歴史の「IF」 太平洋戦争で「戦わずして勝つ」

 日本は、幕末以降イギリスやフランスなどの列強国が中国大陸をはじめアジア地域を植民地にしている状況を脅威に感じ、経済発展と国防の強化に努めます。これが「富国強兵」です。その後、日本が朝鮮半島の安定を目指した日清戦争、ロシアの南下を食い止める日露戦争で勝利を重ねると、逆に日本が欧米列強から警戒され始めます。特に、同時期に国力を伸ばしていたアメリカは、満州など日本が中国大陸に持つ利権の獲得に動き、利害が対立。日本の台頭を抑えるため、日英同盟も破棄させます。アメリカは、1930年代から、ヨーロッパで領土拡張を続けるドイツの侵攻に直面したイギリスを助けるため、ドイツと同盟国の日本と戦争状態になるように外交交渉を誘導。日本を対米戦争に追い込みました。

 大局的に見ると、この太平洋戦争は、東西の2つの新興の大国がぶつかった「覇権戦争」だったと言えます。

1945年夏、太平洋戦争で日本はアメリカに敗れた。「太平洋戦争に負けた」 これは動かしようのない事実だが、この敗戦は、果たして日本という国家に運命づけられたものだったのか。

 歴史を繙けば、当時の政府や陸海軍は、その時々で多くの選択肢を持っていたことが分かる。その中から一つひとつの判断を積み重ねてきた結果、戦争に負けたのである。

 もし、重要な局面で違う判断を下していたら、その後、まったく異なる展開があったはずです。当然、「戦わずして勝つ」こともできたでしょう。

ターニングポイントで、どうすれば日本は勝てたのか。国家が自らの意志によって運命を切り拓く道筋を探ってみます。

参考

1 1905年 日本は米国との満鉄共同経営を受け入れるべきだった

 桂・ハリマンの間で共同経営の調印

→満州を舞台に、日米が共に経済発展

→日米の軍事協力も強化される

→日米の利害が一致し太平洋戦争は起こらない

 

2 1914年 日本は欧州に陸軍を派遣し、日英同盟を維持すべきだった

 第一次大戦でイギリスの要請に従い、陸軍二個師団を派遣する

→西部戦線で、英仏軍と力を合わせて戦う

→ワシントン会議で、イギリスが味方に 日英同盟も継続

→日英同盟が強化され後の連合国の側についた

現実 英米に不信感を持たせた

 1902年、日英同盟が結ばれた。背景には当時のイギリスの苦しい状況があった。

 南アフリカのボーア戦争をめぐって国際的に孤立。拡張主義のロシアへの牽制やアジアにある植民地維持のため、アジア方面に同盟国を必要としていた。

 一方、世界一の海軍力を誇る大国イギリスを味方につけた日本は、その2年後、従来から脅威だったロシアとの戦争(日露戦争)に踏み切り、アメリカの仲介によって辛勝する。

 1905年、アメリカの鉄道王ハリマンが来日。桂太郎首相と南満州鉄道(満鉄)の共同経営の仮調印を行う。だが、小村寿太郎外相の猛烈な反対で仮調印を破棄。アメリカは、日本に警戒心を抱くとともに、中国大陸の日本の利権を狙い、日英同盟の解消を画策する。

 また、イギリスは、第一次大戦(1914~18年)でドイツに苦しめられ、日米両国に欧州戦線への応援を要請。アメリカはこれに応じた。日本は、地中海に海軍を派遣したものの、陸軍は一兵も送らず、再三の要請を拒否し続ける。イギリスはこの大戦に勝ったが、戦死者が90万人に及び国内経済も疲弊。非協力的な日本に対して同盟国としての疑念を膨らませた。

 英米に不信感、もしくは反日の言質を与えた日本は、大戦後のワシントン軍縮会議で主力艦の保有量比率を対英米比6割に抑えられ、アメリカ主導で有名無実の四カ国(英米仏日)条約を結ばされた。同時にイギリスから日英同盟を破棄される。

 1905年、満鉄の日米共同経営を実現するには、賛成派だった井上馨や渋沢栄一など政財界の要人が反対する小村寿太郎を説き伏せることが必要だった。

 日本政府は、日露戦争の際、ハリマンに戦時公債500万ドルを引き受けてもらった恩義がある。共同経営が実現すれば、当時の日本が資本主義国として成熟し、高度成長が始まり、経済大国への道を走り始めたと指摘する専門家も多い。歴史評論家の三野正洋氏も、「アメリカは土地をくれというわけでなく、鉄道の利権の一部を渡せと言っていた。一緒にやってどんどん立派な鉄道をつくっていけばよかった」と指摘する。

 当時、鉄道を基幹産業としていたアメリカが、この時期に満鉄に高度な技術や資本を投資すれば、第一次大戦後の好景気も手伝って、日米共に国力を増したことは間違いない。

 また、鉄道を維持するには、列車内や駅、線路周辺の警備が不可欠。日米共同で警備体制を強化することで、地域の治安ばかりか、日米の軍事面での協力体制もできていたはずである。

 これに加えて、第一次大戦でドイツに苦しめられていたイギリスの要請に従い、日本は西部戦線に陸軍二個師団を送るべきだった。英仏の兵士と共に厳しい塹壕戦を戦い抜くこと自体が重要であった。孤立主義をとっていたアメリカよりも早く派兵したときのインパクトは大きい。

 日本がイギリスに積極的に協力していれば、ワシントン軍縮会議で日本の主力艦の対米比率7割という主張を、イギリスは認めていたはず。第一次大戦で疲弊したイギリスが、東アジアにおける自国の権益を守るためにも、日英同盟の継続は欠かせなかったであろう。

 日本が、満鉄の共同経営や西部戦線への派兵などを通じて英米という強国との相互利益を図り、外交の鉄則である「遠交近攻」を行えば、その後台頭してくる中国大陸の軍閥に日米英が共同して対応できた。その結果、太平洋戦争そのものが起こらなかったのではないだろうか。

 

3 1937年 日本は蒋介石と日中講和を結ぶべきだった

 南京攻略後、首脳会談を開き日中講和を結ぶ

→日本は満州を除いて、中国から撤退する

→アメリカが日本を非難する理由がなくなる

→日米対立の大きな要因が消え、太平洋戦争は起こらない

現実 日中戦争の泥沼化

 日本は、1900年の義和団の乱以降、諸外国と同様、北京周辺に陸軍を駐屯させていた。1937年7月、北京の南西15キロの盧溝橋で、日本陸軍と蒋介石率いる国民党軍が衝突。日中戦争の火ぶたが切られた。

 衝突のきっかけになった銃声は、日本軍と国民党軍を戦わせて漁夫の利を得ようとする毛沢東の中国共産党によるもので、その背後にはソ連の存在があったとされる。

 その後、日本陸軍は10月に上海、12月に国民党政府の首都・南京を攻略。この頃、日本政府・陸軍内には日中講和を模索する動きがあり、蒋介石も一時応じる姿勢を見せた。

 ところが、ソ連の工作の影響か、近衛文麿首相が、1938年1月に蒋介石との和平交渉の打ち切りを宣言。逆に、強硬策を打ち出し、日中の全面戦争へ道を開いてしまう。

この戦争は日本に利益がないばかりか、兵力や自国経済を疲弊させるだけのものとなっていた。日本は早く日中講和を実現させ、満州を除いて、中国本土から撤退すべきだった。講和実現の大きなチャンスは南京攻略時だったであろう。日本軍が圧倒的な強さを見せつけた後で、近衛首相が蒋介石と直接会談し、面子を立てる形で講和に持ち込めば、合意に達した可能性が高い。

 蒋介石を支援するアメリカは、1938年の初め、緊縮財政による「ルーズベルト不況」で外国にモノを売りたい時期で、まだ日本に物資を売っていた。ただ、1939年から積極財政に転換して景気が持ち直したため、それまでに日本が中国から手を引いていれば、アメリカが日本を非難する理由は消えた。

 

4 1941年 日本はハル・ノートを世界に公開すべきだった

 アメリカが日本を過度に追い詰めていることを世界に訴える

→日本が戦争をしたいわけではないことを訴える

→アメリカの「不戦」色の強い世論を味方につける

→アメリカは日本と戦争できなかった

現実 アメリカが不戦から参戦へ

 1939年9月、第二次大戦はドイツのポーランド侵攻で始まった。ドイツには当初欧州全土を制圧するような勢いがあった。

 これを脅威に感じたチャーチル英首相は、アメリカを参戦させようとする。ルーズベルト米大統領もイギリスを助けたかったが、第一次大戦のダメージが大きく、米世論は「不戦」一色だった。

 そこで考え出したのが「迂回作戦」である。日本を追い詰めて対米戦争を起こさせれば、日本と同盟関係のドイツは自動的にアメリカと戦うことになり、アメリカの参戦が実現する。

 結局、ABCD包囲網などで経済封鎖された日本は、英米の思惑通り1941年12月に真珠湾を攻撃。ルーズベルト大統領は事前にこの奇襲を知っていたと言われるが、米世論は一夜にして参戦に転じ、兵隊に志願する若者も急増した。

 アメリカでは、1939年9月時点の世論調査で、国民の97%が欧州戦線への参戦に反対。1940年11月の大統領選で、ルーズベルト大統領も「不戦」を掲げて3選を果たしていた。こうしたアメリカの世論を日本はもっと利用すべきだった。たとえば、1941年11月にアメリカが突きつけたハル・ノートは事実上の最後通牒。中国からの全面撤退など、当時の日本には苦しい条件ばかりだった。

 このとき、日本政府は、その内容を全世界に公開し、「アメリカは無理難題を突きつけてきた。だが、私たちは平和を守るために妥協点を探りたい」などと訴えればよかった。国際的に同情が集まるほか、アメリカ国内の「不戦」の世論をも味方につけることができ、ルーズベルトは参戦できなくなったであろう。

 

5 1941年 日本はオランダから強引に石油を買うべきだった

 世界に窮状を訴え、オランダと石油を買う交渉をする

→拒否されても、強引にスマトラ島の石油を買う

→オランダ・イギリスと戦ったとしても勝てる

→ABCD包囲網を突破できた

現実 対米開戦を決めた日本

 アメリカ(America)とイギリス(Britain)は、中国(China)とオランダ(Dutch)を巻き込み、1941年夏までに日本への石油などの物資輸出を止めた。いわゆる「ABCD包囲網」である。

 窮した日本は、9月の御前会議で、10月上旬までに通商回復などの要求が受け入れられなければ、英米蘭に対して開戦する方針を決めた。

 ところが、10月に入ると、近衛首相が「戦争には自信がない」と政権を投げ出し、天皇の意を受けた東条英機内閣が戦争回避の道を模索する。

 しかし、11月にアメリカからハル・ノートが提示されると、これを「最後通牒」と受け止めた東条内閣は対米交渉を断念。12月1日の御前会議で開戦を決定し、12月8日、アメリカとイギリスに宣戦布告し、太平洋戦争へと突入していった。

 ところで、日本は本当にアメリカと戦う必要があったのか。評論家の日下公人氏は、「オランダだけを相手にすれば、石油を確保しつつ、アメリカとの戦争も避けられた」と指摘する。その手順は次の通りである。日本は窮状を世界に訴えて同情をひきながら、オランダと石油交渉をする。拒否されたら、タンカーと連合艦隊を一緒にオランダの植民地・スマトラ島パレンバン油田に派遣して、強引に石油をもらい、代金を振り込むというもの。

 当時、オランダは、本国をドイツに占領されており、日本と戦う戦力はない。仮にイギリスが介入しても、マレー沖海戦で日本の連合艦隊が戦艦プリンス・オブ・ウェールズなどを沈めたように勝つ可能性は高い。アメリカの世論は、オランダの、それもアジアにある植民地のために戦うことを許さないであろう。

 

その時々で数多くの選択肢が存在していた

 戦前では当たり前だった人種差別、保護貿易主義によるブロック経済化という時代背景のために、確かに日本が「戦わずして勝つ」という道筋を実現するのは難しかったかもしれない。国内の天皇、内閣、軍の間のあいまいな責任体制の問題もあった。

 しかし、それを前提にしても、その時その時で数多くの選択肢が明確に存在し、リーダーの見識や器によって選び取ることは可能だった。ただ、現実的には当時のリーダーの判断は、消極的で対症療法的なものがほとんどだった。

 毎年、夏になると、日本中が戦争の「罪」の部分を振り返るムードになるが、同じ振り返るのであれば、「では、もし同じ状況になったら、どういう判断をすべきなのか」を反省することの方がはるかに重要であろう。

 今の日本は戦争状態にはないが、中国をはじめとした一党独裁国家の軍事的脅威は確実に大きくなっている。今後、何をきっかけに日本やアジアの平和が崩れるか分からない。リーダーの決断一つで国が興り、また、滅ぶのである。