イエス・キリストの謎

 イエスの生涯が多くの謎に包まれている。聖書は30歳から3年間、福音を説き、十字架にかかり、救世主として復活するまでのイエスの歩みを記録しているが、それ以外はほとんど明らかにしていない。

 それというのも、紀元4世紀、聖書が編纂された際、イエスの生涯を記した数千に及ぶ文書の中から、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書だけを採用し、これ以外は「異端」として禁書にされたからです。

参考

「処女から生まれた」vs「正常な夫婦関係から生まれた」

 カトリックとプロテスタントに共通の使徒信条には、「(イエスは)聖霊によって処女マリアから受肉し、人となった」とある。これはキリスト教徒が信じなければならない最低限の信条。しかし、これを否定する考古学的な発見や、母マリアが属していたエッセネ派の特殊な結婚慣習から、イエスが正常な夫婦関係から生まれた可能性が提唱されてきている。

 

イエスの弟の骨箱

 マタイ福音書には、「この人(イエス)は、大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか」という故郷の人たちの言葉が記されている。

 ローマ・カトリック教会は、イエスの神性を強調して母であるマリアまでを「永遠の処女」と信じるため、この「兄弟」たちを「イエスの従兄弟」と教えている。

 ところが、2002年4月、イスラエルでこの教義を揺り動かす考古学的な発見があった。骨董愛好家のコレクションにあった骨箱に「ヤコブ。ヨセフの息子、イエスの弟」という衝撃的な銘文が刻み込まれていたという。これがイエスの弟のものなのか、真贋論争が続いているが、イエスに弟がいたことが事実なら、マリアの永遠の処女性だけでなく、イエスの「処女降誕」にも疑問符がつくものとなる。

 

結婚式のとき花嫁は妊婦だった

 イエスや母マリアが属していたユダヤ教エッセネ派という宗派の結婚制度から見ても、「処女降誕」が否定されようとしている。

 エッセネ派は、修道院に似た共同生活を行う一派で、1940年代に死海のほとりのクムランで発見された「死海文書」などによって当時の生活ぶりが明らかになってきた。これによると、男女は仮の結婚式の後初めて性的関係が許され、女性が妊娠3ヵ月になった時点で正式な結婚式を挙げるという慣習をとっていた。つまり、正式な結婚式のときには花嫁は妊婦だったということになる。

 さらには、仮の結婚式の前に数年間の婚約期間が設けられており、その間は性的関係が禁じられたが、ときに禁を破り、妊娠に至るカップルもあった。このとき、体面上、「処女が身ごもった」という言い方をしたのだという。

 現代でも、結婚式のとき、新婦のお腹が大きいことはさして珍しいことではない。イエスは、エッセネ派独特の結婚慣習の下で、正常な夫婦の営みの結果、生まれたと考えるべきなのだろう。

 釈尊がマーヤー夫人の右脇から生まれたという伝説を仏教徒が信じていなくても、釈尊の偉大さと釈尊に対する信仰は揺るがないように、イエスの偉大さも、正常な夫婦から生まれたとしても何ら変わらないはずである。

 

「青少年期はずっとナザレにいた」vs「実は他国で修行していた」

 ルカ福音書には、12歳のイエスがエルサレムの神殿で律法学者たちを相手に神学論争を展開して舌を巻かせた、とある。しかし、その後、イエスの消息はぷっつりと途絶える。13歳から聖書に再び姿を現わす30歳までイエスは何をしていたのか。伝統的なキリスト教はナザレ周辺にいたとするが、その一方で、インドやチベットでイエスが修行していた

 

イエスは仏教とエジプトの宗教を現地で学んでいた

 聖書では、青少年期の17年間のイエスの行動はまったくの空白。ところが、この間、イエスがインドで修行していたことを伝えるチベット僧院の古文書『イエッサ伝』が存在する。ロシアのジャーナリスト、ノートビッチの手によって1894年世界で初めて公表された。「イエッサ」こそイエスのことで、同古文書はイエスが14歳でインドに赴き、釈尊の生地カピラヴァストゥなどで仏教を学び、さらにペルシャでゾロアスター教を学んだという驚くべき内容だった。

 公表以降、ノートビッチは轟々たる批判を浴びたが、その後数十年にわたって、著名なヒンドゥー教学者や考古学者、文化人類学者らがインド・チベットで同じ古文書やさまざまなイエスの伝承を確認。イエスが仏教を学んでいた可能性は、かなり高いものとなっている。

 

エジプトの遺産を受け継ぐイエス

 地上の記録ばかりではない。霊界の記録においても、それは裏づけられている。霊界の記録をひもといて説かれた『黄金の法』などによれば、イエスは13歳のとき、エッセネ派の青年教師に連れられてエジプトに滞在。16歳のときに長老らとともに西インドに旅行し、さらに22~23歳ごろに再びエジプトで2~3年を過ごしている。この間、確かにイエスは各地で仏教やゾロアスター教を学んでいる。

 『エジプトの光とヘブライの火』の著者、アメリカのサウスウェスタン・ミシガン州立大のカール・ルカート名誉教授は、「イエスはエジプトの宗教を学んでいた」と主張する。イエスは子供時代に一時、エジプトに逃れたと聖書にあるが、その後、再びエジプトに戻ってエジプトの宗教を学んだと考えてよいのではないか。それほど、イエスの教えは、エジプトの神学的な遺産と結び付いている。

 イエスは、インドやエジプトなど当時の宗教先進国に行き、仏教やエジプトの宗教のエッセンスを吸収しながら、独自の思想を結晶させていったのです。

 

「生涯独身だった」vs「実は結婚していた」

 聖書では、イエスは神のひとり子と強調され、純潔であり、独身とされている。しかし、イエスがマグダラのマリアと結婚し、子供までいたと主張する研究者が増えている。その有力な根拠としているのが、異端として排除された外典のイエス。聖書と外典の間でイエス像が揺れている。

 

マグダラのマリアは「伴侶」  外典が明示するマリアとの関係

 『ダ・ヴィンチ・コード』は、外典のピリポ福音書の一節をイエス・キリストとマリアの結婚の根拠の一つに挙げている。

 「救い主の仲間(伴侶)はマグダラのマリアである。キリストはほかの弟子のだれよりも彼女を愛し、しばしば彼女に口づけをした。ほかの弟子たちはこれを見て感情を害し、怒った。弟子たちは『どうして私たちよりも彼女をそんなに愛するのですか』とたずねた。救い主は答えて『どうして私は、あなたがたを彼女のように愛せないのだろう』」

 ここで、マグダラのマリアを表す「仲間」という言葉は、「コイノーノス」というギリシャ語だが、「伴侶」という意味もあったという。文脈を素直に読めば、イエスとマグダラのマリアの関係は明らかである。

 

「カナの結婚」はイエスが新郎?

 ピリポ福音書を含む外典のグノーシス文書研究の第一人者、東大名誉教授・荒井献氏は、「何も外典でなくても、正典から二人が特別な関係にあったことは確実に言える」と解説している。

 「ヨハネ福音書の『イエス、マグダラのマリアに現れる』という復活の場面では、通常、イエスがマリアに『私に触ってはいけない』と言ったと訳されていますが、実は『すがりつくのをやめなさい』というのが正確な訳です。要は、抱きついていたのをふりほどいた。つまり、マグダラのマリアとイエスの関係は、親密なスキンシップが許される関係にあったのです」

 荒井氏は、後世、イエスが神の子として信仰されるようになり、特定の女性と親密な関係にあったという人間的な伝承は削除せざるを得なかったと推測する。ただ、正典から削除しきれなかった部分がどうしても残ってしまったという。

 ヨハネ福音書にある「カナでの婚礼」の場面もその一つだという説がある。不思議なことに、この婚礼はだれのものとも一切聖書に書かれておらず、「実はイエス自身が新郎なのではないか」という。イエスはこの婚礼の席で、母マリアから足りなくなったぶどう酒を追加して用意するよう促されているが、これが、イエスが招待客ではなく、祝宴を主催する側の新郎だった証拠だという。

 イエスは、このとき、最初の「奇蹟」を行い、水をぶどう酒に変えたが、聖書によれば、驚いた世話人たちは「花婿」に対して、「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と言う。つまり、イエスと「花婿」は同一人物としか受け取れないという。

 外典だけではなく、正典の聖書でさえ、イエスが結婚していた可能性を示し、その相手がマグダラのマリアだったことを暗に“証言”している。

 これは、キリスト教の教義からすれば「冒涜」といえるかもしれないが、イエスが結婚していたからといって「神の子イエス」が否定されるわけではない。