イエス・キリスト 「肉体の復活」か「霊としての復活」か?

肉体として復活した」vs.「霊として復活した」

 使徒信条に「われは肉体の復活、永遠の生命を信ず」とある通り、イエスの肉体の復活を信じるのがキリスト教信仰である。一方、異端とされた外典には、イエスの霊としての復活が記録されている。どちらが「真実」なのか。

 

異端福音書が記録した「光に包まれたイエス」

「『わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある』 イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」

 これがルカ福音書にあるイエスの復活の場面である。まさに肉体の復活としか読めない。映画「パッション」もこれに従い、肉体の復活を描いた。

 これに対して、異端とされた外典はまったく違う形で復活を記録している。

「大いなる光が現われ・・・ 彼らに呼びかけて言った。『聞きなさい・・・ 私はイエス・キリストであり、あなたがたとともに永遠にいるものである』」

「そのとき、彼らの前に救い主キリストが元の姿ではなく、見えざる霊で現れた。しかし、主の容貌は、大いなる光の天使の容貌であった」

 唯物的ともとれる聖書の復活と、神秘的な外典の復活。なぜこんなに違うのか。

 イエスの復活を霊的なものと認める宗教的見地から見るならば、「イエスはこの世で罪人として死んでも、偉大な魂としてよみがえった」と理解できる。その意味で、ゾンビのような肉体そのものの復活ではなく、霊体が現れたか、霊の物質化現象として現れた、というのが真実といえる。

 そして、霊としての復活を認めることによって、イエスの神性は一層確かなものとなるのではないでしょうか。

 キリスト教では、転生輪廻思想が異端とされ、悪魔の思想であるかのように言われることがあるが、聖書にはこの転生輪廻の思想が断片的に残っている。

 マタイ福音書やマルコ福音書で、イエスは洗礼者ヨハネを「エリヤの再来」と呼んだ。また、ヨハネ福音書でイエスは、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と語っている。さらには、ヨハネ福音書で、イエスはパリサイ派のニコデモに対し、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と語っているが、ギリシア語聖書の正確な訳は、「人は繰り返し生まれなければ、神の国に(再び)入ることはできない」という。マタイ福音書の「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」という有名な一節も、「生まれ変わらなければ、天の国に入ることはできない」というものだという。

参考

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