中道

 人間はどうしても自分に少し甘くなる傾向がある。ちょっとやりすぎたかな」「ちょっと行きすぎたかな」と思うあたりで止めるのが中道になることが多い。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『信仰告白の時代』で以下のように説かれました。

「「中道」というものも、ひと通りではありません。どのようなときに中道と言いうるかということは、非常に難しい問題を含んでいると思ます。ある人に、その人にとっての中道のあり方というものを定義してあげることは、なかなか難しいところがあるのです。釈尊の時代からよくいわれているように、「中道というのは中ほどである」と考えがちです。しかし、人間というものは、どうしても自分に少し甘くなる傾向があります。そこで、中道とはどのあたりなのかと考えるときには、「ちょっとやりすぎたかな」「ちょっと行きすぎたかな」と思うあたりでやめると、だいたい中道になるのです。たとえば、子供に勉強をさせるときに、母親が「勉強も、しすぎては目が悪くなるから、中道を守りなさいよ」と言うと、子供は「はい、わかりました、お母さん」と言って、五分ぐらい本を広げると、あとはテレビを見ているということがあります。このように、人間はだいたい自分に甘くなるので、「少しやりすぎたかな」と反省が起きるぐらいのところが中道なのです。心のなかで、「ちょっと行きすぎたかな」と思うあたりで止めると、ちょうどよいのです。このように理解していただければよいと思います。そうすると、学生が 「これは勉強のしすぎだ。中道を逸したかもしれない」と思うときというのは、たいていの場合は、怠け心が頭をもたげたということのほうが多いのです。「そうではないのですよ。もう一時間、勉強しても結構なのですよ」ということです。そうしたことを考えていただきたいと思います。」

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