多様なる価値観

 たとえば、富士山は実物は一つであっても、角度によって、あるいは季節や天候によっても様々な姿に見えるように、本来は一つのものでも、さまざまな現われ方をする。

 同じように、「正しい者は強くなければならない」という正義の教えと、やさしい愛の教えとは、平面的にみれば矛盾するようでも、立体的に見れば、矛盾はしない。

 「仏の法」は、巨大で立体的なものなのである。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』で以下のように説かれました。

「多様なる価値観を知り、いろいろな見方ができれば、それでよいのかというと、そうではありません。これが難しいところです。たとえば、富士山を写真に撮れば、いろいろな写真が撮れますけれども、富士山はたくさんあるのかといえば、そうではありません。実物は一つです。富士山は一つですが、いろいろな撮り方ができるのです。富士山はどこから撮っても同じというわけではありません。また、同じ位置から撮ったとしても、季節によって、あるいは天候によって変わります。  このように、本来は一つのものでも、さまざまな現われ方をします。これが、認識において注意しなければならない点なのです。善悪や「イエス・オア・ノー」で考えているだけだと、物事を平面的にとらえている場合があります。しかし、平面的に焼き直すとそうなるが、立体的にとらえると「イエス・オア・ノー」が出ないものはたくさんあるのです。たとえば仏法真理でいうと、「正しい者は強くなければならない」という正義の考え方と、やさしい愛の教えとは、矛盾するように見えるところがあります。平面的に翻訳すると、確かに矛盾するようにも見えますが、立体的に見れば、矛盾するものではありません。「仏の法」は巨大で立体的なものなのです。サイコロを展開すると六つの面があり、それぞれに違う面だと認識されるわけですが、組み立ててみると一つになります。仏法真理はこれと非常によく似ています。仏法真理が多様に見える理由の一つとして、認識レベルのギャップがあるということを知っていただきたいのです。「仏法真理はさまざまなかたちを持っているが、本来はもう少し違った存在であるものが、三次元的に展開されると、このような姿になるのだ。もともとは一つのものであり、組み立てられて一つになっていくべきものなのだ」ということを忘れてはなりません。」

 偉人や聖人、光の菩薩と呼ばれる高級霊は、現代にだけでなく、数百年前にも数千年前にも出ていた。

 現在ただいま説かれている教えが、現代的装いを持っていたとしても、高級霊が過去に説いたことと、本質においてそれほど大きく変わるはずはない。

 人の心を潤すのは、いつの時代も、同じ光であり、同じ愛であり、同じ智慧である。

 過去の偉大な教えとの共通性もまた、正しい教えであることの実証である。

  総裁は、『青春に贈る』で以下のように説かれました。

「現在ただいまにだけ、偉人や聖人、あるいは光の菩薩と呼ばれる高級霊が出ているわけではありません。数百年前にも数千年前にも出ていたのです。そうした偉人たちが過去に説いたことと、現在ただいま説いていることが、その根本において、それほど大きく変わるはずはないのです。現代的な説き方がされているために、多少の違いはあったとしても、根本においては、そう大きな違いはありません。釈尊の教えも、孔子の教えも、イエスの教えも、時代性はありますが、大きくは変わりません。それが違ったもののように見えるのは、この世における人間の心の狭さ、知力の低さのためです。高い知力でもって見れば、同じものの違った説明でしかありません。ウエイトのつけ方の違いはあるでしょうが、根本においては同じものです。したがって、現代において仏法真理を説いた場合、過去において偉人たちが説いていた教えと、本質において変わるはずはありません。その教えが現代的装いを持っていたとしても、本質においては同じなのです。本質が変わるようであってはおかしいのです。「故きを温ねて新しきを知る」(温故知新)というのは、宗教においても同じことがいえます。古い教えであっても、そのなかから尽きせぬ智慧が湧いてきます。人の心を潤すのは、いつの時代も同じものです。同じ光です。同じ愛です。同じ智慧です。共通のものが、地下水のごとく、いつも流れているのです。そしてときどき、その地下水を掘る人が現われてきて、みんなにその泉の水を飲むように勧めているのです。したがって、過去の偉大な教えとの共通性も、非常に大事なことです。それもまた、正しい教えであることの実証になるでしょう。」

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