社会保障

 社会保障は扶助・保険・医療・福祉の4つが柱です  

 わが国の社会保障は、①生活保護など「公的扶助」、②健康保険や年金など「社会保険」、 ③保健サービスや医療など「公衆衛生・医療」、④障害者や老人福祉など「社会福祉」の4つがあります。

 その一つである「社会保険」は、①医療のための「健康保険」、②失業・雇用や労働災害の保障をする「労働保険」(雇用保険と労災保険)、③引退後の生活を安定させる「年金」、④老人に対する「介護保険」の4つからなっています。

 社会保障の考え方

社会保障を考えるための基本と心理的・倫理的誘因

社会保障を考えるための基本

 まず、社会保障は「相互扶助」であることを忘れてはなりません。そして「公平かつ適切」が基本です。この場合の「公平かつ適切」とは、負担と受給が比例するという「公平性」ではありません。セーフティネットとして適切な水準が保障されているかどうかという公平性を意味します。社会保障は、負担など「収入と給付の均衡」を保たなければなりません。負担と給付の均衡は、単に「保険料と給付が均衡する」ということではありません。保険料に限らず、税金負担や資産運用益でも、また、個人でも企業負担でもよいわけです。「どれだけ給付し、どれだけ負担するか」、または「どれだけ負担し、どれだけ給付するか」の問題であり、その国の経済にも影響します。社会保障は救済にとどまる問題ではありません。人びとが「活きいきと生活できる」ようにすることが最大の目的です。お金だけでは解決できない問題もあります。社会保障を充実させたとしても社会と接し社会に参画できる環境にすることが必要です。

 

心理的、倫理的な誘因がはたらく

 福祉があまり充実しすぎると働く意欲が減退するといったように、社会保障も人びとの心理や倫理観、活力に影響することがあります。

 適切な年金制度は人びとに安心感を与えます。しかし、年金があまり充実しすぎると引退を早めるといったように、人びとの心理や倫理、活力に影響をあたえる 「インセンティブ」 (誘因) や 「モラル・ハザード」 がはたらくことがあります。また、所得が多い人の保険料負担を高くしすぎると、年金に加入しなくなったり納付しなくなるといった「逆選択」という現象が見られることがあります。

社会保障ではたらくおもな心理

インセンティブ(誘因)

 例えば、在職年金で、年金を支給停止にする所得制限を緩めると、就労をうながすインセンティブ (誘因) が働き、逆にあまり緩め過ぎると、高額所得者への年金支給がインセンティブとなって 不公平感をもたれる。

モラル・ハザード  

 あまり社会保障が充実しすぎると、自助努力や活力が失われる。また、不正受給といった倫理観の問題も発生する。

逆選択  

 高額所得者の保険料負担を重くしすぎると、年金に加入しなかったり保険料を納めないなど、逆選択がおきる。そのため、かえって加入している人の保険料を引き上げなければならなくなる。

 

社会保障給付費

 社会保障給付費は、国民が利用した医療や介護費、高齢者らに給付される年金額の総額で、その財源は、医療保険、介護保険、年金などの社会保険料と税金です。

 現在の社会保障制度は、昭和48年(1973年)の「福祉元年」がベースになってできています。

 この根底には、「高い税金を使って、国が国民の面倒を見る」という社会主義的思想があります。

 昭和48年(1973年)以前は、医療費の窓口負担は5割、国民年金の支給額は夫婦二人で1ヵ月2万円でした。それでも、日本人は普通に暮らしていました。

 しかし、その後、「選挙対策」としての社会保障の給付拡大が続き、今では毎月の医療保険、年金保険を払うために、2万円から5万円、一家の大黒柱であれば、7万円から10万円の負担を強いられています。

 これだけの負担をしていたら、医療サービスを受けなければ損だと考える人が出てきても不思議はありません。

 残念ながら、現行制度は自立している人にとっては負担が重く、国に依存している人にとってはお得な制度となっています。

 年金、医療、福祉その他に使われている社会保障費用の推移をみると、昭和48年(1973年)から急増しています。昭和47年の社会保障費用は4.9兆円でしたが、4年後の昭和50年には11兆円と2倍以上になり、2010年(平成22年)時点の社会保障費用は103兆円にまで達しています(年金52兆円、医療32兆円、その他18兆円)。

 昭和48年(1973年)は田中角栄内閣が2万円年金を5万円に増額し、年金の支給額を物価上昇に合わせて増やす改正を行った年で「福祉元年」と言われます。しかし、同年10月にオイルショックが発生し、税収は減少。そこで保険料の引き上げが必要になったのですが、すべての政党が引き上げに反対。さらに、物価の上昇が続いたため、年金の支給額はどんどん膨らんでいったのです。こうして保険料と税収入に見合わない年金支給を放置した結果、年金債務(将来支払う年金)は増加し続けました。その結果、2009年時点の年金純債務(年金債務から積立金を引いた額)は800兆円に達しています。

 そして、政府は、経済成長率が年2%前後などの基本ケースの場合、2040年度の社会保障給付費は、2018年度の約1.6倍にあたる約190兆円になるという推計を発表している。高齢者が約4000万人になる2040年度の介護費は、約2.4倍の約26兆円に上り、給付の全体が経済成長を上回るペースで増えると見られます。

 また、たとえ財源が確保できたとしても、介護や医療などの人手不足も深刻化。2018年度の従事者数は、全就業者数の13%に当たる823万人ですが、2040年度には、19%に当たる1065万人が必要になると推計されています。

 2015年度の年金、医療、介護などの社会保障給付費 114兆8596円

 国民1人あたりの給付費 90万円3700万円

 社会保障給付費は毎年2~3兆円ほど増え続けており、今のところ減少する兆しはありません。114兆円ものお金が給付されているということは、一方でそれを負担している人もいるわけです。社会保障の財源は、本来「保険料」でまかなうべきですが、それでは足りなくなっているため、年々、税金で補填する割合が大きくなっています。「保険料」も半強制的に徴収されますので、事実上の「税金」といえるでしょう。2016年ベースでは、給付費の4割が国税と地方税でまかなわれることになっています。

 参考

 現在、政府が提供している福祉など公共サービスの費用をそのまま国民に負担してもらう場合、世帯の平均所得が890万~920万円ないと維持できない計算になる。2014年時点で1世帯あたりの平均所得は529万円。各世帯が毎年400万円ぐらいの過剰サービスを政府から受けていることになる。MIYAKO85_kurimatoukaranoichibou20140725-thumb-815xauto-17304

 政府は現在の制度を維持するため、小手先の対策を行っています。高齢者医療費の自己負担分を引き上げ、現役世代が払う介護保険料を増やすなど。増大する社会保障給付費は、増税を正当化するための根拠としても使われています。

 消費増税をしたら税収は減ってしまう。今の社会保障の仕組みを維持しようとしたら「何らかの税金や社会保険料など、国民の負担を増やさないといけない」という議論は続くでしょう。

 もちろん、社会保障の仕組みをまったくなくしてしまうのも非現実的です。

 65歳以上の1人当たりの社会保障費は、2010年時点で253万円です。これは、ある現役家庭がリタイアした父母2人に、約500万円を毎年「仕送り」しているのと同じです。児童のいる働き盛りの世帯の平均所得は688万円なので、とても出せる金額ではない。制度自体に無理があります。

 さらに、この社会保障の総額は、高齢化などに伴って、毎年3~4兆円のスピードで増えています(年金、医療保険、介護保険などの合計)。一方、消費税を2%上げても、増える税収は年に4兆円でして1年でチャラです。

 税金と、年金や医療、介護といった社会保障を合わせた「国民負担率」を見てみると、昭和時代は20%台だったのが、今や43.4%にも及びます。もはや、江戸時代の「五公五民」です。

 「国家が老後の面倒を見てくれる」「あらゆる薬や治療法についてサポートしてくれる」と考えるならば、働いても自由に使えるお金がほとんどなくなり、息苦しい社会になってしまうでしょう。

 社会保障関係費ですが、国民の皆様が支払った保険料収入は、約7兆円弱です。言い換えれば、20兆円以上の公費=税金が投入されていることを意味します。内訳は、基礎年金の5割、医療保険の約4割、介護保険の約6割となります。本来ならば7兆円で運営するべきものを、3倍の税金で補填していたわけです。その結果、私たちの医療や介護の自己負担は、確かに低く抑えられていました。ただ、当制度を維持するために「税金の大判振る舞い」が行われていたということを知らなければなりません。

 社会保障が専門の学習院大学の鈴木亘教授によれば、経済学的に、これほどの公金が投入される理由は薄いと指摘します。よって、増税の前に社会保障にこれだけの税金が必要かどうかの見直しは不可欠です。

 社会保障支出の見直しを、専門的には「選択と集中」と呼んでいます。中心的な議論は、保険料負担の引き上げと支出の抑制が論点となります。負担の引き上げとは、保険料負担の引き上げを意味します。支出の抑制とは、支給額の引き下げです。いずれにしても、政治的には困難を極める問題であり、国民に不人気な政策です。

 例えば、小泉政権時代に決定された後期高齢者医療制度(実施は福田政権から)においても、高齢者の方からの猛烈な反発があることをみれば、いかに社会保障分野にメスを入れるかが政治的に難しいかを物語っています。

 では、消費税ならばよいのでしょうか。実は、消費税を増税しても、本当に福祉のために使われる保証はありません。

 むしろ、医療や介護のために支払った保険料は制度上確実に使用されるわけですので、保険料引き上げの方が増税よりも正当性はあると言えます。

 社会保障は確かにありがたい仕組みですが、何事も行き過ぎれば悪となります。老後の生活や介護は原則自己責任と考え、家族や近所でサポートする仕組みを基本としなければ、社会保障費は増え続ける一方です。

参考

 昔は、まず家族による生活保障があり、次に地域による扶助があり、さらに宗教による救済があった。それでも救えない層について、ようやく国が面倒を見るというのが基本スタイルである。

 年金制度は、1880年代にドイツで導入されたものだが、日本が本格的に採り入れたのは戦後になってからです。ここで押さえておきたい単純な事実は、人類はこの数千年の歴史のほとんどの期間を、年金制度なしに生きてきたということである。

 ミルトン・フリードマン(1912~2006)は、1980 年に『選択の自由』で公的年金の廃止を訴えた。

 「現行の福祉政策の大半は、そもそも制定されるべきではなかった。制定さえされなかったならば、今ではこれらの政策に依存しなくてはならなくなっている人びとの多くが、国による被保護者となるのではなく、自立している個人であったはずだ」

 こう指摘したのは、経済学者のミルトン・フリードマンです。その代表的著書『選択の自由』で、「公的年金制度の廃止」を真正面から論じている。

 なぜフリードマンは年金廃止を訴えたのか。それは、意外にも、「人道的ではない」という理由からです。
 フリードマンの議論の要旨は以下の通りです。
 社会保障とは「若い世代から年老いた世代への所得の強制的な移転を意味している」。昔は、これを親子・親族で行ってきた。この家族による社会保障は、「人びとの自発的意思」に基づいて、「親身に」行われてきた。「子供が両親を助けるのは義務からでなくて、愛情から」だった。しかし、国による社会保障は、「若い世代は、強制と恐れのために誰か他人の両親を扶養するため、献金をさせられている」という。つまり、強制的・非人格的・非効率・非人道的」であるから、公的年金制度は廃止すべきだと言うのである。今、「年金制度はやめるべきだ」などと言おうものなら、「非人道的だ」と言われかねないが、フリードマンはまったく逆の意味で、非人道的だと主張した。

 つまり、公的年金制度は、せいぜいこの2~3世代の文明実験であったわけで、「年金がなければ生きていけない」というのは、一種の思い込みであると。

参考

現代の福祉政策

 社会保障をどう考えるかは、人間の本質をどう見るかという「人間観」の問題と深く関わっている。その意味で、実はきわめて宗教的なテーマでもある。

 近代社会保障が生まれた背景には、一つは欧米諸国のキリスト教的人間観がある。キリスト教の博愛の精神は、マザー・テレサの活動のように確かに素晴らしい面もある。だが、その根底にある人間観は、神の手によらねば救われない罪深き存在という、消極的で弱々しいものである。

 もう一つが、マルクスに始まる社会主義的・唯物論的人間観である。そのユートピア思想や弱者救済の精神はいいとしても、富める者から奪って貧しい者に分配することが権利であり正義であるという理論の奥底には、富者への嫉妬心や闘争心がある。この嫉妬心が、抑圧的な〝貧しさの平等〟を生んだことは、旧ソ連の崩壊によって証明済みです。

 一方、幸福の科学が拠って立つ仏教的精神によれば、人間の本質は神の子、仏の子であり、仏に向かって限りなく成長していく性質(仏性)を備えた、善なる力強い存在である。要するに、救われる立場ではなく、一人ひとりが自らを救っていける立場にあるのだ。その可能性が万人に与えられている点にこそ真の平等があり、ここから「個人の自助努力という基本姿勢が導かれる。

 そして、そうした人間が、自らが仏の子であることを示すために必要なのは、権利を主張してエゴイスティックに争うことではない。仏の属性である「智慧と慈悲」を、自らの自由性において発揮すること、しかも、それを権利ではなく聖なる義務として行うことである。社会保障の分野でいえば、智慧とは自由な創意工夫から生まれる新たなシステムやサービス、あるいはマネジメントであり、慈悲とは共生の思想や利他の心、西洋的に言えばノブレス・オブリージの精神などから生まれる、寄付行為などである。

 こうした人間観へのシフトによって、新たな繁栄の社会が出現するとき、医療や介護、年金の問題は、これまでとはまったく違った形で解決を見る。必要なのは、私たち国民の自己イメージの転換であり、マインドの転換ではないでしょうか。

国家のモデル

福祉の目的

 幸福実現党の社会保障制度は、自助努力の精神を基盤に、必要なところに保障が行き渡る政策だ。これは家族というものを一つの自然なセーフティネットと定め、関係が薄れつつある家族の絆を深める制度でもある。それは、決して昔返りを勧めるわけではなく、本来の家族のあり方を基盤に、諸外国とは異なる社会保障で人々の幸福追求を支えるという、日本から世界に発信していくモデルケースの一つとすべき考え方なのです。

参考

 本来あるべき社会保障とは、事情があって身寄りがない人には生活保護を与えるが、基本的には家族や親族の絆を見直し、身内で支え合える社会を作ることです。

 現代のように核家族、少子・高齢化が進んでいると、例えば親の面倒を子供が見るにしても、経済的負担は大きく国の社会保障に頼らざるを得なくなる。しかし、子供が3人、4人と増えれば、一人あたりの負担は軽減できます。一定条件さえ満たせば、国が高齢者を見るよりも、家族で助け合った方が経済的負担は軽くなるのです。

セーフティネット 

 社会保障関連で決定的に欠けているのは、「パイを増やす」という発想です。社会保障は、基本的に所得再分配政策であるの で、国家による統制色が強くなる傾向があります。しかしながら、適切なマクロ経済政策を実施すれば成長率が高まり、税収も増えます。同時に保険料収入も増 えます。単純に「パイを分け合う」のではなく、「新しいパイを焼く」ことで、少子高齢化による社会保障の財源を確保することもできるわけです。税と社会保 障を議論する際は、もっと経済成長を考慮するべきです。

 幸福実現党が掲げる、最大の社会保障は豊かな社会です。自由主義と自助努力に基づいた思想を社会保障に入れることで、いたずらに国家に頼らない個人や社会 を目指しています。安易な税金投入や増税ではなく、国家全体が豊かになる方向で社会保障改革を検討するべきだと考えます。 

減税こそが最大の社会保障

 福祉国家は持続不可能

福祉への過度の期待がもたらすもの

大きな政府の下での魂修行は十分ではない

失業問題 「自分の市場価値を高める」 

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