孫子(孫武)の生まれ変わり

孫武 → 武田信玄 → ドラッカー

 幸福の科学大川隆法総裁が中国の革命家・孫文の霊言を行った時のこと。中国の革命家・孫文の霊は、中国の春秋戦国時代に活躍し、著名な兵法書「孫子」の著者である孫武は、ドラッカーとして生まれ変わっていることを明かした。

 そして、ドラッカーの魂は、日本の戦国時代にも生まれていたことが幸福の科学の霊査で分かった(2013年8月)。戦国最強の騎馬隊を擁した甲斐国の武将・武田信玄(1521〜73年)である。

 孫武、武田信玄、ドラッカー には共通点がいくつもある。

 軍事戦略を立てるには、まず何から始めるべきか。「孫子」には、『彼を知り己を知れば百戦殆うからず』という有名な言葉がある。戦う前に、自軍と敵軍の強みと弱点を把握すれば負けることはないという意味である。ドラッカーも、まず自他を分析・洞察することが大事な出発点と考えた。「あらゆる企業が自らの強みを知り、その上で戦略を立てる必要がある(『乱気流時代の経営』)」と説く。そして、企業はマーケティングによって「顧客が価値ありとし、必要とし、求めている満足(『マネジメント』)」を知らなければならないとする。

 また、孫武は『兵の形は水を象る」としている。水は器に合わせて形を変え、低いところに流れ込む。同様に、戦略や陣形も、敵の出方や変化に応じて自在に変えて、敵の弱点に勢力を集中させるべきという兵法である。この考え方には、ドラッカーが必要性を指摘する「イノベーション」の思想と重なるものがある。ドラッカーは、産業構造や人口構造、人々の認識、知識など、常に社会の変化を捉える必要性を強調。そうした環境や状況の変化に対して、企業は新たな製品やサービスを打ち出すほかに、組織そのものが変化することを求める。

 孫武とドラッカーの理論の中心には、ともに状況の変化に対して、自分も形を変えなければ、勝利の機会を掴めないという考えがある。

 さらに、「孫子」では『百戦百勝が最善ではない』とある。戦争は政治目的を果たす手段に過ぎず、戦闘はなるべく避け、外交や謀略で目的を達成する「戦わずして勝つ」のが理想ということである。ドラッカーの経営論には、「事業の目標として利益を強調することは、事業の存続を危うくするところまでマネジメントを誤る(『現代の経営』)」とある。利益は企業が存続する手段に過ぎず、企業の目的は社会への貢献であるということ。戦における勝利や企業が得る利益は、それ自体が目的ではなく、より高次な目的のための手段に過ぎないという。

 このように、孫武とドラッカーの2人は、まったく異なる時代、地域、立場から、非常に似通った内容を語っている。

 

 武田信玄は、『孫子』を誰よりも理解し、そこから引用した「風林火山」の文字を軍旗に記した。孫子の兵法を駆使し、屈強な騎馬隊を作り上げた信玄は、当時、織田信長陣営にいた若き日の徳川家康を大敗させるなどして信長を畏怖させた。無敵といわれた騎馬軍団を組織化し、5度にわたる「川中島の合戦」で上杉謙信を追いつめ、後に天下を取った家康も信玄と一戦を交え、恐怖のあまり逃げ帰った。急病で亡くなったため、天下統一はならなかったが、その時代、最強の武将であったことは間違いない。

 約130回の戦を経験した信玄の生涯勝率は約7割という驚異的な数字で、敗戦はたったの3回に過ぎません。

 信玄が負けなかった大きな要因の一つは、愛読していた中国の兵法書「孫子の兵法」にある、次のような言葉によく表れています。

 『善く戦う者は不敗の地に立ち、而(しか)して、敵の敗を失わざるなり』(上手に戦う者は、自分は「不敗」の状態にしておき、敵のミスや隙は見逃さない)

 信玄は強敵である北条家と今川家との間で同盟を結びました(甲相駿三国同盟)。これにより、攻め込まれる敵を減らし、信濃攻略に兵力を集中させました。

 情報収集を重要視した信玄は、「三ツ者」と呼ばれるスパイを多用。スパイからもたらされる情報を頼りに、大名の対立を利用したり、戦を仕掛けるタイミングなどを計算したのです。

 信玄は戦う前に勝率を高めていく手法を取りました。逆に、大量の犠牲者が出かねない、越後(現・新潟県)に本拠地を置いた上杉謙信との戦い(川中島の戦い)は、5度にわたって行ったものの、本格的な戦闘は1度きり。結局、信玄は謙信との戦いを引き分けに持ち込み、最小限の犠牲にとどめました。

 信玄は、このような戦略をとることでリスクを減らし、戦国の乱世を生き抜こうとしたわけです。

 また、信玄は優れた「領国経営者」としても知られている。甲斐の甲府盆地は、当初、常に川が氾濫し、農業に向かない湿地帯だった。だが信玄は、領民の生活のために大規模な治水工事を行い、「信玄堤」を築いて、穀倉地帯に変えた。

 また、漆や紙など価値の高い商品を産業化、日本で初めて金貨をつくるなど、国富を増大させた。信玄が示した統治手法は、その後家康が江戸幕府の民政や兵制の参考にしたため、「信玄仕立て」と言われた。これが260年続く江戸時代の基礎となった。

また、部下の能力を的確に把握して、適材適所の人事配置を行い、情報収集も巧みでした。

 信玄が大きな影響を受けたのは、禅の高僧たちでした。幼い頃から、臨済宗の岐秀元伯(ぎしゅう・げんぱく)などの一流の学僧から、禅や中国古典の教養を教えられて育ちました。

 信玄は、『論語』『易経』を始めとする儒教の書を読み込んで、倫理観を磨きました。兵法や軍略の勉強も行ない、『孫子』などを読んで自らの血肉とします。

 武田流軍学では、「後途の勝を肝要とする」、つまり目先の現象や感情に惑わされず、大局観に基づいて判断することが大切にされています。これは、「孫子」で言うところの『百戦百勝は善の善なる者にあらず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり』という思想に基づいたものです。

 

 信玄は「戦に勝つということは、五分を上とし、七分を中とし、十分を下とする」と述べている。完勝すると驕りや油断を生み、次につながらないからである。

 一方、ドラッカーは、「いかなる組織といえども、多くの分野において卓越することはできない。しかし、一つの分野において卓越することはできる」「市場において目指すべき地位は、最大ではなく最適である」とする。

 あらゆる分野において完勝することはリスクを伴う。そうではなく、自らの強みを伸ばし、その分野では負けない戦いをすることを重視していることが分かる。

 

 ところで、信玄は、漢詩や和歌、書画にも精通した教養人でもあり、中央の朝廷や公家、仏教諸宗派からも、とても信頼されていました。 

 甲府五山を開き、政情不安定な京都から多くの禅僧を呼び寄せ、甲府の地を京都・鎌倉に次ぐ「禅の文化センター」にもしています。信玄は、「武家の棟梁として、仏法や王法を守る」という使命感を、一生を通して持ち続けました。

 「剛毅で老練、政略家」という印象が強い信玄ですが、宗教や文学への理解が深いことからも分かるように、「人の心が分かる」リーダーだったのです。

 信玄は、自身の教養を戦や領土経営、人材活用などに生かしたのです。

 信玄の「人材活用」「人心掌握」にも、優れたものがありました。

 領地や領民に対する「経営責任」を負っていた部将たちは、「主君の御ため」より「わが身のため」を先に考える、油断ならない存在でした。それは武田家も例外ではありません。

 織田信長や上杉謙信のようなカリスマ型リーダーは会議が嫌いで、トップダウンの運営方式でした。しかし、信玄は、部下を交えた作戦会議を開き、みんなで十分に討議。その情報や作戦を第一線の幹部に伝え、徹底させました。「集団としての強さ」や「トップの分身」をつくる取り組みだったと言えます。

 信玄の「人事評価」は厳しいものでしたが、短所を持つ部下に対しても、「左様の者なり共、其の品々、つかう事は、国持ち大名の、ひとつの慈悲なり」と述べています。つまり、「人を生かすことがトップの愛だ」と考えていたのです。

 その方法として、長所と短所を持つ人材を組み合わせ、相乗効果を狙いました。例えば、口数の少ない部下はてきぱきと語れる部下と、性急な勇将は冷静沈着の智将と、温厚な武士は剛直で気の強い武士と組ませました。

 対照的な性格同士は相性が良いことを、信玄はよく知っていたのでしょう。信玄の「人間通」の側面がよく表れています。

 幸福の科学総裁大川隆法は、信玄には「中道からの発展」を目指している面があり、古代ユダヤの「メシア的な統治者にも当たる」と評しています。

 

 孫武は、古代中国に生まれて兵法を体系化した。戦国時代の日本で、その兵法を最高度に駆使した。そして、近代社会が築かれた20世紀、兵法を企業の「マネジメント」として新生させ、世界中の経営者や国家に繁栄の道筋を示した。孫武、武田信玄、ドラッカーとして生まれた魂は、転生の過程で「兵法」を進化させ、時代に応じて「イノベーション」をかけていることが分かる。

参考1   参考2   参考3   参考4   参考5

経営・マネジメント へ

「仏法真理」へ戻る