「差別観」と「平等観」

 宗教的な境地を進めていくと、「差別観」と「平等観」の二つが発達してくる。  この二つの矛盾したものが、統合したかたちで見えてくるようになったとき、「仏限」になる。

 この矛盾したものを統合するという立体的な営みのなかに、悟りへの階梯があり、そこに、この世が実在界とつながっていることの理由がある。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『幸福の法』で以下のように説かれました。

「さらに、宗教的な境地を進めていくと、不思議なところが見えてきます。すなわち、「差別観」(仏教的には「差別(しゃべつ)観」という)と「平等観」、この二つが非常に発達してくるのです。修行が進めば進むほど、「人間の違いや能力の違いというものは、これほどあるのか」ということが、はっきり分かってくるようになります。人間の能力の違い、生まれつきの違い、人間存在としての違い、仏性の芽生え方の違い、こういうものに、それぞれの人によって、どれほど段階の差があるかということが、非常によく分かってくるようになるのです。これが差別観です。それと同時に、もう一つ、平等観というものがわいてきます。これだけ違う存在がたくさんありながら、それが不思議な観点から統合され、平等の存在であることが見えてきます。それぞれの人間が、これほど違うにもかかわらず、平等の生命価値を持っていることが見えてくるのです。また、「人間以外の生き物たち、動物や植物たちも、輝く命を持っていて、人間と同じように修行をしているのだ」ということが分かってきます。何とも言えない不思議さがあります。動植物の心が分かってくるのです。彼らも、みんな修行をしており、社会生活を営んでいます。動物たちも、家族をつくったり、食料を得るために苦労したりしています。あるいは、困難なことをするものと、それを補助するものとに役割を分けたりして、努力しています。そういう、さまざまなことが分かってきて、生命の平等観が見えてくるのです。差別観と平等観という二つの矛盾したものが、統合したかたちで見えてくるようになると、これが、いわゆる仏の眼、「仏眼」といわれるものになってきます。仏の眼には、その両方が見えているのです。慈悲のことを、「大悲」という言い方をすることもありますが、この大きな眼で眺めると、生きとし生けるもの、一切の衆生の、苦しんでいる姿、苦労している姿、そして、苦しみながらも、けなげに生きている姿が見えてきます。小さな生き物から、高度に発達した人間まで、それぞれ苦しみや悲しみを背負いながら、共に、この地球で光り輝いている姿が見えてくるのです。その姿は、とても悲しいものであると同時に、とても温かいものに見えます。悲しみを背負っているように見えながら、同時に、とても希望に満ちた、明るいもののように見えます。このような矛盾した二つの視点を持てるようにならなければ、実は、悟りの世界に入っているとは言えないのです。この悟りの世界に入るまでの過程で、差別観と平等観のどちらかを非常に強く磨くことがありますが、それを磨きつつ、また超えていかなければならないところがあります。矛盾したものを統合するという立体的な営みのなかに、実は悟りへの階梯があり、そこに、「この世が、この世だけで完結せず、実在界とつながっている」ということの理由があるのです。」

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