悪霊との対決 己心の魔に勝てるかどうか、自己責任の立場を堅持すること
悪霊との対決は、外なる魔との戦いではなくて、それを呼び込んでいる「己心の魔」との戦いに、実は尽きている。
外なる魔の攻撃や憑依といっても、こちら側に、まったく取り付く島もない、すなわち引っかかるための執着がまったく無い状態では、魔は憑りつこうにも憑りつけないからです。
外なる魔の攻撃を封じるのではなく、己自身の迷いや執着、囚われを捨て去ってしまえば、魔の攻撃に敗れることはない。
大川隆法総裁は、魔との戦いにおいては、最終的には「不退転の心」しかないと教えてくださっています。
「わたしはこの信仰の元に生きる。一歩も引きさがるつもりはない。一生をこの教えに従って生きてゆく。」
信仰のロープを手放すことはないという決意。
口で言うのは簡単ですが、これが実際に、魔との直接対決する最中にあって、どれだけ実践できるか。それが勝負です。
自己変革の意志が無い人、自己責任から逃れて、外部に責任転嫁して、自分はいっさい反省しないタイプは、魔には勝てないと思います。
魔が自身の執着に憑りついて、その迷いを増幅してきた場合に、これは自分の本心ではない、迷える我だ、執着のところに悪霊が憑依してきているに違いない、と気づくかどうかは、その人の日頃の生き様が、顕著に影響すると私は思います。
本来、純粋な信仰者であって、こういう人が一時、迷いや苦しみの中にあるだけの場合は、その迷いや苦しみを一時的に増幅して、そこに憑りついて攻撃されることがあります。
迷いを増幅されて、その思いが自分の本心であるように、感情が膨れ上がってコントロールが効かなくなる。
ふだんはそこまで行かなくても、悪霊の憑依を受けて感情を増幅されると、異常な言動をしたりして、周りが見てもちょっとおかしい状態になったりするわけですね。
でもこれは、その人の迷いレベルが普段は1だったとして、そこに魔が憑いて3とか5レベルに肥大しているようなものであって、必ずしもその人個人の迷いが5というわけではない。
憑依が酷いと、自分の迷いや苦しみが5のレベルの大問題に思えたりしてくる。そういった感情や迷いの増幅が起きます。意図的に憑依される。
けれども、自己反省の心を持っている人は、まさにそういう状況に置かれた時にこそ、あ、これが悪霊の憑依なのか、という実体験と実感を得られるとも言える。
そして、その時にこそ、これは本来の自分の心ではない、呼び込んでいる迷いは確かに自分のものだが、そこに取りつかれて必要以上に迷いが増大して、その苦悩が自分の思いであるかのように感じられて、いま自分は悩乱しておかしくなっているに違いない。
そうした冷静な自己分析が出来るかどうか。普通は出来ないんじゃないでしょうか。悩乱の最中にあっては、そんな冷静な自己分析は出来ませんから、そういう時にこそ、自分を助けてくれる家族の愛とか、友人の大切さ、多くの法友を持っていること、などが大切になってくるわけです。
独りであっては魔に勝てない。ふだんなら大丈夫でも、ひどい霊的な苦しみの中に置かれたら、苦しみが増大して、その苦しみが自分の心そのものに思えて、人は絶望したら、悲観的になって自暴自棄になったりして、苦しみの海に沈んでいくことがある。これも、己心の魔なのです。
その己心の魔は、信仰心の弱さが露呈しているということでもあるし、その他、金銭の悩みであるとか、人間関係の悩みであるとか、異性問題であるとか、自尊心、名誉欲とかプライド、そういったさまざまな欲と、それを実現できない自己への不信感とか、劣等感。
こういった感情でドロドロになって、そこに悪霊が憑いてくるわけでしょう。
執着に悪霊は憑いてくるわけですが、そうした苦しみの中にあって、いま自分がこんなに苦しく感じているのは、その大本に、自分自身の己心の魔がどこにあるか。何を執着として、自分はしがみついて離さないでいるのかに気づかされるわけです。
他の人と自分を比べての劣等感・コンプレックスとか、同年代の人と比べて、経済的にも、家族関係も、友人・人間関係、仕事上の立場、その他、いくらでも悩む原因はあるけれども、そうした中で、自分と他人、社会への不満や怒りがあって、そこを増幅される。「納得がいかない、不当だ、自分はなぜこんな目に」のような気持ちこそがまさに執着です。
本来自分はもっと評価されてしかるべきなのに、そうなっていない、おかしい。こういうプライドも執着でしょう。そこにただの悪霊ではなく、悪魔レベルの存在が憑りついて唆したらアウトです。
自分に甘い人間は、ここでアウト。完全憑依されて離れません。
勝つことが出来るのは、自分に厳しく自己反省の出来るタイプです。
いや、これは断じて自分の本心ではない。不平不満を外部に転嫁してはいけない。悪いのは自分自身なのだ。未熟なのも自分自身なのです。
自分を不当に高く自己評価して己惚れる心。これこそが自分のまさに執着であった。こんなものにこだわって、己惚れているから苦しみが生まれ、そこを増幅されている。
この執着を捨てる。妙なプライドや自尊心、こうでなくてはならないという勝手な理想像としての自分、これも囚われだ。そんなものは要らない。裸の自分でよい。
生まれた時は何もなかった。何もない、はだかの自分でいいではないか。世の中でいちばん小さな人間であってもいいではないか。ひよっこでもいいではないか。
ゼロから人生をやりなおせばいいではないか。
そういった淡白な思いというか、爽やかさですね。こだわらない。自分の身に付いた、ガシャガシャとした余計な夾雑物、迷いを呼ぶ根源の考え方、それが執着。
いっぱいそうしたものが自分に付いていることを、初めてこうした時に人は知るのではないでしょうか。