肉体を持つという真の意義

 肉体を持つという真の意義について考えたことがあるでしょうか。

 人間は、幽体という下着を着て、その上に分厚い潜水服のような衣服を着用しているようなものです。肉体の内蔵諸器官、無数の様々な組織、それらは本来皆独立した生命体です。死後ある一定の期間、肉体を構成する独立した生命体の霊組織である幽体を魂は着ていますが、やがて幽体は崩壊してしまい、本来の霊魂となります。言い換えれば、幽体とは肉体の生命維持装置のようなものと理解すればいいのではないかと思います。受精して後、しばらくは受精卵が分裂をくり返して諸器官の原型を造っていき、幼児の形状に育った肉塊は、人間の魂を受け入れる準備をします。視覚的に例えれば、繭(まゆ)のようなカプセルに入った人間の霊魂が、受精後3ヵ月になる頃の幼児の胎内に天上界から注入されます。母胎に別の霊が入るわけですから、母親である霊との調和に変調をきたし、つわりが始まります。しばらくは過去の記憶があるようですが、十月十日の後、拳を握りしめて産道を通り、この世の空気を吸って第一声を上げた時を境に、大方の記憶が無くなっていくようです。赤子が何もないのに笑っているような時は、この世に無事誕生したことを守護霊が祝福している場面である。また、母胎の中にいるとき、母親または霊能者と対話ができるのです。成長するに従い、潜在意識の中へ過去の記憶は完全に埋没していきます。肉体の中に霊が宿るわけですが、単にそれだけならば出たり入ったりという、また別の霊魂と入れ替わったり、面倒な問題が生じますが、幼児から母体内で肉体と霊魂が同時に成長し、その肉体はその霊魂にぴったりとした専用の乗り船となり、堅固な霊糸線によって霊魂は肉体と結ばれます。しかし、基本的に、母親の霊魂と著しく異ならない範囲で、色々な次元、また多様な性格の魂が母親の胎内の幼児に宿ることができるわけですから、本質的に肉体は憑依体質であると言えます。ですから、その肉体の宿り主である霊と心の波動が近い悪霊は、宿り主の波動に引き寄せられ、容易に頭や、腰や、足に憑依することができるのです。  

 睡眠中の霊魂は幽体離脱し、霊界に輝く霊太陽のエネルギー(生命エネルギー)を吸収して、再び肉体に戻ります。この時、数億という霊魂が肉体から離れて、同時に霊界をさ迷うわけですが、間違いなく自分の肉体に戻してくれるのは、霊糸線によって魂と肉体が堅固に結ばれているからです。この霊糸線は、如何なる者も切断することはできません。また不思議なことに他の霊糸線ともつれることもありません。しかし、肉体の滅び、すなわち死によって霊糸線が切れます。霊糸線が切れたときが真の死となります。幽体離脱を万人がほぼ毎日行っていますが、不完全ながら肉体から魂がずれる経験をすることができます。アルコールによって泥酔したり、麻薬を服用することで、この世という空間と重なっている霊界、すなわち異次元の世界と、多くは悪霊達を垣間見ることがあります。肉体と幽体の結合がゆるみ、ずれるために起きる現象でしょうか。霊としての本来の目、霊眼が、眼球と脳組織という肉体の諸器官から離れ、霊界を直接見るからだと思います。

 また、金縛りという現象を経験した人も多いでしょう。意識が明瞭でも体を動かせないで大いに焦るわけですが、肉体組織と幽体がずれかかったとき、魂からの信号が脳組織にうまく伝わらない、あるいは肉体の神経組織を信号が伝わらず、筋肉を全く動かせない、そういう現象であると。

 肉体には、あらゆる次元と多様性の霊魂が宿れる、これが最大の特徴です。この事によって、この三次元物質世界は、実在界にはあり得ない特殊な世界となり、また非常に有意義な世界となるのです。私達が魂修行をするための大切な次元なのです。同時に、悪霊の憑依という現象も起きるわけで、ほぼ例外なく誰でも日常的に無意識の内に経験しています。ですから、自らの心の状態を日常的に「監視する心」が大切なのです。

 小桜姫の霊言『大川隆法霊言集』第26巻には、「生まれ変わりの池」の話があります。 昔の人の生まれ変わりのシステムというのは、あの世に生まれ変わりの森というようなものがあり、そこには池があって、その池は底がなく、そこから地上が見えるのです。そして、そこから意を決意して飛び込むと地上に生まれ変わるようになっているそうです。これは、小桜姫という、今から4、500年前の室町時代の女性霊に分かる世界観であって、「産土神というものがいて、産土神に相談して許可が出たら、生まれ変わりの池に飛び降りて生まれ変わってくる」という日本神道系の6次元世界の「生まれ変わりのメカニズム」なのです。しかし、現代ではあの世の人々の認識も変わってきていて、あの世にも生まれ変わりの近代設備のある所には、ドームのようなものや役所のようなものがあります。 生まれ変わりの役所で許可をもらって、守護霊に付き見送られてそのドームに行きます。すると、ドームの奥に入り、生まれ変わる予定の人たちがヘッドホンのようなものを被って座席に座っているのです。そこでは、生まれ変わる時の心構えを教えているのです。そしてカプセルのようなものに入り睡眠状態となって、そこから約束した母親となる方の母体に宿っていくというような生まれ変わりのシステムもあり、霊界の階層によって違っているのです。 ちなみに赤ちゃんの魂が母親に宿るのは、母親が妊娠してから約9週間(約3カ月)ぐらいたったときだそうです。赤ちゃんの魂が、母親のお腹に宿るということは、母親と赤ちゃん魂が同時に一人の肉体に存在するということになり、それぞれの魂の波動が微妙に異なるために“つわり”という現象が起きたりするのです。このようなことは、始めて真理に触れる方にとって見れば新鮮であるとは思いますが、まず、生まれ変わりの秘密として基本的に知っておいてほしいことは、地獄からはこの世には生まれてくることは許されていないということです。最低限でも精霊界(幽界)において心が調和されていない人はこの世に生まれてくることはできないのです。なぜ、地獄から生まれ変わることができないかというと、地獄というのは苦しみの世界であり、そこから地上に生まれ変わって来ることができるならば、人間に生まれてくれば楽になるのだから、皆んな地獄から抜けだしてくるでしょう。そうすると地獄はなくなってしまいます。 しかし、それが許されないから、地上の人間に憑依して、一時期地獄の苦しさから逃れようとしているのです。こういう真実があるということをしっていただきたいと思います。 そこで、人間が死後どのようになるかというと、一般的には人間は死後、大抵の方は三途の川というものを渡り、まず四次元世界(幽界)へ還ります。  そこでは、友人や先生、近所の人などで、自分より先に亡くなり、その世界に住んでいる人達が迎えに来てくれます。そして、暫くは、その人達と一緒に生活をするのですが、その内に、何となく肌合いが合わなくなってきたりします。もちろん、なかには、その世界が肌に合う人もいるので、そういう人は四次元での生活を満喫し、「空も飛べたし、水にも潜れたし、もうこれで充分だ」と思い、また地上界に生まれ変わってくるのです。しかし、もう少し霊的な意識の高い人は、それだけでは満足できません。「昔の恩師だ」「小学校時代の友人だ」などと懐かしく思い、その人たちと生活していても、次第に、「彼らとは、求めているものがなんとなく違う」という気がしてくるのです。そうなると、この世的な時間でどのくらいかは一概に言えませんが、いつか必ず別れの日が来ます。「何か新しい修行に行くらしい」と大勢の人が見送るなか、自分がそれまで住んでいた霊界の村から旅立つ日が来るのです。  そのときには、高い世界から「導きの霊」がやってきて、その人の修行のレベルに合った世界まで連れていってくれます。そして、その新しい世界での生活に満足し、ある程度は霊界の法則にも慣れて、「もうそれほど勉強することがない」と思うと、その時点でまた地上界に生まれ変わってくるのです。ただ、例えば四次元から五次元(善人界)に上がっても、「何か物足りない。幸福の科学で学んだ高度な世界とは少し違うような気がする。もう少し光の強い世界もあるのではないか。この世界には、人のよさそうな人はたくさんいるが、羽の生えた人(光の天使)はいないようだ」と思い、もう一つ満足がいかない人もいます。そういう人は、暫くすると、その世界にも別れの日が来て、もう一段高い世界に上がっていくことになります。上の段階に上がると、勉強することが沢山あるのですが、あの世の世界での勉強を続けていくうちに、やがてどこかの段階で、その人にとっての学びの“天井”が来ます。そして、「これ以上は上に進めない」と思うと、その時点で地上界に生まれ変わるわけです。  このように、霊界での学習期間がそれぞれ違うため、生まれ変わりの周期は人によってずいぶん違いがあるのです。戦争や震災など、個人の力ではどうしようもない不可抗力のようなものによって亡くなった人の場合には、「もう少し生きたかった。地上の人生をやり直したい」と思うことが多く、そういう人は比較的早い時期に生まれ変わることがあります。そのように、「地上での修行が途中で終わってしまった。霊界のことを勉強するのもいいが、もう少し地上で勉強をしたい」と思う人は、割合早くこの世に生まれ変わってきますが、これに対して、「霊界に還ってよかった」と思う人は、一定の期間、霊界で勉強し、収穫逓減によって勉強が頭打ちになった時点で、また生まれ変わってくることになります。このように、普通の人で大体数百年くらいの周期で地上に生まれ変わってくるそうなのですが、地震や災害、事故などの不可抗力で人生をもう一度やり直したいと強く願う方は、割合早く、数年から数十年で生まれ変わって来る人もいるそうです。最近では前世を記憶する子供っていう本も出ていて、前世の記憶を持って生まれてくる人の数多くいるようではありますが、なぜ生まれる前の記憶がないかということも疑問でしょうか。過去、数百年のあいだ地獄で苦しみ、ようやく第一段階の悟りを得て天上界に還り、地上に生まれ変わってきた人も、過去、菩薩として、あるいは如来として生きてきた人も、地上では全く同じスタートを切らされます。それだけの厳しい修行というものを予定されているのです。 考えてみれば、これが、万人の魂を発展させていくためには非常によいシステムであることが分かると思います。例えば、「自分は過去世において、ある国の王をしていた、偉大な宗教家であった。過去世において偉大な学者であった」などということを、生まれてきた時に記憶していたとして、それが今世の修行にどれだけ役に立つかという観点から見たならば、おそらく大きなお荷物、負担になるであろうと思われるのです。自然科学系統の人であるならば、物理学であるとか、電子工学であるとか、いろいろな理科系統の学問を勉強しているでしょうが、そういう人が、自分が過去世において、ニュートン、あるいはアルキメデスのような科学者であったということを、生まれつき知っていたならば、その人の人生は非常に窮屈な人生になるであろうと思います。過去世の自分が得たところまで取り戻すだけでも、大変な修行です。 しかし、それをまったくの白紙にされているということは、考えてみれば、大きな慈悲です。人生には宝探しのようなところがありますが、その宝が埋まっていることを、最初から教えられていては、楽しくありません。生きている途中で、旅の途中で、様々な隠された宝を探し出すことによって、そこに大いなる発見があり、大いなる喜びがあるわけです。

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