幸福の科学教学によるユング分析心理学および仏教教理の現代的再生

 世間では、人間の「心」を「脳」が生み出すものと説明するテレビ番組や書籍が非常に多い。しかし、ユング心理学や仏教教理など、心の唯物論的解釈とは相容れない学問も多い。

 HSUプロフェッサーの金谷昭氏は、過去の学問的成果を確認しつつ、幸福の科学教学によるそれらの現代的再生を論じる。

 近年、脳神経科学等の発達によって、人間の「心」を物質などの働きに還元し、心は独立して存在するのではなく、脳の一部でもあるかのように考える風潮が蔓延している。

 一方、最近の風潮とは異なる心の理論もある。C・G・ユングの「分析心理学」は、心の深層部分における無意識領域の存在を提起している。実は、この分析心理学と大乗仏教で説かれる「唯識」や「如来蔵」といった仏教教理との類似性が、これまで仏教学・心理学双方の論者によって指摘されている。

 

ユング心理学と仏教教理の比較

 ユングは、人間の「意識」の奥に「個人的無意識」、さらにその奥に「集合的無意識」の存在を想定した。これが、唯識で説く「六識」「末那識」「阿頼耶識」の3層構造と大体において対応すると言われることが多いが、この考え方は妥当でしょう。

 ユングは最深部の集合的無意識を人類共通の経験の貯蔵庫だと述べ、一方の阿頼耶識は、人間の過去世の業から生じ、あらゆる現象の種子を宿すとされている点において両者の意味は重なる。

 仏教には「如来蔵」(仏性とほぼ同義)の思想もあり、阿頼耶識との関係については諸説ある。しかし、一般的には、如来蔵は阿頼耶識の中核にあり、一切衆生が宿している仏との同質部分と解釈できよう。

 ユングの分析心理学において如来蔵に相当するのは「自己」(Self)であり、意識から集合的無意識まで含めた心全体の中心を指している。この自己の働きによって意識と無意識が関わり合い、心全体を調和させつつ人間としての完成へ向かうことをユングは「個性化」と呼ぶ。つまり「個性化」とは、仏教における「如来蔵の顕現」「悟り」と対応するものと考えられる。

 時代と地域を大きく隔てた2つの学問に見られるこれらの共通性は、その内容が普遍的な真実を含むことを強く示唆する。 

 

ユング心理学の限界と幸福の科学教学

 一方、幾人かの論者が指摘するように、分析心理学にはある種の限界もある。例えば、ユングは科学的に「霊は無意識のコンプレックス」と述べる一方、信仰の対象になりうる「霊の独立した存在」に言及するなど、立場がやや混乱している。幸福の科学教学では、心理学の説く無意識界を霊的世界であると同定することで、こうした分析心理学の混乱の多くを一掃している。

 例えば、分析心理学では、集合的無意識にある形式やパターンを「元型」と呼び、それらが「影」「老賢者」等々としてイメージ化されるというが、幸福の科学教学では、「影」は悪霊の影響、「老賢者」は守護・指導霊の導きとして、具体的かつ鮮明な解釈が可能となる(注4)。

 また、集合的無意識における「すべての人間とのつながり」(自他一体)という考え方は、華厳教学の「事事無碍法界」と同質の思想だが、これも幸福の科学教学では「生命の大樹」等の説明で現代人にも分かりやすいかたちで語られている。

 さらに、幸福の科学教学の「人の心境が霊界の多次元構造に対応する」という論点は分析心理学では見られない。これは、人の心はそれに相応しい霊的世界に通じるとする天台智顗の「一念三千論」や空海の「十住心論」の現代的展開でしょう。

 わずかな例を挙げたが、幸福の科学教学を通して見ることで、「心」に関する伝統的な仏教教理、そしてユング心理学を包含しつつ現代的に再生する理論構築が期待できる。

 仏教界も現代の唯物論的風潮に流されているが、豊富な心の理論を持つ自らの伝統へと立ち返り、霊的視点を取り戻すべきではないでしょうか。