マネジメントの役割

マネジメントの役割

仕事を通じて働く人たちを生かす

 現代では、働くということは組織で働くという意味であることが多い。
 特に、先進国は組織社会であり、組織で働く人が圧倒的に多い。したがって、マネジメントの役割の一つは、仕事を通して働く人たちを生かすことにあります。組織は人の集合体であり、個人個人に活躍の場を与えることが大切です。

 組織に働く人は、そこから生活の糧や社会的地位、人との繋がり、自己実現を得ます。しかも、組織は人の弱みを最小限に抑え、強みを最大限に生かすことができます。

 働く人たちを生かすことは、組織にとっては使命であり義務でもあります。

 

社会問題への貢献と自らが社会に与える影響の処理をする

 既に顧客の需要を満たすということ自体が、企業にとって社会の問題に対して貢献していることの一つです。

 社会的に不便なことがあれば、それが需要となり、その需要を満たすべく財やサービスを提供する企業が現れるからです。

 企業は、社会貢献するために利益を必要としているのです。しかし、企業は自らが社会に与える影響もきちんと処理しなければなりません。

 社会問題に対する貢献と自らが社会に与える影響を処理することは、マネジメントの役割として基本的であり、大切なことだと思います。

 もちろん、マネジメントの役割はこれら3つだけではありません。管理的活動と起業的活動があります。現在あるものを効率的に管理し、既に成果があがらなくなった過去を計画的に廃棄し、より良い未来を創造しなければなりません。これが企業活動であり、マネジメントの大きな役割の一つでもあります。

 

自らの組織に特有の使命を果たす

 ビジネスパーソンにとって組織とは企業のことを意味します。
 そして、我々は企業の使命、目的を理解しなければなりません。

 企業の目的は何かと聞かれ、多くの人は「利潤の最大化」や「利益の追求」と答えるでしょう。
 しかし、この考え方は誤りです。

 企業は社会的な機関であり、利益のためだけに存在しているのではありません。

 それでは企業の目的は何でしょうか。

 企業の目的とは顧客を創造することです。
 企業は顧客の需要を満足させるために財やサービスを提供しています。それは、食料であったりインフラであったり企業によって様々です。潜在需要を満足させるために新しい市場を生み出したりもします。

 その企業が何かを決めるのは顧客だけです。顧客だけが企業の存在価値を見出す唯一の存在です。したがって、企業のマネジメントは顧客の創造という目的を果たす役割があります。

 

 マネジメントとは、組織の目標を設定し、目標を達成するために、組織の経営資源(人、モノ、お金、情報)を管理して効率的に活用し、さらにはリスク管理を行うことである。

 組織と社会、社員個人をマネジメントすることで、社会と個人がつくった組織に対して成果を上げさせ、機能させることができるでしょう。たとえば、組織は自社の製品などを通して社会貢献することで発展が期待できます。個人(社員)は組織で働くことで自己実現を可能とするのです。そして、組織は その機会と対価、地位を与えます。

 あらゆる先進社会が組織社会になったことにより、主要な社会的課題はすべて組織の手に委ねられた。人の命とまではいかなくとも、現代社会の機能がその組織の仕事ぶりにかかっている。そして、その組織は、マネジメントによって運営される永続的存在である。(ドラッカー「マネジメント」より)

 組織が機能するには、マネジメントが成果を上げなければならない。社会の願望・価値・存続そのものが、マネジメントの成果・能力・意思・価値観に依存する。ドラッカーは、「社会と経済の発展をもたらすものはマネジメントである」とまで言い切る。そして、マネジメントが所有権・階級・権力から独立した存在でなければならないとする。

 ドラッカーは、自らを生物環境を研究する自然生態学者とは異なり、人間によって作られた人間環境に関心を持つ社会生態学者と規定している。彼の関心・興味は企業の世界にとどまらず、社会一般の動向にまで及び、人を幸福にすることにあった。そのためには、個人としての人間よりも、社会(組織)の中の人間にアプローチする必要があるとした。

参考

 自らの組織に成果をあげさせるものがマネジメントであり、マネジメントの力である。

 ドラッカーの経営論は、社長のスーパーマン経営から中規模大企業に入っていくための経営論である。その特徴は、天才でなくとも組織運営ができる仕組みづくりである。

 ドラッカーは、自らを社会生態学者と捉えていた。地政学や人間学を深く探究し、ある答えを得た。それは「一人の天才による経営には限界がある」ということ。

 天才一人では限界があり、ましてや死ぬとほとんど滅ぶ。天才には継続性がない。ドラッカーは、「孫子の兵法」と同じように、これに対して継続性を持たせ、能力を引き継ぐために、凡人でも同等以上の成果を出せるよう、天才を平凡なパーツに分解し、体系化したのである。

 客観的に、かつ、論理的に仕事をいくつかの要素に分解(平凡な作業(パーツ)に分解)し、それを一つのプロセスとして統合(体系化)する。そして、それぞれのパーツに強みを持つ人材を充てる(適材適所)。これをプロセスとして管理する。

 平凡な人、ちょっと上の秀才の人、この人たちを組み合わせることによって、天才がいるのと同じ成果を出せる。非凡な成果を出せる。これが彼のマネジメントの胆のところなのです。

 「あらゆる非凡は平凡の組み合わせに置き換えることができる」「あらゆる非凡は平凡の組み合わせによって生じる」 これが組織論である。

 なぜ、平凡なパーツの組合せで非凡・天才が出るかと言うと、天才の本質は結合にあるからです。平凡な人が個々に持つ強みの組み合わせから生まれる。それが、組み合わせから生まれるシナジー(相乗)効果というものである。

 シナジー(相乗)効果を生み出すための秘訣は次の3点です。

 ・自分をよく知ること、強みと弱み、ワークスタイル、価値観を知ること

 ・共に働く人の強み弱み、ワークスタイル、価値観を相互に理解すること

 ・相手をよく理解したのち、お互いに活用し合うこと

自分の仕事は、他人に利用されて初めて成果に結びつく。

 2番目の相互理解こそ、ただの総和を相乗効果に変えるキーポイントである。そのために、お互いのコミュニケーションが重要である。

 ドラッカーの経営論を端的に表現するならば、「個々人の強みを活かして組織としての体制をつくり、かつ、教育・訓練のシステムをつくれ」ということになります。これは、競争社会において「勝つべくして勝つ組織づくり」ということになります。まさに、現代版「孫子の兵法」です。

 

マネジメントの目的

 マネジメントの目的は、設定した目標に沿って組織を運営すること。具体的には、組織の資源である 人、モノ、お金、情報 を効率的に活用して、設定した目標に向かって組織を発展させ続ける、成果を上げて機能させ続けるかということです。

 組織が機能するには、マネジメントが成果を上げなければならない。社会の願望・価値・存続そのものが、マネジメントの成果・能力・意思・価値観に依存する。ドラッカーは、「社会と経済の発展をもたらすものはマネジメントである」とまで言い切る。そして、マネジメントが所有権・階級・権力から独立した存在でなければならないとする。

 ドラッカーは、自らを生物環境を研究する自然生態学者とは異なり、人間によって作られた人間環境に関心を持つ社会生態学者と規定している。彼の関心・興味は企業の世界にとどまらず、社会一般の動向にまで及び、人を幸福にすることにあった。そのためには、個人としての人間よりも、社会(組織)の中の人間にアプローチする必要があるとした。

組織・社会・個人とマネジメントの関係

組織と社会と個人、そしてマネジメントの関係を見てみましょう。

まず、「組織と社会」の関係です。組織は、自社の製品やサービスを通じて社会貢献を行います。そうする事で、その存続や発展が見込めます。

 「個人と組織」の関係を見てみると、個人(社員)は組織に対し、働く事で自己実現をはかるのに対し、組織は個人にその機会と、対価・地位を与えます。

「マネジメント」は、この社会と個人が作用した「組織」に対し、成果を挙げさせて機能させる、という役割を持つ位置づけとなります。

 ドラッカーは、マネジメントを「組織の成果を上げさせるための道具・機能・機関」と定義しています

 ドラッカーは、あらゆる組織は社会の機関として位置づけました。そして、組織が社会の機関である以上、社会やコミュニティ、個人のニーズを満たすために存在しなければならないと指摘します。社会やコミュニティ、個人のニーズを満たさぬ組織は、存在する必要がないということです。そして、組織が社会やコミュニティ、個人のニーズを満たすというミッション(使命)を達成し、その成果を上げるために存在するのが、ドラッカーの言うマネジメントなのです。

 ドラッカーのこの考え方を、組織の一形態である企業にあてはめて考えてみましょう。ドラッカーの考えからすると、社会やコミュニティや個人のニーズを満たすことが、企業のミッション、社会機関としての企業の存在理由になります。

 企業にとって、社会やコミュニティ、個人は、ひとくくりに「顧客」と表現できるでしょう。したがって、企業は顧客のニーズを満たし続けなければなりません。

 これは、顧客の創造が企業にとって唯一の目的になるということに他なりません。そして、この顧客創造のために、企業がもつべき機能は2つだけだとドラッカーは指摘します。マーケティングイノベーションがそれです。

「ドラッカーは、「マネジメントとは、マーケティングとイノベーションという二つの機能である。あとは、語るに値しない」というようなことを言っているわけです。
 みなさんが行うべきことの一つは、「マーケティング」です。多くの人たちに、その商品やサービスの値打ちに気づいてもらい、受け入れてもらうための活動をすることです。もう一つは、「イノベーション」です。やはり、仕事をしていく段階に応じて、違ったものが出てきます。次に行わなければならない発想やアイデア、人の使い方、新しい人を使ったやり方、協力者を入れて仕事をしなければならない段階など、いろいろなものが出てきますので、その都度、考え方を進化させていくイノベーションの力が必要です。
 この二つを持って戦い、壁を破っていくことこそ、大きな組織として前進していくための道筋なのです。」(『智慧の法』)

 マーケティングとは、顧客のニーズを探り、対応する製品やサービスを提供する機能です。一方、イノベーションとは、顧客の新しい満足を創り出していく機能を指します。したがって、企業のマネジメントは、このマーケティングとイノベーションという二つを有効に機能させることが、最重要の命題となるわけです。

 マーケティングとイノベーションという両輪を、マネジメントというハンドルで企業目的に向かわせるものなのです。

 マネジメントとは、部下の管理のみを指すのではありません。また、トップ・マネジメントのみを指すわけでもなければ、権力やボスの意味でもありません。組織をして成果を上げさせるもの、それがマネジメントなのです。

 社長は、自分よりも仕事の出来ない人を集めて、成果を出す必要がある。

 ドラッカーは、言葉を換えてこう表現している。

 「組織の目的は、凡人をして非凡なことを行わせることにある」

 このマネジメントの前提を踏み外すと、人を使って成果を上げることは出来なくなる。

 組織の中核的な機関がマネジメントなのです。

 マネジメントの役割について、ドラッカーが語ったことを要約すれば次の3つである。

1 本業を通じて社会に貢献する

 企業をはじめとする組織は、「貢献」を条件に社会での存在を許される。社会から許されてはじめて、人材をはじめとするかけがえのない資源にアクセスできる。

 ドラッカーは、「貢献」について、「本業を通じて社会的に有用な存在であれ」と説くのみだった。あくまでも、本業がそのまま貢献となりうる状態を健全な組織の展開条件と見た。たとえば、新聞社なら正確な情報を適時に伝える、スーパーなら地域の人々の生活を支えるといった貢献があるはずである。

 社会貢献などというと、ともすれば本業を越えた特別な活動を指すかのように錯覚してしまう。肩に力の入った活動である必要はない。それどころか、出過ぎた行動はかえって害悪になることさえある。

 企業のマネジメントとは、あくまでも経済的機関であって、あらゆる活動が経済的成果を中心とすべきだとしている。なぜなら、教育・医療・国防・知識の発達など、あらゆる社会的成果が、経済的成果をもたらす経済的余裕に依存しているからである。

 しかし、実際の経営現場での誤解は大きく、企業の目的は利益とされ、利益至上主義で、経営陣は明けても暮れても利益を追求するのが実態である。

 その経営の現場で至上命題とされる利益について、ドラッカーは次のように定義する。

 1つは、企業の目的である顧客の創造という成果を判断する基準であること。

 2つは、将来の不確定なリスクを回避ための保険であること、

 3つは、より良い労働環境を作るための原資であること。

 4つめに、社会資本を充実するためにあることである。

 即ち、利益は将来へ向けてのコストであり、利益の最大化が企業の目的ではない。

 企業経営者の捉える利益や企業の目的が いかに矮小であるかが分かる。そこから脱却するには、利益至上主義を超越したドラッカーの考え方を見習い、そして、時間の要素をマネジメントに取り入れなければならない。

「マネジメントに絶対はない」

「あらゆるものは陳腐化する」とドラッカーは考える。社会も文明も、陳腐化に逆らうことはできない。陳腐化したものは処理しなければ、新たな活動に支障をきたす。人体で細胞が絶え間なく老化し排出されるのに似ている。

ドラッカーは、マネジメントというものを「生命に形式を与える活動」と捉えていたふしがある。組織という樹木を最大限にいきいきと繁栄させる方法論である。生命ほど多様なものはない。マネジメントは、生きものを扱うのであって、変化していくものについての知識である。

バブル時代に成功した手法がデフレ時代にそのまま適用できるとは考えづらい。同じ組織でさえ、成長に伴って規模や特性が変われば適切な手法は異なる。そのことを認識せよというのがドラッカーの主張である。

人は変わらざる真理や万能薬を求めがちであるが、ドラッカーは、そのような知的姿勢に批判的だった。彼の大発見であるマネジメントさえ一つの考え方であり、思考の補助線にすぎないのである。

2 人という資源を生産的にする

 「人こそ資源」「人財」とは、企業が好んで社是に掲げる言葉である。ドラッカーは、これとは異なる視点から、人という資源の重要性を説く。人を社会的存在と捉え、「社会なくして自らを実現できない存在」として人を見る。

 社会の側から見れば、人がそれぞれの能力を発揮してくれなければ困る。一方、社会的存在としての人は、自らが能力を発揮して自己実現することを求める。いわば土壌と種子に似た関係である。

 人の生産性を高めえない組織は、それだけで社会的貢献を怠っている。社会を構成する人々が活躍の場を手にできないと、人と社会の双方にとって悲劇である。失業が社会的病魔となってファシズムを生んでいったことからも、そのことがうかがえる。

 ドラッカーは、人を非常に重要視していることが分かる。企業の「本当の資源は一つしかない。人である」と言いきる。「組織が成果をあげるのは、人を生産的たらしめることによってである。」「現代社会においては、組織こそ、一人ひとりの人間にとって、生計の資、社会的な地位、コミュニティとの絆を手にし、自己実現を図る手段である。当然、働く者が成果をあげられるようにすることが重要な意味をもつ。これを可能にするものはマネジメントしかない。」

 仕事を仕事の論理で編成することはさほど困難ではないが、仕事を人に合わせなければならず、そのことが困難で、しかし、極めて重要だとするところが、ドラッカーのドラッカーらしい主張である。人に成果を上げさせるには、人それぞれを生理的、心理的特質・能力・限界・独特の行動様式を持つ生きた存在として捉えなければならない。従って、それぞれが責任・動機付け・参画・満足・誘因・報酬・リーダーシップ・位置付け・役割を必要とする存在として理解すべきである。これらを実現できるのはマネジメントだけだとする。

 実際の経営現場では、生産性向上や従業員の自己実現による充実感達成などの考慮や試みがなされているが、基本は人の視点ではなく、仕事の視点からアプローチされている。人が真の意味で唯一の資源であることを、肝に銘じて反省しなければならない。

「社員が現場を知っている」

戦前戦後の経営者は、「やる気も主体性もない社員をいかにして働かせるか」という問題に腐心してきたといっても過言ではない。だが、そうした考え方は、ドラッカーが観察した現場の真実に反していた。

現場の人々は仕事を知っていた。経営者よりはるかに知っていた。知っているばかりではない。仕事のことを深く考え、思いを寄せていた。

ならば、経営者としてなすべきことは簡単である。現場に聞くことである。この「聞く」というシンプルな行為がいかに重要であるかを、ドラッカーは強調してやまない。役員会でいくら議論しても、わからないものはわからない。だが、現場に聞けば、あっけなくわかってしまうことが少なくない。

3 社会的責任を果たす

 ドラッカーは、マネジメントの根幹に「責任」を置く。では、組織として最大の責任とは何か。「社会を害さない」ことである。

 企業をはじめとする組織の責任も、これと同様である。「飛び抜けた善行をしなくても、せめて社会を害することのないようにせよ」とドラッカーは言う。

 企業の場合、社会に貢献できない、あるいは責任を果たしえないとなると、とたんに存続が危ぶまれる。まして、世の中に害悪を与えようものなら大企業であろうと秒殺されるのは、しばしば私たちが目にするところである。

 ドラッカーによれば、企業の発展は「社会的な器官」として機能しえたときに、その結果として可能となる。マネジメントの重要な視座であろう。

 企業は従業員や株主のために存在するのではなく、消費者に財やサービスを提供するために存在する。さらに、その基本的課題に加えて、現代の人間とコミュニティの物理的・人間的・社会的な環境、即ち生活の質に関心を持たざるを得ない。つまり、外の世界に貢献するために存在するとする。現実にしばしば起こっている市場における製品やサービスの事故をできるだけ事を荒立てないように済まそうとする姿勢は、厳しく糾弾されてしかるべきである。

 自分をマネジメントできない者が、部下や同僚をマネジメントできるはずがない。ほかの人間をマネジメントすることは、主として、自分が模範となることによって行うことができる。(ドラッカー著『経営者の条件』より)

 成果をあげている者は、みな 成果をあげる力を努力して身につけてきている。そして、彼らのすべてが、日常の実践によって、成果をあげることを習慣にしてしまっている。

 現代社会が機能し、成果をあげ、さらには生き残れるかどうかは、組織に働くエグゼクティブが成果をあげられるかどうかにかかっている。成果をあげるエグゼクティブは、ますます現代社会における主要な資源となりつつある。

 知力や想像力や知識と、成果をあげることとの間には、ほとんど関係はない。それらの資質を成果に結びつけるには、成果をあげるための能力が必要である。知力や想像力や知識は、成果の限界を設定するだけである。

 知識労働者を直接あるいは細部にわたって監督することはできない。助力を与えることができるだけである。知識労働者は、自らを監督しなければならない。

 知識労働は、量によって規定されるものではない。コストによって規定されるものでもない。成果によって規定される。そして、部下の数や、管理的な仕事の大きさは、知識労働の内容を知る手がかりとはならない。

 組織の内部には、成果は存在しない。すべての成果は、外部の世界にある。例えば、顧客が、製品やサービスを購入し、企業の努力やコストを、収入や利益に変えてくれるからこそ、企業は成果をあげることができる。

 組織の内部に生ずるものは、努力とコストだけである。企業にはプロフィットセンターがあるかのごとくいわれるが、単なる修辞に過ぎない。企業には「努力センター」があるだけである。

 人間が少ないほど、組織が小さいほど、そして組織内の活動が少ないほど、外部環境への奉仕という組織にとっての唯一の存在理由からして、組織はより完全に近づく。

 エグゼクティブは、外部の現実世界に直接触れるべく、特別の努力を払わないかぎり、ますます組織の内部に焦点を当てることとなる。しかも、地位が上がるほど、外部の出来事より、内部の問題に注意が向く。

「企業は社会のことを考えよ」

近年は「CSR」などと呼ばれ、「企業の社会的責任」と訳されるが、ドラッカーは単に「責任」といった。

これについて、ドラッカーは必ずしも先覚者ではない。近代日本の実業家にして「論語と算盤」で著名な渋沢栄一は、この社会的責任を明治初期から企業の機能に織り込んでいた。

人は、うっかりすれば、自分が身を置く世界が全世界であると錯覚してしまう。仮に巨大企業が「世界には自分しか存在しない」などと思おうものなら、社会的脅威以外の何者でもなくなる。企業とは、巨大な権力を手中に収めながらも、社会によって生かされている存在である。いくら大きくても、社会という大海の一滴に過ぎない。

ドラッカーが述べたのは、大仰なことではない。「あくまでも本業を傷つけることなく、社会に貢献できるならば貢献せよ」というものである。積極的によいことをしなくても、せめて大海の一滴であることを自覚してほしいという切実な願いである。

参考

 以上の3つの役割に加えて、ドラッカーは、「時間」「管理」が第4、5の要素として考慮されるべきだとする。

マネジメントは、現在と未来を見なければならない。マネジメントにとって、未来は断絶している。しかし、未来は現在からしか到達できないので、未来への跳躍の土台は堅固にしなければならない。マネジメントは現在と未来をつなぐ。

 経営者に通常説かれる「先のことを考えろ」とか「将来を見据えろ」という皮相的なアドバイスに比べ、「マネジメントが行う意思決定には、常に時間の要素が伴う」というアドバイスは実に奥深い。しかし、現実の経営に目を転じると、「時間」の要素に意識が行かず、目の前の利益、在任期間の業績にのみ関心を持つ経営者、あるいは机上の将来プランにうつつを抜かす経営者がいかに多いことか。彼らは、直ちに考え方を改めなければならない。

 次は「管理」の要素である。成果が小さくて縮小しつつある分野から、成果が大きくて拡大しつつある分野へ資源を向けることである。「意味あるものの80%から90%は、製品、注文、顧客、市場、人材のいずれについても、10%から15%のものからもたらされる。残りの85%から90%は、いかに効率をよくしようとも成果を生まない」。この考え方の根拠は、「企業体とは、自然現象ではなく社会現象である。社会的環境においては、事象の分布は自然界の正規分布には従わない。つまり、釣り鐘型のガウス曲線に従った分布にはならない。」(「Diamond Harvard Business Review」2004.4.)にある。社会生態学者たるゆえんである。

 しかし、経営現場の現実は、難しい仕事に取り組んでいるという自尊心から、単に興味があるという関心から、あるいは「あと少しで成功する」とか「最後のチャンスを与えてくれ」などという言い訳から、成果を生まない85%から90%の資源を、成果を期待できない対象に投入し続けているのが実態である。経営者は、人的資源の配分に「冷徹な意思決定」と「断固たる実行」を常に求められていることを念頭におき、経営に当たらなければ決して生き残れない。

 自分をマネジメントできない者が、部下や同僚をマネジメントできるはずがない。ほかの人間をマネジメントすることは、主として、自分が模範となることによって行うことができる。(『経営者の条件』より)

 成果をあげている者は、みな 成果をあげる力を努力して身につけてきている。そして、彼らのすべてが、日常の実践によって成果をあげることを習慣にしてしまっている。

 現代社会が機能し、成果をあげ、さらには生き残れるかどうかは、組織に働くエグゼクティブが成果をあげられるかどうかにかかっている。成果をあげるエグゼクティブは、ますます現代社会における主要な資源となりつつある。

 知力や想像力や知識と成果をあげることとの間には ほとんど関係はない。それらの資質を成果に結びつけるには、成果をあげるための能力が必要である。知力や想像力や知識は成果の限界を設定するだけである。

 知識労働者を直接あるいは細部にわたって監督することはできない。助力を与えることができるだけである。知識労働者は自らを監督しなければならない。

 知識労働は量によって規定されるものではない。コストによって規定されるものでもない。成果によって規定される。そして、部下の数や管理的な仕事の大きさは知識労働の内容を知る手がかりとはならない。

 組織の内部には成果は存在しない。すべての成果は外部の世界にある。顧客が製品やサービスを購入し、企業の努力やコストを収入や利益に変えてくれるからこそ、企業は成果をあげることができる。

 組織の内部に生ずるものは、努力とコストだけである。企業にはプロフィットセンターがあるかのごとくいわれるが、単なる修辞に過ぎない。企業には「努力センター」があるだけである。

 人間が少ないほど、組織が小さいほど、そして、組織内の活動が少ないほど、外部環境への奉仕という組織にとっての唯一の存在理由からして、組織はより完全に近づく。

 エグゼクティブは、外部の現実世界に直接触れるべく、特別の努力を払わないかぎり、ますます組織の内部に焦点を当てることとなる。しかも、地位が上がるほど、外部の出来事より、内部の問題に注意が向く。

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