諸法無我

 諸法無我 とは、空間的観点から考えて「一切のものは実在ではない。  すべてのものは、本来の世界から見たならば、夢幻の世界なのである」という思想です。  

 あなた方が「本当のものだ」と思っているこの世の出来事は、ちょうど夢のなかで見ている世界と同じで、目が覚めてみれば、何一つ本当のものではない。しかし、夢を見ている最中にあっては、あなた方は、夢になかで会っている人と実際会っているような感じがするであろう。建物も実感があるであろう。食べ物も実感があるであろう。相手の笑顔や仕草までわかるであろう。握手しても、手を握っている実感がするであろう。けれども、目が覚めたときに、すべてが夢であったことがわかる。しかし、それが単なる夢でなく、現実こそが夢であり、夢こそが現実であるという、恐るべき逆説が、人生最大の逆説が、そこに現れてくるのである。あなた方がこの世において現実だと思っているものこそが、実は夢なのである。この世に生まれ、魂として肉体を被って生きているけれども、これが実は、実在界と言われる世界から見たら、あの世における死なのである。あの世において魂が死んでしまい、いったいどこに行ったのだろうと思っているあいだに夢のような状態で、この地上で肉体に宿り、生・老・病・死を繰り返しているのである。  そして、また還ってくるのである。  

 こうしてみると、この世において、あなた方が実際に見ているすべてのものが仮の存在なのである。これを、諸法は無我である。すべての存在は無我であると言っているのである。要するに、自性なるものがない、自ずからなる性質がない、すなわち、それ自体として恒常なるもの、永遠なる存在は、この世においてはないということである。そして、この「法」というものは、単に「存在」の説明にとどまることなく、もっともっと深い意味において、大宇宙に経綸をも感じさせるものがある。すべての物質、物体、存在を無我ならしめているもの、そこに流れているものは、いったい何であるか。  そこに、仏のひとつの念いというものが流れている、あるいは、仏の念いというものが、すべての現象を仮に表わしてくれている、ということに気がつく。無我であるということは、本来は存在しないものであると同時に、また、ある念いによって仮に存在しているということである。そして、あなた方の魂修行の場を提供してくれている。本来、あるものではないにもかかわらず、ある偉大な力によって仮に存在せしめられていて、それが魂修行の場になっている。  これが「諸法無我」という教えなのである。だから、この世をあらしめているその力のなかには、また我なるものもない。すべてを生かしめ、育み、大調和のなかにおいている、そのような、滞ることもなく、引っかかることのない、偉大なる、目に見えぬ力というものが、そこに働いている。  その本源なる力もまた、無我なる力である。無我なる力の上に、無我なる存在が浮かんでいる。これが、大宇宙の実相なのである。

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