人は死んだらどうなるか?

1 霊と科学は対立しない  

 あの世への旅立ちにも科学的なしくみがあります。人が死んだときの話は世界中でだいたい同じです。科学では「現時点ではわからないもの」がたくさんあるので、科学的な常識で無いと言っても、それは「今の科学ではわからない」だけの事もたくさんあります。例えば、古代ギリシャの哲学者が「電気はある」と言ったとしても、当時は証明できませんから、人々は信じなかったかも知れません。  だからと言って「無いことにはなりません」。霊のことも同じで、霊界はこの物質世界(3次元)より高次元(4次元以上)であり、未来の科学です。例えば、UFOは物質のエネルギー振動を4次元以上に変えて4次元以上に次元転移し、4次元以上を移動して、出現したい場所で3次元の振動にもどす(物質化)と言う手法で宇宙を飛び回っています。つまり、私たちが宇宙に進出するには、ニュートンやアインシュタイン等の3次元の物理理論をこえなければいけないのです。例えば、タイムマシンを発明するには、光速の速さをこえないといけないのですが、これは物質では無理です。高次元の領域に入らないとできません。霊が未来や過去を見たりできるのは、その次元では光速を実際にこえているからなのです。霊(高次元)というのは科学と対立するものではなく、これからの未来科学そのものだと言えるでしょう。いま世界はそういう世界に入っていこうとしているのです。

 

2 あの世への旅立ち  

 人間は肉体だけでなく、幽体、霊体、意識、心と言ったものが折り重なってできている多層構造の存在のようです。  

 3次元は肉体、4次元は幽体、5次元は霊体、6次元以降は意識や心と言った本来の本体部分であるようです。つまり、元々我々は「心が本体」で一番奥らしいのですが、その次元のものが下位の次元のものを着ていって、霊体が幽体を着て、幽体が肉体を着ている状態が、今の地上の人間であると言う事です。なぜ我々は虫の知らせや幽霊が見えたりするのかというと、「そういうものを元々内部に持っているから」とも言えます。

 死ぬと言う事は、このうち「肉体を脱ぎ捨てる」という事です。まず、死ぬ時や死ぬ寸前に『走馬灯』というのがありますが、おそらく脳にある情報を霊次元にコピーする何かの機能ではなかと思います。次に『暗いトンネル』を抜けます。「トンネル」という概念は、次元と次元(場と場)を繋ぐ「通路(道)」と言う事ではないかと思います。幽霊トンネルというものがあります。あの世とこの世を繋ぐ通路になってる訳です。あるいは、宇宙人の円盤というものは、高度に発達したものなら、ドラえもんのどこでもドア式にAからBへ一瞬でつなぐのでしょうが、UFOの技術によっては3.5次元のような次元を航行するUFOもあるそうで、何十年も時間がかかるそうです。時空の歪みが波の揺らぎのように変化していて、その時の歪みによって近くなったり遠くなったりするそうです。それでも3次元を何万光年、つまり何万年もかけてくるよりも遥かに高速です。これはアインシュタインの理論により、物質は光速度を越えられませんが、霊次元(4次元以降)のものは光速より遥かに早いからです。霊が予言や予知ができるのも、霊速は実際光速度を超えられるからです。より高次元の次元を航行できるほうが、より遠くまで早くいける、という事のようです。「ワームホール」という概念もあります。タイムマシンですが、ブラックホールのような強力な重力場を作ってやればできるそうです。アメリカの秘密研究で実用化されているタイムマシンはこのタイプなんだそうで、第一次大戦の時の写真とか、過去の写真に現代風の服を着た人が写っているとかいう事例は、このタイムマシンのもののようです。

 

高次元を航行する宇宙船(UFO)の移動方法  

 ある場所と場所が4次元以降の座標から見ると近くなったりする場所があるそうで、そういう場所を通過するようです。いわゆるワープ理論です。視覚的に言うとテープの端と端には距離があるけど、グルッと回して端と端を繋げると距離が無くなる、テープの丸みは時空の「歪み」であり、この場合2次元の世界(テープ表面)を3次元の世界から見るとテープは歪んで見えるけど、そのテープの中(2次元)に住む住人にとっては真っ直ぐな世界の認識しか無い。では、この3次元を4次元から見ればどうかという話のようです。(『アインシュタイン「未来物理学」を語る』)

 人が死ぬとき、見るトンネルというビジョンは、肉体に宿る霊が別次元に移行する際に、なにか科学的な作用によっておき、それを霊が翻訳してトンネルと感じていると私は考えます。人間には、肉体と霊とをつなぐ『霊子線(シルバーコード)』というものがある。これは銀色のコードで、肉体の頭頂と霊体の頭頂を繋いでいます。  霊界で銀というのは科学の光線です。おそらく、この線が実際に肉体と霊体の間のデータをやりとりしているのでしょう。そして、人間が死ぬ時は心臓が止まった時ではなくて、この霊子線が切れた時だといわれています。心臓が止まっていても霊子線が繋がっている間は、肉体に痛みをあたえれば霊にも痛みが伝わります。つまり、霊子線が切れていない状態で内臓摘出をすると、霊体はそのまま痛みを感じます。  その前の段階の脳死は、無論人の死ではありません。昔から霊安室やお通夜といって、肉体をすぐには焼かずしばらく置いておくのは、霊子線が切れるのを待つため(きちんと死ぬのを待つため)であると言う事です。

 

3 霊界への移行  

 さて、人が死んだとき、まず地獄へ直行する人がいるそうです。よほど生前の行いの悪い人で、常時悪霊に何体も憑依されている人ですと、霊的な案内もなにもなく、真っ暗な縦穴に「わー・・・」というような感じで落ちていく人がいるそうです。  文字通り『奈落の底』に落ちていくような感じです。こういう人は言葉通り悪魔に魂を取られた(引きずられた)人でしょう。科学的に言えば、それだけ「比重の重い魂」になっている訳です。

 普通の人はまず、花畑を見るということがあります。これは、霊界案内の一つの指標、看板の役割があるのではないかと考えます。構造的には一種の入り口、エントランスかも知れませんし、霊界の人がそういうビジョン(世界)を整備しているのかも知れません。この花畑はなにかというと、霊界の光そのものではないかと映ります。  地上では花というのは、太陽光線を反射して目に映るものですが、霊界のものは光そのものです。花自体が光であり、光をはなって存在するものです。つまり霊界というのは「霊光」の世界、光の世界そのものだと思いますが、地上を離れてはじめに目にするものがこの霊的な光であり、それが霊界そのものであるとすれば、はじめに目にする霊光そのものが花畑に見えているのはないか。そして、これは一つの指標としての役割であって、これを目にするだけでかつて自分が霊界にいたときの記憶が呼び起こされるのではないかと思うのです。それはとても懐かしい感じ、ああそういうえば自分もかつてそういう世界にいたんだなあ、戻ってきたんだなあということをこのときに感じるのではないかと思います。

4 三途の川  

 次に三途の川を渡る訳ですが、その前に子供を堕ろしたことがある人ですと『賽の河原』というものを見ることがあるそうです。これはその人が気になっている、心に引っかかっているものが、それを呼び寄せるのですけど、堕ろした子供が何年前の子供であっても子供のままで、実際に川原で石をつんでいるのだそうです。  そして、自閉症のようになっていて、こちらから声をかけても子供は気がつかないそうです。人間の不幸と言うものは、そもそも親子関係に始まるものですので、「性の乱れ」は直接的に幸不幸に関わりが深いと言えます。  

 いよいよ『三途の川』を渡ります。これは、意識の境界線で渡ると戻れないとされます。つまり渡ってしまうと、地上的はこの時点で完全に死ぬわけです。この川を渡るときに、地上的な執着の強い人ですと、渡るのが大変で溺れそうになりながら渡る人もいるそうです。良い魂だと水面を滑るように渡る人もいるそうです。いずれにしても、比重の重い(地獄的な)魂か、比重の軽い(天国的な)魂かで違ってくるものです。川の底を見ると、この世的な執着を現すものが、たくさん落ちているそうです。お金とか物とか、そういうものです。霊体に付着していた幽体的なエネルギーとしての執着を死んだ人が渡るときに捨てて行ったものではないでしょうか。そういうものが重りになっている訳ですから、地獄的なものがどういうものなのか、多少推察ができるかと思います。川を渡って少し行くと『脱衣婆(だつえばばあ)』というものがいるそうです。水木しげるの妖怪辞典にも乗っていましたが、その霊人の衣服を脱がせて木の枝にかけると、衣服の重さで枝がしなり、そのしなり具合でその人の魂のできがどれくらいかを計るもののようです。衣というのはその人の幽体らしく、生前の念いが地上的地獄的だと重く、天国的だと軽くなるそうです。この世的なもの、物質的なものは比重が重いので底に沈んでいく、これが地獄です。逆に霊的なものは比重が軽いので上に上って行きます、これが天国です。  

 この世的な執着が多い、と言う事は魂にその物質念がたくさん付着するので、重くなって地獄へ行くと言う事です。執着を放せば成仏して天国へ昇る、と言うのはそういう事です。今一つは、霊の方はそれだけエネルギーの位相が高い(高エネルギー)と言う事です。物質の方が位相が低い状態になります。この辺が科学的な理由です。霊的なビジョンというのは、その霊人の持ってる知識情報を元に、科学的な霊エネルギー作用を翻訳して見ているものです。多くの場合、同じ現象でも人によって見え方は違ってきます。ただし、人が死んだときに起こる科学的霊的作用そのものは、洋の東西、時代の古今を違わず同じものであります。

 

5 魂の集まる場所  

 しばらくいくと人の集まるところにでるそうです。死んだ魂を集めて、その後どこへいくか采配するセンターのようなものです。昔なら瓦ぶきのお城に閻魔様がいて、という情景なのでしょうが、現代の人が行けばコンクリート作りの役所のような所かも知れません。あるいは霊界らしく光輝く塔のようなものかもしれません。これはその人の境涯とか意識によるでしょう。

 

6 一生の行いを見せられる  

 さて、そこで何をするかというと、要するにその魂がその後行くところを決定する訳です。その基準はもちろん、生前の思いと行いが善であったか、悪であったかです。まず何をするかと言うと、閻魔さまとか先に死んだ知人とかの見ている前で、生きていたときの行動とか思いのすべてを見せられるわけです。昔は『浄玻璃鏡』と言って大きな一枚鏡に映し出されたそうですが、現代では映画館のようにスクリーンに映し出されると言いますし、それこそ昔々なら湖にでも映したことでしょう。この映像には、その人の行動があまざず映し出されることはもちろんですが、その人の考えていることも全てだされます。この世ではうそやごまかしもできますが、あの世では一切のごまかしが通用しません。たとえば、表面何も言わなかったとしても、心の中で悪し様に言えば、そのことも評価の対象になります。キリストは、行いだけでなく思いによっても裁かれると言ったかもしれませんが、これは実際にその通りです。  また、「人が見てないからいいや」と言いますし、その言葉の対として「その人の行いはお天道様が見ている」という言い回しもよくしますが、後者はこれは実際にその通りなわけです。この映像の元は、その人の守護霊が記録しているものだと言いますが、この場合の守護霊というのは、霊界に置いてきた魂の部分(この世的には潜在意識とも言う)のことを言うので、実質的には自分自身の記憶と言ってよいでしょう。  あるいは、霊の『想念体』という記憶領域をつかさどるテープのような部分があり、それかも知れません。こうして、その人の生まれてから死ぬまでをずっと見せられるわけです。この時に見ている人に観客があるわけです。閻魔様(の役の人)とか、知人とか関心のある人、それから関連のある人です。たとえば、その人が多くの人に迷惑をかけたような人なら、その迷惑をかけた人がやってきて、そこで詰め寄られるわけです。「あの時はよくもこんなことをしてくれたな」とか。あるいは、観客のブーイーングとか、不陰気とかがものすごく悪くなるわけです。こういうのは恐ろしいでしょう。この世では隠しとおせたと思って舌を出していたような事まで詰め寄られるわけです。  逆に生前の行いがよかった人なら、賞賛とか感謝ということがあるでしょう。  こうして考えてみると、その人がどこで何をしていたかということはほとんど関係なくて、ただ人に迷惑をかけた存在か、人の役に立ったのか、というだけの事になってきます。