幸福になりたいならば

 幸福になりたいならば、まず幸福になろうと決意すること。

 自分には、不幸を愛する傾向がないか、他の人を見て、自分を振り返ってみること。そのときのチェックポイントは、自分に「感謝する心」があるかどうか。

 不幸を愛する傾向があるときの対策は、第一に、与える愛に徹して、ほかの人の喜びをわが喜びとする考え方をもつよう努力すること。第二に、他の人の幸福を祝福するよう努力することです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『幸福への道標』で以下のように説かれました。

「幸福になりたいならば、まずそれを決意することです。そうすれば、次にどうすればよいかがわかるでしょう。ところが、たいていの人は自分で幸福になりたいのか、なりたくないのかがわからないのです。人生相談などを聞いているとそうです。わからないのです。幸福よりも不幸のほうを選んでいく人の場合、これはどうしようもないのです。アドバイスしたとしても、そのアドバイスも悪いほうにとっていくのですから、どうしようもありません。神様は救おうとしていても、自分で堕ちていく人だけは、これはどうしようもないのです。不幸を愛する傾向というのはほんとうにあるのです。愛しているのです。そこから脱しようとしていないのです。そのぬるま湯が大好きでしょうがないのです、そこから出られないのです。不幸を取られると何か寒くなって、上着を取られるようで、寒くて寒くてしょうがなくなるから、いつも着ていたいのです。 すから、この不幸を愛するという傾向は、自分では、なかなかわからないかもしれないけれども、とりあえず他人を見ればわかることもありますから、他の人を研究してみてください。この人は、不幸を愛していないかどうか、あるいは、不幸を抱きしめているような人もいますが、それを見て自分ははたしてどうなっているかということをふり返ってみることです。そうして、その傾向があるのなら、その不幸はこれは神様のせいでも、守護霊のせいでも、他人様のせいでもない、自分が選んでいるのだということに気づくことです。そのときにはじめて、その不幸の上着を脱ぎすてることが可能になっていくのだと、私は思います。その不幸を愛する傾向のひとつのチェックポイントとしては、感謝をする心がなくなってきます。これはチェックポイントとしてありますから、よく考えてください。不幸を愛する傾向があると思ったときに、方法はいままでいろいろなことを習ってきておわかりのことと思いますが、方向は二つです。不幸を愛している状態というのは、一つには、やはりこれは他人から奪い続けている状況に現在なっているわけですから、まずは与えるほうに徹していくことです。他の人の幸福を自分の幸福と思える方向に徹していくこと、これがきわめてだいじです。ほかの人の喜びをわが喜びとする考え方に切り替えていくことです。もう一つは、似たようなことですが、祝福ということです。祝福の気持ちを持たないと絶対に不幸から脱することはできません。現に幸福に生きている人、幸福な人を見たときにこれをやはり肯定するということはだいじなことなのです。肯定するということは、もうその時点からその人に近づいていくということなのです。他のすばらしい人を見て、すばらしいなあと言える人は、もうすでに不幸を愛する傾向から脱してきているということです。」

 

「他の人のために生きた人」は、多くの人に助けられる

 自分を磨くことに専念していれば、自らの仕事もだんだん大きくなっていき、やがて、人に認められ、多くの人に支えられるようになります。  「人に認められよう」と思って生きている人は、そのようにはなれません。言葉を換えれば、「奪う愛」に生きた人は、周りの人に助けてもらえず、自分自身を磨き出し、「ほかの人のためになることをしよう」と思っている人は、周りの人に助けられ、引き上げてもらえるようになるわけです。

 「神仏から自分に与えられた仏性の一片として、言わば、“ダイヤモンドの一かけら”として、本来、美しい自分の心を、いかに磨き切り、世の中を照らす一助となるか」ということに専念していけば、あらゆるもの、あらゆる世界が光り輝いて見えるようになるでしょう。

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