犯罪被害者になったとき

 恨みを持ったまま一生を生きてはいけないので、誰かの犯した罪は、やはりどこかの時点で許さなければいけない。

 人を憎み続けていると、自分が病気になったりして、自分自身も罰されてくる面がある。

 また、亡くなった子の「あの世での幸福な生活」を願い、供養してあげれば、その子の魂を救うことはできるが、親が憎しみの念波を強く持っていると、亡くなった子は、なかなか天国に還れない。

 犯罪を起こす人は、もともと不幸な人であることが多いし、それだけでなく、罪を犯したこと自体によって、もう十分に罰されている。

 さらには、人生の大きな試練や事件には、今世限りで考えても分からない、過去世の転生での体験など、霊的な原因があることが多い。仏や神の御心をそんたくして、この出来事のなかには、自分に対する何らかの「諭し」があるに違いない、と思わなければいけない面もある。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『超・絶対健康法』で以下のように説かれました。

「人を憎むということ自体に、自分自身もまた罰されてくる面があるので、やはり、どこかの時点で許さなければいけないのです。亡くなった子供は帰ってこないので、その子の「あの世での幸福な生活」を願い、供養してあげることが大切です。そうすれば、その子の魂を救うことはできます。しかし、親が、憎しみの念波を強く持っていると、亡くなった子供のほうも、「そうだ、そうだ。あいつが悪いのだ」と一緒になって相手を恨んでいます。そのため、なかなか成仏できず、天国には還れないのです。許しの心を持ったときに、成仏、すなわち天国に還ることが可能になります。裁判官が裁判において公平な判断を下すのはかまわないと思いますが、個人としては、ある程度のところで、「許す」という行為が大事です。犯罪を起こす人は、たいてい、不幸な人です。家庭環境や生い立ち、現在の状況を見ると、現実には不幸であることが多く、その辺を掛酌したならば、「許す」ということも、分からないことではありません。

 恨みを持ったまま一生を生きてはいけません。それが、宗教に触れることの意味でもあろうと思います。罪を犯した人も自分自身も不幸になるというかたちで、不幸な人をダブルで出してはいけません。相手は、罪を犯したこと自体によって、もう十分に罰されています。すでに罰されている人のことを、「もっと罰したい」と思い続け、自分自身も罪を犯すようなことがあってはいけません。根本的には、自分の幸福な未来、バラ色の未来が壊されたことへの恨みがあると思いますが、世の中全体を見るかぎり、バラ色の生活をしている人ばかりではありません。人生には、試練もあれば、苦しみもあり、いろいろな事件があるのです。自分が、そういうものに出会うには、それだけの理由のあることが多いのです。そして、過去世のリーディング(転生を霊的に読み取ること)をすれば、その理由が出てくることはよくあります。殺人事件などに巻き込まれる場合には、やはり、「過去世の転生に何らかの関係がある」ということが多いのです。特に、過去には戦争がたくさん起きているので、誰しも、転生の過程で、一度ぐらいは人を殺した経験があるのです。たいていは、人を殺したり人に殺されたりする経験を何度もしています。それが、今世、別なかたちで現れ、犯罪に巻き込まれたり、交通事故に遭ったり、病気になったり、いろいろなかたちで出てくることがあるのです。  今世限りで考えても分からないことはあるので、あまり相手を責めすぎないほうがよいのです。 「仏や神の考え、御心には、深いものがあるのだろう。この出来事のなかには、自分に対する何らかの『諭(さと)し』があるに違いない」と思わなければいけない面もあります。

 

障害者は「魂の教師」の役割を持つ

 大川隆法総裁は、『愛と障害者と悪魔の働きについて 「相模原障害者施設」殺傷事件』の あとがき で以下のように説かれました。

「障害者は、人間に、足るを知り、幸福とは何かを教える、魂の教師の役割を持っている。また不当な、劣等感・失敗感・挫折感により、神への信仰を見失った、競争社会のすさんだ人々を、救済する役割も障害者たちには与えられている。そして彼らの中には現実の天使も身を隠して潜んでいる」

 幸福の科学の教えによれば、人間の本質は肉体ではなく魂で、私たちはこの世とあの世を何度も生まれ変わり、魂を磨く存在だ。時には、使命を果たすために、あえて障害を持って生まれてくることもある。その使命の尊さは、健常者として生まれてくる場合と変わらないと言える。

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