苦楽中道

 幸福の科学大川隆法総裁は、『沈黙の仏陀』で以下のように説かれました。

『悟りの挑戦(下巻)』の第1章「中道からの発展」において、「苦楽中道」について述べました。「極端な修行のなかに悟りはない。また、この世的な快楽のなかにも悟りはない。中ほどに真理がある」という話です。たとえば、極端なヨーガの修行などを見てください。一日中、滝に打たれて、いったい何を智慧として得ることができるでしょうか。あるいは、インドの修行者のなかには、茨の上に寝たりする人もいます。茨の上に寝て、その痛みをこらえて〝解脱″しようとしている人もいます。また、土のなかに潜ってじっとしている人もいます。水のなかに潜って息を止めている人もいます。そうした行者がたくさんいますが、「肉体を苦しめることによって、はたして智慧が現われるのかどうか」ということを問うてほしいのです。実際に、みなさんが深い洞察、直観を得られるときというのは、そういうときではなくて、リラックスしているときではないでしょうか。リラックスして、心が調和されて、明るく、温かく、伸び伸びとしている、そうした受け身の状態、受動的な状態にあるときに、智慧が得られるでしょう。ひらめきや霊的な直観というのは、くつろいでいるときに得られるものです。ですから、そのような激しい修行のなかで得られるものではないのです。ところが逆に、快楽のほうに走り、この世的に単に居心地がいいほうに走って、修行をしなくなると、人間は精神力が弱ってくるのです。意志の力が弱ってくると、悟りを得る力が失われていきます。そのような、この世的に何もかも満たされた快適な生活だけをしていると、修行をしなくなって意志の力が弱り、また悟りが得られなくなってくるのです。ですから、修行もまた必要なのです。難行苦行というような、肉体を苦しめるところまでの修行をしてはいけませんが、精神を強める意味での修行は必要です。戒律によって自分を律する。あるいは毎日しっかりと勉強する。ある程度、身体を鍛える。あるいは刻苦勉励し、克己精神を養う。こういう修行は大事なのです。それであってこそ、精神を高めることができ、悟りを得ることができるのです。適度に修行があって、適度に休めるなかに、偉大なる智慧が現われてくるのです。中道というのは、そうしたきわめて実践的な立場から得られたものなのです。贅沢三昧のなかでは、悟りは得られません。また、肉体をいじめているだけ、苦しみのなか、激痛のなかで、それを堪えようとしているだけで、どうして智慧が生まれてきましょうか。やはり、瞑想状態 心静かに穏やかにして、よろこびに溢れてくる状態にしないと、なかなか智慧は湧いてこないのです。そのような状態にしたときに洞察が湧いてきて、自分も他人も一視同仁にすべてを見る智慧が湧いてくるのです。」

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