真心

「人間にとって、いちばん重要なものは、かえって存在証明になじまないものが数多くあるのです。いつの時代においても、そうです。いつの時代でも、いちばん大切なものは、その存在を証明できないことのほうが多いのです。

神-愛-勇気-叡智-善-優しさ-美-調和-進歩-慈悲-真理-真心-無私

これらはすべて、宇宙に満ち満ちている実在であり、光の世界においては、これらの言葉を知らない方はひとりもおりません。しかし、この地上では、だれひとりとして、そうしたものが、確かなる存在だと証明することができないのです。なぜならば、これらの大切なるものは、すべて四次元以降の実在界にある存在だからです。すなわち、三次元的材料をもってしては、証明することができないのです。現在、私が認識している根本仏(根源神)とは、二十次元以降の超高次元の存在を意味します。ですから、その存在を三次元の基準で証明することは、不可能なのです。だからこそ、「信仰」というものがあるのです。「信仰」という言葉は、「信じて仰ぎ見る」という意味です。信じるとは、感じとり、受け入れるということです。そして、仰ぎ見るとは、おおいなるものに敬意をはらい、自らをむなしくするということです。イエスはいいました。「神は愛なり」と。愛とは、確かに神の属性のひとつでありますが、イエスはこのときに、それ以上のことを語っていたのだといえます。「神は、その存在を証明しうるべきものではない。あえて、神に似ているものをあげよというならば、それは、愛である。愛は、その存在をなにびとも証明しえないではないか。なにびとも証明しえないにもかかわらず、人々は愛のすばらしさを知っているではないか。愛のよさを知っているではないか。そして、愛を手に入れんと努力し、その愛の力を信じているではないか。  信仰とは、そうしたものである。愛の存在を信じる者は、神の存在を信じよ。愛の力を信ずる者は、神の力を信ぜよ。なぜならば、神は、愛だからである。見よ、神の子であるわれイエス・キリストは、愛の業をなすなり。これ、われがなすにあらず、わが天なる父、わが神、われに来たりて、われにこの業をなさしめるなり。愛を見んとせば、まず、わがなす業を見よ。そこに愛があり、そこに神がある」  右にあげた言葉は、いまから二千年近い昔に、イエス・キリストが、ナザレの地で語っていた愛の話の復元です。当時は、私が天上界からイエスを指導していたからこそ、私は、彼の言葉を知っているのです。」(『太陽の法』)

 この一節は、イエスと愛の教えについて、とても大事なことが語られた部分です。

 「真心」とは、この世的な材料を用いることでは証明することができないが、愛や勇気などとともに宇宙に満ち満ちている実在であり、四次元以降の実在界にある存在であって、光の世界においては、この言葉を知らない方はひとりもいない、と理解することができそうです。

 とすれば、「神は愛なり」というイエスの言葉は、「神は真心なり」とも、置き換えることができるのではないでしょうか。 

 「真心の存在を信じる者は、神の存在を信じよ。真心の力を信ずる者は、神の力を信ぜよ。なぜならば、神は、真心だからである」と。

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