5000年前に「出雲神殿」

 縄文時代は、具体的にどのような風景だったのでしょうか。

 残念ながら、日本では、土器や骨、石器などしか、当時の風景を描く材料が残っていません。日本の建物は木の文化であった上に、土壌の酸性度が強く、その多くは原型を残していないためです。そのため考古学では、地面に柱を建てた跡の穴から、当時の様子を推測するしかありません。

 ひと昔前まで、縄文時代の建物はすべて「竪穴式住居」といわれていました。これは、「地面を掘りこんで、ここに木と植物を使ってテントのようにする」というもの。そのため教科書の挿絵や博物館、貝塚公園などで“再現”される「当時の様子」は、「薄暗いテントの中で、地べたに座って暮らす人々」でした。

 しかし、その後、縄文時代にも一部「高床式建築」があったことが分かり始めました。これは、宗教建築や身分の高い人たちの住居は、「木の床」だったことを意味します。

 古代文字で書かれた歴史書『ホツマツタヱ』には、当時の神殿について「柱頭にはコカネ(黄金)をはめ、漆で赤く彩色し、渡り廊下もある」という描写もあります。

 ちなみに現在確認されている、「最も高い縄文建築」は青森県の三内丸山遺跡にあるもの。4階建てビル相当(推定15メートル)の柱が立っていたことが分かっています。

 しかし、その構造物の姿はいまだに不明です。現地に再現された六本柱も、「その姿は見た人の判断にゆだねる」ということで、柱のままになっています。つまりこれが、巨大な高床式神殿だった可能性もあるわけです。

 4階建てビルの高さでそびえる神殿なら、出雲大社にあったと言われているような巨大な階段も備えていたかもしれません。それが美しく装飾され、内部や周辺には美しい土器が並ぶ。5000年前の日本には、思わぬ風景があったかもしれません。

 

出雲の高層神殿  

 10月は神無月といいますが、出雲では神在月といいます。世界中の神様が、旧暦の10月10日から一週間出雲大社につどい、次の年の政治のあり方を相談し、決めるのです。西の方から来た神様は、万九千神社に集まり、その後出雲大社に行かれました。東の方から来た神様は佐太神社に集合し、出雲大社に行かれました。また、出雲大社では、西側にある稲佐の浜で神迎えの神事も行われます。出雲は神々の集う所なのです。

 島根県の出雲大社の社殿によると最古の社は、32丈つまり、96メートルの高さがあり、後に半分の16丈となり、斉明天皇の時に現在と同じ8丈(24メートル)となったとあります。  平安時代の貴族の教科書といわれて「口遊(くちずさみ)」(970年に源為憲による)では、「雲太・和二・京三」といわれていたといいます。つまり、出雲大社が太郎で一番大きい。大和の東大寺の大仏殿(当時15丈=46メートルあった)が、二郎で二番目。京都の大極殿が三番目の大きさで三郎という意味です。大極殿は、当時の政治の中心です。

 これらは、伝承に過ぎないと思われていたのですが、2000年、現在の社の前庭で、3本の巨木を束ねて作られた巨柱の痕跡が発見されました。1本直径1.4メートルの柱を3本束ねたもの。何種類かの復元がされています。  この出雲大社も、伊勢神宮と同じ宮司や天皇しか入れない至聖所、神官が入ってお仕えする聖所、一般の人がお参りする所(拝殿もしくは門の前)に分かれています。古代イスラエルのヤハウェをお祭りする幕屋やソロモン王によるヤハウェの神殿の形式と同じなのです。    小石豊によると、出雲の高層神殿は聖書に記された故事を想像させるといいます。  モーセの後継者ヨシュアがカナン(現在のイスラエル・葦原の国)を征服して、十二支族に土地を分割した時、ヨルダン川の東を与えられルベン族、ガド族、マナセ族の半分は、西のその他の支族と同一のヤハウェに帰神していることを示すために高層神殿を築いたと聖書の「ヨシュア記」第22章10節~11節にあります。ヨルダン川の西の支族がこれを不審に思って問い合わせたところ、河でへだたってしまったが、同じヤハウェに仕えていることを後代の証拠とするために築いたのだと説明し皆が納得したといいます。アッシリアに征服されるまで、約700年間それはそびえ立っていたのではないかといいます。

 平成12年地下祭礼準備室の建設に伴う事前調査により発掘された柱を元に復元したもの。但、柱の成分分析から宝治2年(1248年)造営の本殿の可能性が強いとされる。そうするとこの96メートルの想像図は巨大過ぎるということになる

 エジプトの奴隷の状態であったイスラエルの民は、モーゼに率いられて脱出しました。これを「出エジプト」といいます。そして、モーセの次のヨシュアの時代に神の祝福を受けた地カナン(葦原の中つ国の意味)に定住します。  アッシリアに前722年に征服され奴隷状態におかれていたイスラエルの失われた十支族は、アッシリア末期の混乱に乗じてユーフラテス河を渡り、新天地を求めて東へシルクロードを移動し、ついに新天地日本列島にたどり着きました。たどり着いたのが出雲の稲佐の浜で、その浜に上陸の記念として高層神殿を築きます。これが、ヨルダンが東岸に立てられたヤハウェの礼拝所の故事にちなんで建てられた出雲大社であるというのです。  話は前後しますが、上陸後指導者によって、日本の各地に十支族それぞれの住むべき土地が与えられました。同じ、イスラエル民族であることを忘れないために、嘗て契約の箱を安置していたヤハウェを祭祀した幕屋の設計図をたづさえていって、それぞれの居住地にこの図通りのヤシロ(社)を建てました。このように推測するしか日本の各地の村々に至までイスラエル・ユダヤ形式の神社が建てられていることを合理的に説明できないとのことです。もちろん無抵抗で日本列島に住み着いたわけではなく、現地の縄文人の激しい抵抗を排除しての移住であることは、カナンへの移住と同様でした。  日本の各地へ散った十支族の長は、年に一度集い政(まつりごと)の相談をしたのではないかというのです。これが、神在月の謂われではないかと類推しています。 「ヤシロ」の「ヤ」は「ハヤウェ」を示す。「シロ」は、カナンの地で「契約の箱」が永く祭られていた聖地「シロ」から取った。つまり、「ヤシロ」は、「ヤハウェの礼拝所」を意味する言葉であるというのです。

 出雲大社の祭神は、現在は大国主命とされていますが、古来、スサノオ命ともされていますので、指導者は、スサノオの命か、大国主命(スサノオ命の子とも、6世の子孫ともされている)であるということになります。

 近畿、北陸の一宮(それぞれの国の中心の神社)の祭神にスサノオ命・大国主命の一族がほとんどですので、大国主命を王とするイスラエルの十支族により出雲朝という勢力が築かれていたということになります。  さて、小石豊によれば、この後ユダヤの二支族も日本列島に上陸し、この出雲朝と対立します。結局大国主の息子の事代主命は、宮崎県の高千穂からやってきた二支族の王に服属します。これが神武朝に対する国譲りつまり、降伏ということになります。このとき徹底抗戦をして諏訪の地に逃れた事代主命の弟の建御名方神を祭る諏訪大社では、アブラハムのイサク献納の祭りとしか言えないミサクチの祭りが残されていることも、これを傍証するのではないでしょうか。  神社の発祥は、縄文時代に三内丸山遺跡に代表されるような高度の自然と共生する文明を築いた縄文人の自然崇拝の祭祀に由来することも多いと思われます。しかし、イスラエル・ユダヤ民族による日本の建国が正しいかどうかは別にしても、現在の神社の八割の祭神がスサノオ命一族であるという調査結果からも出雲朝が神武朝の統一の前に、日本の中央部の大半を統治していたことが伺えます。  なお、日本の神社には、祈るためのシンボルとして鏡などがあったりしますが、基本的には偶像はありません。これも、偶像を禁止したヤハウェの信仰と合致しているのではないかということです。しかしながら、失われた十支族は偶像崇拝に傾きやすい民でした。古代メソポタミアのバアル信仰なども、牛の像を祭っていたりすることからもたらされたのではないかということです。日本におけるイスラエル・ユダヤ系の神社とされるものに共通することですが、現在ヤハウェが祭神であるという神社はありません。イスラエル・ユダヤ系の神社が日本にあるならば、仏教が支配勢力になるなど、ヤハウェの神殿・礼拝所であることを隠さねばならない理由が生じて祭神の名を隠した。あるいは、イスラエル系の天皇が実権を失い、本当の権力者の命令によって祭神が現在のようになってしまった。つまり、ヤハウェ神をカモフラージュするために別の名前で呼んで現在にいたっているということになるのではないでしょうか。