幸福哲学

 記号論理学が入った難解な哲学は、本質的なものを求める学問であったはずの本来の「哲学」ではない。

 実存主義哲学などは、人間や人生の本質に照らせば、まったく的外れなことを議論している。

 しかし、哲学史に燦然と輝くギリシャのプラトンは、はっきりと魂の存在を肯定して、その著作を書いていた。

 近現代の哲学者の多くは、プラトンの著作の霊的な部分を理解できないために、その部分にあえて触れないことで、プラトンの巨大な哲学を矮小化していると思います。本来の哲学は、真なる宗教と対立するものでも矛盾するものでもない。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『生命の法』で以下のように教えておられます。

「二千年前や二千五百年前の宗教や哲学などを学ぶと、「魂」という言葉は幾らでも出てきますが、現代に近づけば近づくほど、霊的な色彩は薄れ、「精神」や「心」、あるいは、「脳の作用」「神経の作用」という表現になってきます。そして、そのように考えることが、学問的な進歩・進化であるかのように思われがちです。たとえば、哲学という学問は、現代では、数学的な考え方や記号論理学の考え方などが入ってきて、非常に難解なものになっています。そのため、「哲学書を読んで、魂が浄化されて、きれいになり、悟りを得られる」ということはなくなっています。哲学は、昔とは違った学問に転化しているのです。  ただ、プラトンは、はっきりと魂の存在を知っていて、その存在を肯定していました。彼の一連の著作には何度も何度も魂の話が出てきます。しかし、それを読んでいる近現代の哲学者の多くは、霊的な体験がないために、魂の存在について触れていないことが多いのです。デカルトやカントあたりから、精神と肉体を分けて考える傾向が強く出てきたので、その影響もあるでしょう。 神と肉体を分けて考えることは、「学問の細分化、専門化」という意味では、確かに諸学問を発達させた面がありますが、逆に、それによって物事の本質が見えなくなった面もあると思います。魂の存在を抜きにして、正しい人生のあり方や人生の意味をいくら問うても、根本的な解答を得ることはできません。この世の部分だけを取り上げて人間の生き方をいろいろ議論しても、本質に辿り着くことはできないのです。十九世紀後半から二十世紀にかけて、実存主義哲学が流行りました。実存主義哲学は、いろいろな人が説いているので、一概に要約はできませんが、その背景にある思想は、「人間は、自分が望んだわけでもないのに、偶然に、この世に投げ出され、何をどうしたらよいかが分からない不安のなかを、手探りで生きている存在である。そういう盲目的な人生を生きているのが人間なのだ」というものです。この思想は、私が説いている、「人生の目的と使命」や、「人間は、長い転生輪廻の過程を通し、繰り返し、この世に生まれて、人生修行をしている」という教えから見れば、まったく的外れなものであることが分かるでしょう。実存主義の哲学者が説いていることは、たとえて言えば、子供が、「ある日、気がつくと、私は小学一年生になっていて、ある山間部の小学校の教室で、机に向かって座っていたのであった」と言っているようなことに近いのです。「私は、なぜ、ここにいるのか。私は、なぜ、このような勉強をしているのか。私は誰なのか。それが、さっぱり分からない」ということが、現代的哲学の一つの姿であると思います。」