真理の初心者においては、正見とは、「正信(しょうしん)」にほかならない。 正しい信仰である。

 そこで、私はあなたがたに、悟りに到る第一の法門を示すとしよう。 それは「信解脱(しんげだつ)」の道である。 信解脱とは、信じて解脱することである。 正しい信仰心を持つことによって、六大煩悩から逃れ、本来の実相世界にいたときのあなたがたの姿に還るということなのだ。

 信仰とは、単なるお題目ではない。 仏法真理を信ずることができるということは、すでに悟りの第一段階に入ったということなのだ。 信ずるということは、すでに、悟りの一部を、わが手にしたということなのだ。 あなたがたが日ごろ接する人びとのなかには、宗教を信ずることはできない、と言う人もあるであろう。 もちろん、この世の中には、数限りない邪教があるから、私は、宗教すべてを信ぜよと言っているわけではない。 しかしながら、あなたがたが仏の子である以上、あなたがたの親である仏は、必ず、あなたがたを導くための手を差し伸べている。 仏法真理はいつの時代にも説かれている、ということを知らなくてはならない。 その仏法真理を受け入れ、つかみとり、そして跳入して、目に見えぬ世界をわがものと感得することこそ、第一段階の悟りであるのだ。

「解脱」にも段階がある。

 神秘体験うんぬんではなく、最初の解脱とは「信解脱」。これは「疑」を克服した信仰心による解脱である。

 大川隆法総裁は、『沈黙の仏陀』で以下のように説かれました。

「解脱とは「心の自由を手にすること」と説明しましたが、真実の宗教の立場からみて、それでは「心の自由を得る」とはいったいどういうことなのか、その内容を吟味してみたいと思います。まず最初に挙げるべきものとして、「信解脱(しんげだつ)」というものがあります。これは「信仰心による解脱」ということです。この信解脱は、「疑」の克服がその中心であると一般的に言われています。疑とは何であるかというと、正しい神理、仏法、あるいは法を説く仏陀、如来に対する疑いです。そういう三次元的な、この世的な疑問や疑いを解くこと、疑いを否定して、そして信じること、これが疑の克服に当たるわけです。そうしてみると、ここではまず、次のようなことが言えると思うのです。正しい宗教を信じない人、真実の仏陀の教えを信じない人にも二種類あって、一つは宗教心のまったくない人です。宗教心がまったくなく、宗教そのものを信じない。そういう教えなるものがあるということを信じない。あるいは、あの世とか、神仏とか、霊とかをまったく信じない方です。かなり頑迷ですし、魂的にみれば、そうとう曇りがかかっており、また発展が遅れている方であることは間違いありません。こうした無神論的あるいは唯物論的な考えを持っている人に、その疑問を解いてもらうということもありましょう。もう一つは、神仏を信じ、宗教を信じているにもかかわらず、間違った宗教にどっぷり浸かっている人、要するに〝悪霊型宗教〟に染まっている人です。「邪見」といって、間違った教えを信奉していたり、「戒禁取見(かいごんじゅけん)」といって、間違った修行方法や戒律などを守っている人が、地上にはまだ数多くいます。こういう人たちが、自分たちの間違いに気がついて、真実の仏陀の教えに帰依し、この教えについていこう、そして自分自身を高めていこうという境地が固まったときに、これを「信解脱」といいます。要するに、信仰心による解脱です。つまり、この世的な疑いや、間違った宗教による悪しき見解を振り払うことができ、そして神仏に向かってまっすぐに進んでいく道に入ったということです。これを、「預流(よる)」ともいいますが、悟りの段階としては第一段階です。正しい信仰の流れのなかに入ったというのが、この信解脱です。この際に、「では、単に信じればよいのか」というような考えもあるかと思いますが、ただ信じるというだけでは、やはり弱いかもしれません。というのは、宗教ではどこも「信じなさい」ということを言うので、宗教心のある人でも、他人に勧められて、「これはいい」と思って信じたけれども、しばらくすると他の宗教が出てきて目移りをするということは、いくらでもあるからです。ですから、この信解脱においても、ある程度の智慧、知識的な理解が必要になると思います。要するに、正しい教えであると自分が納得できる程度の、最低限の神理の理解は必要なのではないかと思います。これは、第2章「戒律とは何か」の説明で言えば、どちらかというと「三帰五戒」の段階が中心ではないかと思います。戒律を守って生きていこうとする、あるいは幸福の科学のルールを守って生きていこうとする決心ができた段階です。この段階で、悪魔とか悪霊などの誘惑から、かなり脱することが可能となっています。」

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