自己責任

 「業」(カルマ)」というものを考えると、自分の運命は、自分自身に責任があることが多い。

 でも、一緒に同時代に生まれてきた人々の共通の運命のようなものがあって(「共業」)、それは単純に個人の責任だというわけにはいかない。

 この共業をよい方向にもっていくためには、仏法真理を一人でも多くの人に伝えて、光の仲間を増やしていくこと。

 「個人個人が自分の心を正し、その流れが全体に広がったときに、全体の運命をも変えていける」という福音を伝えることである。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『心の挑戦』で以下のように説かれました。

「もちろん、業(ごう)においては個人責任は当然の問題ですけれども、社会全体、人類全体というような、大勢の人々の共通の運命のようなものもあります。大きな戦争のときには、個人個人は正しく生きていても、そこから逃れることはできない、というような運命があります。これを「共業(ぐうごう)」といいます。これに反して、個人の業のことを「不共業(ふぐうごう)」といいます。「環境や社会や時代のせいではないと言いつつも、実際には共業というのがあるではないか」「自分は人を殺したくなくても、戦争が起きたではないか。どうしてくれる」「自分は、一生懸命、事業をしているのに、経済不況が来たではないか」 そういう考えもあるでしょう。ただ、これも結局は、人間というのは個人独りだけでは生きられるものではないということです。ロビンソン・クルーソーのように、孤島に独りで生きるわけではないし、みんなで共同生活をしているわけです。それぞれの人が「重重無尽(じゅうじゅうむじん)」の縁起のなかで、お互いにつながって生きているのだ、ということを考えなければいけません。そう考えると、社会が悪いとしても、その一端を担っているのは自分でもあるわけです。ですから、自分自身の個人修行はあくまでも大切にしていくわけですけれども、自分がかたちづくっている共同体、その社会や国家自体が悪い場合には、その一員として世の中をよくしていくために、「自分も何かをしなければいけない」という気持ちを、常に持つことが大事です。ですから、共業そのものの悪い傾向を解消するためには、やはり光の仲間を増やしていくことこそが正道であるわけです。そのためには、どうしたらよいか。それは仏法真理を一人でも多くの人に伝えることです。それも、真心を込めて、熱意を込めて、一人ひとりに仏法真理を伝えていくことです。それが、やはり、多くの人々の共通の運命としての共業が、不幸な方向に向かっていくのを救うことであると思います。個人個人が自分の心を正すことは大事なことです。しかし、「個人個人が自分の心を正していって、その流れが全体に広がったときに、全体の運命をも変えていけるのだ」ということを教えることもまた、大切な大切な修行であると思うのです。ですから、「利自即利他(りじそくりた)」 自分を磨きながら他の人々をも導いていく それこそが真実の宗教のあり方なのだということを、どうか深く悟っていただきたいと思います。」

 世の中では、ねうちのあるもの同士が、互いにぶつかることがある。

 そのときに、どちらを選ぶかを、自分で考えて決めなくてはならない。その選択に対して生まれるのが、自己責任である。

 自分が選んだことの結果がどうなったかは、経験となって蓄積されていく。自分の人生にとって何が大事かを考え、それを選び取っていく努力の中で、智慧もみがかれていくし、自分という人間の成長もある。

 大川隆法総裁は、『子どもにとって大切なこと』で以下のように説かれました。

「世の中には、ねうちのあるものがたくさんあるけれども、ねうちのあるもの同士が、たがいにぶつかることがある。そのときに、「どちらを先にして、どちらを後にするか。」「自分はどちらを選ぶか。」ということを決めるのに、ずいぶん苦しむことがあるんだ。大人が一人だけのときは、その人の意見に全部合わせることができるけれども、別の大人の人もいるときに、それぞれの人から、ちがうことを言われたら、「自分はどちらの意見を選び取るか。」ということで、子どものほうもためされるわけだね。大人同士の意見がちがうときは、どちらかの人がすべてまちがっているというわけではないんだ。いろいろな物事の中で、どの部分がより大切だと思うかによって、少し考え方がちがってくることもあるんだ。このときに、「自分は、これが正しいと思う。」と考えて選び取ったものに対しては、自分自身の責任(負わなければいけない務め)が生まれる。これを「自己責任」というんだ。そういうことを勉強していかなければいけないということだね。世の中には、「いいこと」というものはたくさんある。例えば、「遊びたい。」という気持ちもあるだろう。「勉強をしなければいけない。」という気持ちもあるだろう。それから、「家の手伝いもしなければいけない。」ということもあるだろう。それらの一つひとつは、いいことかもしれないけれども、いろいろなもの同士がぶつかり合うこともあるわけだね。その中から何を取るか、何を選んでいくかということに、自分の責任が出てくるんだ。そして、「自分が選んだことの結果は、どうなったか。」ということが、自分の経験となって、しだいにたまっていく。その中で、「自分はどういう人間なのか。」ということが、だんだん決まっていくんだ。  何を取るかということは、むずかしいことだね。いろいろなものの中から選ぶときには、それぞれに比べてみて、「どれを先にして、どれを後にするか。」とか、「どれを一つだけ選ぶか。」とか考えなければいけない。こういうことを「優先順位をつける」というんだ。こういうことは、みんなの生活の中にもあるのではないかな。それぞれのことは、どれも、ねうちのあることなんだけれども、それらがぶつかり合ってしまい、両立しないことがある。そのときに、どちらを取るのがいいのかを考えるという、とてもむずかしい問題があるんだ。  このときに、君がいいかっこうをしようとしても、全部はできないよね。「自分には、これはできるけれども、これはできない。」というふうに、何かを選んで、何かをすてなければいけなくなる。自分の人生にとって何が大事なものなのかを考え、それを選び取っていく努力が必要になるんだ。この中で智慧もみがかれていくんだよ。ここに、君という人間の成長もあるんだ。」

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