「革命」はどうやって起こるのか

内戦に外国を引き込んだ江戸幕府

 「革命」はどうやって起こるのでしょうか。

 世界でも珍しい「無血革命」だった明治維新はどうだったのか。

 19世紀後半は、欧米列強が東アジアへの侵略を強め、日本も中国のように領土が切り取られてしまうのではないか、という危機感が広がっていた。

 しかし、慢性的に財政難の幕府は、国防を強化するためのお金が十分にない。近代的な海軍づくりを始めてはいたものの、その歩みは遅々としたものだった。

 この理由は幕藩体制そのものが「地方分権」体制だったことにある。徳川将軍家は最大の大名で、諸大名の中の盟主ということにすぎず、全国から税金を集める権限が与えられているわけではない。徳川家の領地からの収入だけで海軍や陸軍を編成し、全国的な防衛態勢を築き上げるということそのものに無理があった。

 かたや、長州藩や薩摩藩は、大坂などの商家に対して借金繰り延べや金利大幅減免を強行しつつ、”殖産興業”を図り、早くから財政再建を果たしていた。その実力を背景に両藩は、「このままでは欧米の植民地になる」と幕府を突き上げたのだった。

 特に、倒幕をめざして実力行使に訴える長州藩の”暴走”は止まらない。

 幕府は長州など反幕勢力を叩き潰そうと、フランスから借金し、陸軍を拡充しようとした。フランスから軍事顧問団も招いた。その額は幕府の年間予算の半分ぐらいにのぼり、勘定奉行の小栗忠順はフランスに対し、担保として北海道の開発権を差し出したという。1866年秋のことである。

 

フランスはインドシナを植民地化し、その次に・・・

 実はまったく同じ時期、フランスはインドシナ(ベトナム)の植民地化を着々と進めていた。

 その発端はその約60年前に国土統一を果たした指導者をフランスの義勇軍が支援したことに始まる。その指導者は皇帝として即位し、フランスはその見返りにキリスト教の布教を認められた。しかし皇帝の後継者がキリスト教関係者を処刑する事件が起こり、フランスは1960年代に艦隊を派遣。今のベトナムやカンボジアを保護国化し、フランス領インドシナ連邦として統治するにいたった。

 幕末、フランスは徳川幕府を全面的に支援し、こんな構想まで入れ知恵していたという。

「徳川幕府が長州などを武力討伐し、徳川家の専制体制をつくり、将軍が『大統領』となるべきだ。そのための資金と軍隊は提供する」

 小栗はこの構想に乗るかたちで行動していた。フランスがベトナムで味をしめたとするならば、徳川”政権”を維持するために外国の軍隊を引き込む小栗の計略は、フランスとして、「次は日本」という最悪の事態を呼び込むものだった。

 内戦を前に幕府の依頼で、フランスからの軍事顧問団が日本にやって来た。

 江戸幕府は長州などとの内戦に備え、フランスから巨額の借金をした。 その際、北海道の開発権を担保にしたという。

 1867年、徳川幕府は大政奉還を申し出た。

 国を守ることより”政権”を守ることを優先する幕府を薩摩藩などが見限り、明治維新が実現した。

 一方、長州藩にもその2年前、同じ問題が降りかかった。

 1864年、英仏米蘭の4ヵ国連合艦隊から下関を報復攻撃され、その講和の話し合いをしたときのことだ。イギリスのクーパー提督が講和の条件として、下関南端にある彦島を「租借したい」と要求した。

 イギリスは同じことを中国に仕掛けて成功している。1840年のアヘン戦争後、清朝に香港を割譲させ、さらには対岸の九竜半島を租借した。同じことを下関の彦島でもやろうとしたというわけだ。

 クーパー提督の言葉を聞いた長州藩代表の高杉晋作は、「(同じくイギリスが支配していた)上海のようになってしまう」と直感。とっさに晋作は「そもそも日本国なるは高天原より始まる」と大演説を始めた。

「はじめ国之常立神ましまし、続いて伊邪那岐、伊邪那美なる二柱の神、現われまして天の浮橋に立たせたまい、天沼矛をもって海をさぐられ、その矛の先からしたたる滴が島々になった」

 つまり、国産みの日本神話について滔々と語り出した。1日でも2日でも続けそうな気配にクーパー提督は、「租借については撤回したい」と折れるしかなかったという。

 国を売るのか、守るのか。この違いは決定的なものである。

 薩摩藩は1966年1月に「薩長同盟」を結んだ後も、「倒幕」にまでは踏み切らず、徳川家と雄藩が協力する「公武合体」を模索していた。しかし、外国軍を引き入れてまで自分たちの”政権”を守ることに汲々とする幕府を見限るにいたった。はるかに先行していた長州藩の強硬な倒幕路線に薩摩藩がようやく追いつき、明治維新が実現したのだった。

 国が売られようとしているならば、革命が起こる。当然の帰結だったと言える。

 

「自由の創設」としての「革命」

 「国が売られる」ということを別の言葉で言えば、「自分たちの運命を自分たちで決めることができない」ということだ。

 イギリスやフランス、その他の欧米列強に領土を切り取られていた清朝は、欧米に自国の運命を委ねてしまっているような状態だった。

 これを跳ね返し、「自分たちの運命を自分たちで決めよう」とするのが、「革命」だと言ってよい。

 1775年、イギリスに対する独立戦争に始まった「アメリカ革命」は、まさにそうだった。

 1600年代初め、イギリスなどからアメリカに入植した人々は、信教の自由を確立すると同時に、自分たちの手でアメリカを繁栄させたいと考え、日々奮闘していた。そこにイギリス本国は、印紙税や関税など次々と税金を課してきた。植民地には本国の議会に出て、意思決定に加わる権利が認められていない。

 「アメリカはアメリカで自分たちの運命を切り開いていきたい」

 それがアメリカ独立戦争とその後の建国の原動力だった。哲学者のハンナ・アーレント(1906~75年)は、「革命とは自由の創設のこと」だとして高く評価している。

 幕末・明治期の日本には、欧米列強による侵略と植民地化の危機がひたひたと迫っていた。そこで、自国の運命を他国に委ねさせないために下級武士たちが命を顧みず立ち上がり、明治維新が起きた。これも「自由の創設」だった。

 150年後の現代の日本も、他国の侵略を受ける危機が目の前に迫っている。

 果たして、「自由の創設」としての「革命」は起きるのだろうか。

 

 先の戦争は、明治維新の理想をアジア全域にまで広げたものだった。つまり、アジアを植民地支配する欧米各国を駆逐し、人種差別に満ちた世界を終わらせることをめざしたのでした。

 大川隆法総裁の次男・大川真輝氏は、近著『正しき革命の実現』で、こう指摘している。

「大東亜戦争自体は、『「日本という国の立てた大義を世界中に広げていく」という意味での世界規模の革命運動だった。それを、日本国民が総意として起こそうとしたものだったのだ』と思うのです」

「日本は、神仏の思いに確かに沿ったかたちで、大きな世界的な革命運動を起こそうとしたわけです。大東亜戦争は、大義のはっきりした革命運動でした」

 その大義は、世界で50ヵ国程度だった戦前の独立国が戦後は何倍にもなり、今では200カ国近くのぼったことで実現した。

「自分たちの運命を自分たちで決め、切り開く」ことができる独立国を100カ国以上も生み出した日本は、世界規模の革命の提唱者であり、実行者だった。

 それを安倍氏は安倍談話で真っ向から否定した。

「満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした『国際秩序』への『挑戦者』となっていった。進むべき進路を誤り、戦争への道を進んで行きました」

 安倍首相がここで述べている「国際秩序」は白人優位の人種差別思想でできあがったものだ。その「挑戦者」となることは、まさに日本の”大義”であり、世界規模の革命運動だったのだ。

 安倍首相としては、マスコミや周辺国、アメリカなどの批判を避けたかったのだろう。そのおかげで政権がしばらくは安泰になるのかもしれないが、国家としての”大義”を捨て去ってまでやることなのか。

 

吉田松陰の革命思想と大東亜戦争

 革命は、それに先だって革命思想が現れる。

 東洋の革命の原理は、孟子が説いた易姓革命にいきつく。「天帝は特定の人物が建てた王朝に地上を治めさせるが、その流れを引く人物が徳を失ったら、天帝が見切りをつけ、革命が起きる」というものだ。

 天帝の下した判断が、革命思想となってまず地上に現われてくる。

 明治維新の場合、中心的な革命思想は吉田松陰によるものだった。

 松陰の思想はこういうものだった。

「天照大神の子孫である天皇の下に、人々はみな平等である。一人ひとりが一斉に立ち上がり、日本を他国の侵略から守らねばならない」

「そのために朝鮮半島や満州、台湾、フィリピン、さらにはインドからも欧米による植民地支配を駆逐すべきだ」

 一君万民論、草莽崛起、尊王攘夷を松陰は命を賭して訴えたわけだが、幕末維新の時代を小説に書いた作家・司馬遼太郎は、当時の長州藩について吉田松陰を「教祖」とする一つの「狂信的」な宗教団体だと指摘していた。

 まさに「天帝」からの革命思想の直接的な受け皿になって、幕藩体制をひっくり返す革命の震源地になったのだった。

 確かにその後の100年間、日本は松陰の言葉どおりに動いた。松陰の弟子たちによる明治政府は、士農工商や武士内の上士・下士の差別をなくし、四民平等を実現した。

 大東亜戦争では、「天照大神の御加護と天皇陛下の御徳の下に、アジアの国々は一つの家のように平和的に繁栄しなければならない」という八紘一宇の精神を掲げ、欧米の植民地支配を一掃した。

 松陰の思想が、「天帝」や日本の神々の願いそのものであったことの証明であろう。

 

新しい革命思想の時代

 アメリカ革命も宗教的な考え方が革命思想の役割を果たしている。

 アメリカ独立戦争が起こる最大の要因となったのは、アメリカの植民地で独自の通貨を発行しようとしたが、それを本国が禁止したことにあるという説がある。イギリスに通貨発行権を握られていれば、自分たちが築いた富をいつ本国に奪われるか分からなかった。アメリカに入植した多くの人たちは「神の恩寵として富が与えられる」と考えるプロテスタントだったために、その教義と信仰心から革命に立ち上がったというのだ。

 今の時代は、新しい革命思想が大川隆法総裁によって説かれている。

「すべての人が神仏の子として幸福になることができる」

「才能や努力によってどこからでも道が開け、豊かになることができる社会をつくるべきである」

「自分たちの運命は自分たちで決めることが大事で、他国に支配されて奴隷のようになることは悪である。自国民の自由を奪い、神仏の子として生きられないような境遇に置くことも悪である」

「何千年の歴史のある世界宗教を愛の教えによって改革し、宗教対立を終わらせる」

 新しい革命思想は、人類を幸福にする革命を起こしていくものであり、世界神というべき存在の願いである。

 大川真輝氏は『正しき革命の実現』で、大川隆法総裁によって「神意がどこにあるか」が明示されているとしたうえで、こう述べている。

「その意味で、今は、私たちが人間心で、あるいは、人間の頭で、『いったい何が正しいのか』『どちらが正しいのか』ということを考え、悩まなくてはいけないような時代ではありません。神意が目に見えるかたちで提示されているのです。

 それを受け取ったのであれば、そこから先は純粋に動いていきましょう。私たち神仏・天上界を信じる者であれば、純粋にそれを信じて動いていくことが求められます。これが、『霊性革命』『政治革命』『教育革命』の、三大革命を実現していくために大切なことなのではないでしょうか。

 正しき革命を実現するために、まず、神仏の存在をはっきりと認識し、その御心がどこにあるかを確かめ、それを受け取ったのであれば、あとは純粋に動いていくことです」

 この考え方は、孟子の革命思想や「知行合一」の陽明学そのものだと言える。

「志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず、勇士は其の元(かうべ)を喪うことを忘れず」(志士は理想のためなら死骸となって捨てられても構わない。勇士はいつでも首を取られることを覚悟している)

 吉田松陰が「孟子」を講義した『講孟箚記』にある言葉である。この人生哲学を貫き通した生涯を遺したからこそ、松陰は明治維新と大東亜戦争の淵源となった。「世界幸福革命」の理想に命を惜しまず行動する人が一人出るだけで、時代は動き始める。