菅原道真の怨霊

 時は平安、醍醐天皇の御世。きらびやかな平安の都において魑魅魍魎が跋扈すると信じられていた時代の話である。

 そんな時代、宮中を脅かす奇怪な出来事が相次いだ。そしてそれは「菅原道真(すがわらのみちざね)の怨霊」と呼ばれるようになる。現在では学問の神と崇められる道真は、当時の権力者である藤原氏すら怯えるほどの怨念で都を混乱へと陥れた。

 では、菅原道真はなぜ怨霊になってまで京の都に現われたのだろうか?

 菅原道真(845年~903年)は、幼少期より詩歌に才を見せ、わずか5歳で和歌を詠むなど神童と称された。

 901年、菅原道真は、醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けるよう謀ったと偽りの密告をされ、その罪により大宰員外帥に左遷された。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。こうなっては、菅原道真も従うしかない。九州の筑前国の大宰府で、衣食もままならぬ厳しい生活を強いられながらも、自身の潔白をひたすら天に祈ったとされる。しかし、もともと健康では無かった菅原道真は、左遷された2年後、再び京都に戻ることなく、59年の生涯に幕を閉じてしまいました。(903年)

 そして、菅原道真が死んだ直後、最澄の天台宗のお寺比叡山延暦寺の第13代座主(法性房尊意)の目の前に菅原道真の霊が現れ、「今から私を左遷に追いやった者達へ復讐のために祟りに行きますが、もしそれらの者達があなたに助けを求めてきても応じないでください。」と告げた。  困った法性房尊意は、「しかし、天皇が直々に3回もお願いしにいらっしゃれば応じない訳にはいきませんよ。」と冷静に答えます。  それを聞いた菅原道真の怨霊は、もっともなことだと返事に困ってしまったので、法性房尊意は菅原道真の気持ちを鎮めるために、ザクロの実を道真に食べさせますが、菅原道真は食べたザクロを炎にして吐きだし、自分の怒りをあらわにしたそうです。そして、ここから菅原道真の復讐劇が始まります。(菅原道真の怨念の始まりです。)

 菅原道真を左遷させる陰謀に加わった中納言(藤原定国)が、40歳の若さで急死してしまいます。苦しんだ後、謎の死を遂げます。(906年)


 菅原道真の左遷が決定した際、菅原道真のために醍醐天皇に直訴するため裸足で駆けつけた宇多上皇の行く手を阻んだ藤原菅根が雷に打たれて即死。(908年)


 菅原道真を左遷に追いやった張本人(藤原時平)の両耳から蛇に化けた菅原道真が現れ、その蛇を退散させるために色々と祈祷させるが全く効果は無いどころか、逆に蛇となった菅原道真に「控えよ!」と一喝されて、祈祷師はスゴスゴと退散してしまい、とうとう藤原時平はその場で狂死してしまいます。(909年)
  皇族ながら、多くの兄弟と共に「源」の姓をもらって、貴族兼武士として地位を利用して、やりたい放題だった。貴族たちの中心人物となった源光は、藤原時平と仲間になり、菅原道真を失脚させ、左遷させた張本人だと言われています。この源光が、狩りの最中に底なし沼に乗っていた馬ごとはまってしまい、溺死する事故が発生します。そのまま遺体も見つからず、行方不明のままです(913年)。これで、張本人の2名、藤原時平と源光は変死したことになります。

 菅原道真を左遷させた目入れを出した醍醐天皇の皇子で皇太子でもあった保明親王が、天皇になる目前の21歳の若さで急死してしまいます。(923年)

 この事件を気にして、朝廷は道真の霊を、左大臣に復帰させ、正二位を送る儀式をしますが 効果がありません。

 儀式の効果も無く、保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった慶頼王がわずか5歳で死亡してしまいます。(925年)  藤原時平の息子達(7人)も幼くして病死で死に追いやっていたり、若くして死亡しています。  このような怪奇現象が続いたため、遂に朝廷は菅原道真の怨霊を鎮めるためにと、菅原道真を大宰府へ左遷するという詔に関係する全ての書類を焼き捨てますが、その火が周囲に燃え移って広がり、その場にいた僧侶や役人を焼死させてしまうという事件まで起こります。

 その後も、国内では疫病や干ばつなどが相次いで起こり、朝廷では、その干ばつ対策の会議中であった930年6月の午後1時頃、その会議場であった清涼殿に落雷があります。  大納言であった藤原清貫は胸を焼かれて即死。右中弁平希世の顔は焼けただれて死亡。紫宸殿にいた者のうち、右兵衛佐美努忠包は髪が焼けて死亡、紀陰連(きのかげつら)は腹部が焼けただれて悶乱。安曇宗仁は膝を焼かれて倒れ伏すというありさまであった。そして、この落雷が原因で、天皇も病に伏し起きれなくなったしまった。

この落雷事件で、今までの不幸な出来事は全て菅原道真の怨霊による祟りであると信じられるようになった。

 「菅原道真の怨霊は雷神となり、この日本に神罰を与えようとしているに違いない!」 とまことしやかな噂が流れます

 この落雷事件を境に、醍醐天皇は体調を崩してしまい、天皇の位をまだわずか8歳の皇太子寛明親王に譲り、朱雀天皇が即位します(930年)。

そして、譲位して1週間後、醍醐天皇は、わずか46年の生涯に幕を閉じてしまいます。  その後、藤原時平の長男藤原保忠も 道長の亡霊に恐れて生活をしていたと言います。何かに取り憑かれてしまい、有名な僧に祈祷をさせます。そのお経の言葉の中に「宮毘羅大将(くびらたいしょう・仏教を守護する十二神将の一人のことです)」とあったのを勝手に「我を縊る(くびる・首を絞めて殺すこと)」と聞き違えて、その場で狂死してしまったといいます。(936年)  当時の貴族達、特に藤原氏がいかに菅原道真の怨霊を恐れていたかが分かります。こうして菅原道真の予告通り、菅原道真の左遷に少しでも関係した者のほとんどが死亡してしまいます。  その後月日は流れ、菅原道真の怨霊騒ぎから12年が経過しようとしたある日、西京七条二坊に住む貧しい家の娘多治比文子の枕元に菅原道真の霊があらわれて、「私が昔生きていた頃、よく右近馬場という所に遊びに行きました。そこに行けば私の胸の内に燃えさかる恨みの炎は安らぎます。早く右近馬場に祠(ほこら)を建てて私を祀ってください。」とのお告げを残します。  頼まれたものの、貧しい身分の者には右近馬場に祠を建てるなど到底資金がなくとてもできません。それでも、頼まれたので、とりあえず自分の家の庭の片隅に祠を建てて、菅原道真を祀ることにします。(942年)  その5年後、今度は近江の国の神社の息子「太郎丸」にも「多治比文子」と同様のお告げがあり、それを知って驚いた太郎丸の父親は右近馬場にある朝日寺の住職に事情を告げて相談し、多治比文子の家の庭にあった祠を右近馬場に移し、菅原道真を祀る社(やしろ)を建てます。(947年)  この話を知った当時の右大臣藤原師輔は、その社を増築します(952年)。これが北野天満宮となります。  当初の北野天満宮は、「学問の神様」としてではなく、「御霊」「雷神」として祀られておりました。「北野天満宮」や「太宰府天満宮」は菅原道真の御霊を鎮めるために建てられた神社なのです。  

 しかし、その後の986年、慶滋保胤が北野天満宮に捧げる祈願文の中で「天神を以て文道の祖、詩境の主」と語り、その後の1012年、当時の文章博士大江匡衡が同じく祈願文の中で「文章の大祖、風月の本主」と言った事から、この後、菅原道真は「雷神」ではなく「学問の神様」として祀られるようになりました。

 以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられたが、こうして「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになるのです。やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっていった。

 菅原道真は、漢文のみならず、神代文字、陰陽道などの呪術にも精通していたといわれる。それ故に怨霊となり祟りを成すこともできたのだ。  しかし、優秀すぎたために左遷され都を追われてしまうとは、なんとも無念だったことだろう。

 その後の朝廷において、安易に人を陥れることへの戒めとして、菅原道真の記憶は語り継がれるようになった。

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