涅槃寂静

 涅槃とは、初期仏教においては、修行者の目的であって、非常に憧れをもって探求された境地である。 そして、その涅槃の境地を一番最初に味わい、自分のものとして享受したのが釈尊だったわけです。

 諸行無常で、変化変転する諸存在を捉え、諸法無我で、一切は空であると観じ、時間と空間、そのすべてにおいて恒常なるものは何もないという悟りを得る。そして、そのなかで現に存在し、修行をしている私というものはいったい何であろうか。この意味を追求することこそ、涅槃寂静の悟りなのです。

 すべての時間的観点から見た場合に、すべてのものは流れ去っていくものである。 そして、空間的観点から見ても、すべてのものには、本来、我なるものはない。 自性なるものはない。 永遠につづいていくもの、自分自身が生み出していく力によって続いていくようなものは、何ひとつない。 現にあるものはすべて、それ自体で成り立っているものではない。 何かによってつくられたるものであり、また、必ず亡びていくことが確定しているものである。 それが、この世の存在である。 時間において無常、また、空間において空。そのような思想のなかで生きている我とは何であるか。「我思う、ゆえに我あり」という思想もあるであろう。 しかしながら、そのような時間的・空間的観点において、何ひとつつかみどころのない、そのような縦と横の交わる交差点、 その十字架のなかに立っている我とは、いったい何であろうか。 それを深く考えなければならない。 そうしてみると、実は、本来の自己なるものは、この肉体に宿って、特定の名前を持ち、特定の両親を持っているあなた自身ではないはずである。 おそらくはそうでない。 空間的にも時間的にも、一切がつかみとることができない。 そのなかに生きている我のみを、ほんとうにつかみとることができるのだろうか。 そうではない。 その我というものも、実は、仏の永遠の時間と空間のなかで、仮に存在あらしめられ、その掌において、遥かに見えている存在である。 川にたとえるならば、その川を流れていく泡沫、その泡にしかすぎない。 そう、いつか川の中から、水の中から生まれ、そして必ず消えていくことになっている泡沫の自分。 その自分が、その泡沫のごとき自分が、「自分とはいったい何であるか」ということを考えている。 考え、考え、考えぬいて、そして永遠の実相なるものをつかみとっていく。 そこに涅槃寂静の境地が開けてくる。 すなわち、自分というものを通して、本来の姿を、その意図を、その光なるものを見ぬいていくこと。 そのためには、己というものを、限りなく空しくしていかなければならない。

 永遠なる実相というものを、現在只今において知ること。その悟りの力をもって、この現象界を生き渡っていくこと。生きながらにしてその悟りの世界に入ること。これが涅槃に入るということなのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『大悟の法』で以下のように説かれました。

「心の平和の境地のことを、仏教では「涅槃(ねはん)」と呼んでいます。死後に還る高次元世界、安らいだ天国の世界も涅槃の世界(無余涅槃〔むよねはん〕という)ですが、そういう天国の世界、如来界や菩薩界などの安らぎの世界を、地上に生きていながら手に入れること、生きながらにしてその状態に入ることも涅槃なのです。これを「生身解脱(しょうじんげだつ)」といいます。生前の解脱、すなわち、肉体を持って生きながら、涅槃という安らぎの境地、ニッバーナの世界に入ることです(有余涅槃〔うよねはん〕という)。ニッバーナ、あるいはニルヴァーナとは、炎を吹き消した状態のことをいいます。この炎とは肉体煩悩のことであり、煩悩とは悪しき精神作用の総称です。悪しき精神作用とは、要するに、乱れた音楽のようなものだと思えばよいでしょう。波長の乱れたガシャガシャした音楽は、長くは聴けません。それと同じように、非常に乱れた心の状態のままではいられないのです。煩悩の炎を吹き消した、非常に静かな状態が涅槃の境地であり、そういう心を求めるものが瞑想なのです。深い瞑想に入っていくと、この世的なさざ波の部分は消え、仏神と一体の状態になります。現象としては、まず、心が安らいできて、次に、温かい光が体のなかに入ってくるのを感じます。さらに、温かい光を感じるだけでなく、輝く光そのものが見えてきます。光のかたまりが見え、光の存在が現れて、それが自己と一体になってくるのです。こういう感じがよく分かるようになります。これが、金色の仏像などで表現されている状態です。瞑想のなかで、光と一体になる感覚が現れてくるのです。ここまで来ると、かなり確立された涅槃の状態だと言えます。仏教の理論によると、この世において、そういう心の状態をつくれば、高次元世界と同通することができます。自分の現在の心の状態に応じた世界に、死後、還ることになるのです。これが仏教の理論なのです。この理論が現実にそのとおりであることは、私の長年の経験で、すでに実証済みです。ただ、高次元世界の波長を出そうとしても、普通はなかなか出せるものではありません。たとえば、楽器の演奏でも、普通の人が「世界一のバイオリニストやピアニストのような演奏をしてみよ」と言われても、それは難しいでしょう。やはり、自分としての最高レベルというものがあり、そのレベルがどの程度であるかは各人の能力によります。そして、練習を積むに従って、常に最高に近い状態が出せるようになってくるのです。心の波長も、これとよく似ています。このようなものを求めることが、涅槃を求める心なのです。」

 「諸行無常」とは、「世の中というのは、変転していくものなのだ」ということであり、「諸法無我」とは、「この世に実体のあるものはない。この世において、目に見え、触れるものは、みな、消え去っていくものであるから、そういうものにとらわれてはならない。そうではなく、普遍的なもののほうに、心を向けていかなければならない」ということです。  

 「涅槃寂静」というのは、悟りの世界です。「あの世の悟りの世界は、寂静の世界、即ち、非常に澄み切った静かなところであり、汚れのない波動の世界である」ということです。 こうした「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の教えを悟れば、あの世―彼岸に渡れる、といったところでしょうか。

「過去・現在・未来という三つの世界(三時業)、その時間を人間は生き渡っていく存在である。その間の因果の理法は昧ますことができない。これが仏教の中心的考えである」  

 人間は、過去・現在・未来と流れていく時間の流れのなかに、そして諸法無我のなかに、いま忽然としてある自分を見つめることによって、時間と空間の壁を突き破って、本来の自己に目覚めようとする、大宇宙と一体、仏の心と一体の自己に目覚めようとする、そのような悟りを求めている存在なのです。

 幸福の科学では、今世さらなる悟りの高みを目指して『光明荘厳』なる教えも説かれています。これを如来の四法印と言います。

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