境界性パーソナリティ障害の原因とそのメカニズム

 境界性人格障害が発症する原因ははっきりとは解明されていませんが、おおまかな原因として「遺伝」と「環境」が大きく関わっていると考えられています。

 「遺伝」にまつわる要因としては、もともと境界性人格障害になりやすい性格傾向をもって生まれてくる人がいることです。

 「環境」にまつわる要因としては、幼児期の虐待や、母親との愛情関係がうまく築けなかったことが大きく関わる。

 原因は赤ん坊のころに始まります。赤ん坊は成長するにつれて、ハイハイをしたり、あるいは歩けるようになるとヨチヨチ歩きで、この世という未知の世界へと探検に出掛けます。その途中で、ふと不安になって母親の存在を確かめようとして振り返ることがあります。そのとき見た母親の表情から、赤ん坊はいろいろなことを学びます。健全な心を持った母親であれば、赤ん坊が独り立ちして自分から離れて行くことを素直に喜べますので、赤ん坊に対して励ましの笑顔で応えることが出来ます。しかし、母親によっては、赤ん坊が自分から離れて行くことに対して、まるで自分が置き去りにされたかのような淋しさを感じる人がいます。赤ん坊が自分の力で移動できないときには、生きることのすべてを母親に依存していますので、母親は赤ん坊から必要とされる存在であることに歓びを感じることができます。しかし、赤ん坊が成長するにつれて自分が必要とされなくなっていくことに気付いたとき、とても寂しくて悲しい気分になる母親がいるのです。このような母親の場合、赤ん坊の方からはどう見えるでしょうか。振り向いたら、そこに母親の寂しそうで悲しそうな顔が見えたとき、もしかしたら母親から遠ざかることは悪いことなのだろうか、と思うようになります。親を悲しませた自分は、もしかしたら捨てられてしまうかもしれないという不安にとらわれます。そして、こういうことが繰り返されると、親から自立して独り立ちしようとする衝動を抑えるようになります。本来なら、身体的にも精神的にも母親から分離して一個の独立した「個人」になろうとするのですが、こういった精神の健全な成長をためらうようになります。こうして、母親の「いつまでも依存されていたい」という無言のメッセージに応えるかのように、赤ん坊は心の成長を自分で押さえ込んだり後戻りさせてしまうのです。  健全な赤ん坊は自分の精神的な自立を支持してくれる「良い」母親のイメージを心に定着させます。赤ん坊の段階で取り込まれた「良い」母親のイメージが、その後の健全な心の成長の基礎となります。しかし、見捨てられる不安に付きまとわれている赤ん坊は分離不安をかき立てられることによって、母親からの精神的な分離独立(精神的にこの世に誕生すること)という、大切な作業に失敗してしまうのです。これは、母親の性格だけではなくて、家族が不幸に遭遇したり母親に悲しい出来事があったときとか、あるいは夫の不在が長引いて、心の空白を埋めるために赤ん坊の存在にしがみついていたというような場合にも起こります。しかし、母親の心が健全であれば、その後の成長段階で修復されゆく部分もあるのではないかと思われます。

 このような母親は育児を続ける中で、子どもを自分に依存させるために「見捨てる」という脅しを効果的に利用するようになります。この脅しは、分離不安を煽ることになりますので、親にしがみつくように誘導するにはもってこいの手段となります。子どもは生きることのすべてを親に依存していますので、たとえば「おまえなんかうちの子じゃない」 「橋の下に捨ててしまうぞ」というような言い方は効果的です。しかし、子どもの方はどう思うでしょうか。不安と恐怖を覚えると同時に、依存をもてあそばれたことに対する言いようのない不快感と憤りを感じたりします。しかし、親に向かって怒りを表現することは、さらに「見捨てられる」事態を招いてしまいますので、憤りの感情は強く押さえ込まれてしまいます。そして、この憤りの感情は後に治療場面で大きな意味を持ってきます。この「見捨てる」という脅しは、精神的な虐待や、ひどい場合は肉体的な虐待となってはっきりと現れることもありますが、逆にそれとはわからないように巧妙に隠蔽されいる場合もたくさんあります。たとえば、子どもが自発的に何かをやり遂げようとするとき、うまくやり遂げられるかどうかを必要以上に過剰に心配したりします。このような過保護の親は、子どものためを思って心配しているのですが、その言動とは裏腹に、まるで失敗することを望んでいるかのような心配の仕方になってしまうのです。このような過剰な心配は、子どもの失敗することへの不安を増大させてしまい、結果として親の「本心」が望んでいる通りに自発的な行為を失敗させることに成功してしまいます。そして、親は子どもの失敗を一緒になって嘆きながら、子どもとの甘美な一体感を味わうことに成功するのです。親は脅しというムチだけではなくて、アメも使います。自立をあきらめた褒美としてさまざまな「甘やかし」を与えるのです。あるいは、自立しようとしている子どもの目の前で、親に依存することがいかに楽かを見せびらかして、子どもの精神的な自立を失敗させようとすることもあります。馬の目の前にニンジンをぶら下げて誘導しようというわけです。見捨てるという脅しが子どもの心に与える影響は、「自分は親から見捨てられてしまうような、愛される価値のない人間なんだ」という、間違った考えを形成してしまうことです。そして、親が自分に対して取った態度を、子どもは自分自身に対しても取るようになります。つまり、自分で自分を見捨ててしまうのです。こういった一連のメカニズムによって、親からの精神的な分離が恐怖となり、自分が何者なのか分からないような混沌とした自己イメージを作り上げてゆきます。そして、このメカニズムが抱えている様々な問題点は、子どもが成長して青年期に達したときに一気に表面化します。なぜなら、この時期こそ親からの分離を否応なく求められるからです。思春期の性の目覚め。社会人としての生活。恋愛と結婚。あらゆる面で自立しなければならないのですが、長年にわたって親から刷り込まれた歪んだメカニズムから抜け出すことができずに苦しむことになります。このように、境界例は原因が乳幼児期にあるのに、青年期になってから問題が表面化するため「青年期境界例」と呼ばれることもあります。もちろん、母親だけでなく父親や周囲にいる人たちの影響も無視できません。なぜこういうメカニズムが発生するのかというと、母親自身も境界例、あるいは潜在的な境界例なのです。ですから、自分自身の分離不安が赤ん坊に映し出されてしまうのです。そして、自分がかつて親からされたような陰険な手口を自分の子どもに対しても使うのです。かつて被害者だった体験から、不安でオドオドしたときの心理状態は充分に理解していますので、「見捨てる」という脅しの使い方は実にツボを得たものとなるのです。このようにして、境界例は世代間を伝達されていきます。

 

苦痛回避の行動パターン  

 親から見捨てられるという、分離不安を煽ることを目的とした脅しを受け取ったとき、子どもはどんな心理状態になるでしょうか。

 その心理状態とは、自分が消えてしまうような恐怖感、堪え難い孤立感、悲しみや惨めさ、見放された絶望感、侮辱されたような憤り、不安をもてあそぶ親への憎しみ、いたたまれない気持ち、あまりにも不快でむしゃくしゃするような居心地の悪さ、そういった諸々の感情がないまぜになっています。

 この心理状態を回避する手段として、以下のようなさまざまなパターンがあります。  

自暴自棄型  
 親が自分を必要としないのなら、望み通りに必要とされない人間になってやるという心理です。理屈から言えば親から見捨てられたからと言って、何も自分で自分を見捨てる必要はないとも思えるのですが、自我が未熟な子どもには無理というもの。特に親子関係が最初から見捨てられるという不安に彩られているような場合は、自尊心が非常に低く、親の態度をそのまま自分に当てはめ、自分で自分を見捨ててしまいます。まるで紙切れのように自分を軽く扱ったり、自分で自分を無視するという間違った行動をとってしまいます。そして、ときには自分自身を傷つけるような破壊的な行動に出ることもあります。万引きなどの犯罪行為に走ったり、命を危険にさらすような暴走行為をしたり、自殺未遂を繰り返したりします。こういった行為の背後には、自分を見捨てようとする親への激しい怒りと絶望が潜んでいます。あるいは、こういう危険な行為を通して、自分は世間から(親から)本当に見捨てられているのだろうかと「試し」ているような面があります。治療場面では、この「試し」の行為が挑戦的とも思えるやり方で現れてきたりしますので、これをどう扱うかが治療の第一歩として重要な意味を持ってきます。この自分で自分を見捨てるという間違った態度は、他のあらゆる苦痛回避パターンに共通してみられます。  

依存強化型  
 いわゆる「いい子」です。分離不安を回避するために、無差別に相手にしがみついたり、依存したりします。医学的に言えば「依存性人格障害」ということになります。アダルト・チルドレンの世界で言われている「共依存」というのがこれです。このタイプには、完全に他人の言いなりになる「お人形」タイプと、逆に他人の世話をするという形で他人にしがみついてゆく「世話焼き女房」タイプの2つがあります。

「お人形タイプ」  
 一般にはマザコンと呼ばれています。相手の言いなりになっていれば見捨てられる心配がないのですが、社会に出るとそうはいきません。相手の言うことをそのまま真に受けていると、ときにはひどい目に遭うことがあります。このタイプは、自分で自分を見捨てて相手の言いなりになることで見捨てられる不安を回避しようとします。

 このタイプの人でも、一見自分の主義主張を持っているように見える人もいますが、それはすべて他人からの借り物で、自分の本当の考えというものを持っていません。

 親の人生観や価値観をそのまま受け入れて生きているため、たとえば、親の虚栄心に盲従して一流大学を出て一流企業に入ったものの、社会に出てから妙な息苦しさを覚えたりすることがあります。他人からみれば、表面的にはまったく問題がないように見えますが、本人は乳幼児期から刷り込まれ続けてきた問題に、やっと気付き始めているのです。

「世話焼き女房タイプ」
 博愛主義の仮面を被っていることがあります。困っている人や弱者を必要として、そういう人をどこからか捜し出してきます。そして、彼らの面倒を看たり相談にのることで自分の見捨てられ感を解決しようとします。なぜなら、問題を抱えて困っている人は、助けてくれそうな人を頼ろうとしますので、依存されることはあっても見捨てられる心配が無いように見えるからです。そして、こういう人たちの抱えている問題に非常な関心を持つのですが、自分で自分を捨てているため、自分自身のことにはほとんど無頓着だったりします。自分の利益になるようなことをするのは罪なことだと考え、ひたすら他人のために尽くします。企業戦士のように、会社に忠誠を誓い人生を捧げます。常に組織のため、社会のため、全体のためを考えて行動し、他の人にも同じような行動を求めるため、自分勝手な行動をする人を憎みます。自分自身に「自分」というものがないために、「自分」を持とうとする他人に対しては「見捨てられる」ような不快感を抱きます。  

自己愛型  
 見捨てられる惨めさを回避するために、惨めな自分とは正反対の自分を空想してみるのも悪くはありません。みんなから愛され、みんなの注目を集め、たくさんの人から惜しみない賞賛を浴びるという、そんな白昼夢に耽ることは見捨てられた惨めさを解消してくれるだけではなく、栄光に満ちた輝かしい自分という空想に浸る快感を与えてくれます。しかし、この空想が現実との区別がつかなくなっていったとき、さまざまな問題を引き起こします。これが自己愛人格障害です。自己愛人格障害については別に項目を設けて解説してありますので、詳しいことはそちらを読んでください。境界例と根が同じと言うか、非常に親密な関係にあるため、境界例と自己愛人格障害はセットで扱われたりします。  

攻撃型  
 自分を見捨てようとする親や、自分の不安感をもてあそぶ親への憤りが、場合によっては見捨てられる恐怖を上回ることがあります。よい子の仮面を剥いで、突然暴れ出したりします。それまで見捨てられる恐怖感に抑圧されていた分だけ怒りは激しいものとなり、自分でもコントロールができないくらい激烈なものになったりします。たとえば、家庭内暴力などで子どもがバットを振り回して親を責めたて、親に無限の謝罪を要求したりします。しかし、子どもは何に対して謝罪を要求しているのか、自分では本質を理解していません。こうなると家庭は戦場のように荒れ果てたものになってしまいます。

 これほど激しい怒りではなくても、たとえば社会的な不正や不条理に対する怒りといった形で現れたりもします。境界例の人は、他人から見捨てられることを常に警戒していますので、他人の心に潜む欺瞞を見抜くことに優れていたりするのですが、攻撃的な面が出てきますと相手に対する配慮がなく、ズケズケとものを言ったりします。挑発的であることが多い。ちょっとしたことが見捨てられることに結びついて、侮辱されたような感じになり、激しい怒りの感情を呼び覚ますからです。健全な攻撃性というのは、自分の利益を守るためになされるものですが、境界例の人の攻撃は、自分で自分を見捨てているために、攻撃によって自分がどんなに不利になろうとも、そういうことにはまったく無頓着だったりします。

 たとえば恋愛関係などで、自分を見捨てようとする恋人に怒りをぶつけたりしますと、それがストーカーのようになる場合もあります。見捨てられたくなくてまとわりついてゆく一方で、見捨てようとする人への激しい怒りをあらわにしたりするのは、乳幼児期の母子関係がそのまま投影されているからでしょう。  

快楽型  
 見捨てられるときの恐怖感や屈辱感から逃れる、一番手っ取り早い方法は憂さ晴らしをすることです。バイクで暴走したり、酒を飲んだり、オナニーやセックスに耽ったりして気を紛らわせます。境界例の人は見捨てられる感覚をいつも心の底に持っているために、普段からブルーな気分でいることも多く、ささいなことで気が滅入ったり、むしゃくしゃしたりします。しかも、そういう不快感を我慢できません。見捨てられる不安と恐怖が強いために、いつも短絡的に解決を求める傾向があります。

 健全な人の快楽と違う点は、自分で自分を見捨てている点です。孤独のままでいますと廃人への入り口が扉を開けて待っています。

引きこもり型  
 人間関係の中にいて見捨てられたり、裏切られたりする苦痛を味わうよりは、いっそのこと孤独でいたほうがいいと考えるタイプです。孤独を恐れないので、一見自我がしっかりしているように見えることもありますが、実際は見捨てられる不安と恐怖で脆い構造になっています。人間関係のトラブルに巻き込まれると、孤高だった彼らの人間的な未熟さが露呈してしまいます。

 子供の場合も部屋に閉じこもったきり外に出なければ、親と顔を合わせなくてすみますし、見捨てられる不安や親が自分に依存させようとするコントロールから逃れることができます。部屋に閉じこもっていると不便ではありますが、それよりも苦痛から逃れる方を優先してしまうのです。それだけ苦痛が大きいのです。

 あるいはこれほど極端でなくても、人間関係の中で、見捨てられたり裏切られたりする場面に直面しそうになると、そうなる前に自ら身を引いてしまうケースがあります。ただ、人間関係を次々に失っていったり、転職を繰り返したりといった不利益が発生します。しかし、そんな不利益よりも、見捨てられるような状況に我慢ができないのです。そして、すべての関係から身を引いて、再び新しい理想的な関係を求めます。自分にとって都合の悪いことがあると、そのたびに人生のリセットボタンを押すのですが、年齢を重ねるにつれてやり直しのきかないことが多くなってゆきます。  

理想化型から分裂型  
 自分の過去が見捨てられる不安に彩られていたために、見捨てられる不安のない世界、とことん甘えることのできる世界、自分のすべてをありのままに受け入れてくれる世界を夢見ています。現実を正しく認識できないので、肥大した「一体感への夢」を追い続けることになります。

 だれからも愛される人という、ありもしない架空の人物像に憧れたり、理想的な恋人との巡り合わせを願ったりします。現実をありのままに見ることができないため、たとえば、たちの悪いヒモに貢ぐ女のように、相手の男を理想的な男に仕立ててしまいます。周囲の人が「利用されて捨てられるだけだよ」と注意しても耳を貸しません。

 見捨てられる不安の反動として、理想的な関係を求めても、それが現実とずれたものであれば、非常に不安定で崩れやすいものとなります。

 理想と、苦痛に満ちた現実との分離が極端にひどくなりますと、一時的に精神が分裂したようになります。堪え難い苦痛に満ちた自分を否定し、これは私ではないと自分自身から切り離してしまうのですが、いろいろと無理があるために、心の中で神と悪魔の妄想が飛び交いはじめます。誰もいないはずの隣りの部屋から、自分を馬鹿にする声が聞こえてきたりします。

 

見捨てられ感の誘発  

 境界例の人は、見捨てられていないのに見捨てられたと感じてしまうことがよくあります。

 たとえば、幸せそうな他人を見たときに、ついつい自分と比較してしまい、自分は不幸な見捨てられた人間なんだと思ってしまいます。他人は他人、自分は自分、人生は人それぞれなのですが、そのような考え方ができません。ときには羨ましさから幸せな人の足を引っ張ったりします。

 なにかの選考に自分が漏れたような場合にも、まるで自分の存在そのものが見捨てられたように感じることもあります。まだ他にチャンスがある時でも、見捨てられたんだという絶望感が支配してしまい、希望を持とうとしなくなってしまいます。

 他人からちょっと批判されたりすると、すぐに見捨てられること結びついて絶望したり、あるいは逆に怒り出したり、復讐行動に出たりします。別に人格を否定されたわけでもないのですが、状況を冷静に判断できずに、過剰な反応をしてしまいます。

 現実への対処能力が低いために、いろいろと失敗をしやすいのですが、その失敗がさらに見捨てられ感を強化します。まだ希望が残っているのに、どうせダメなんだと思い込んで人生のチャンスを自らつぶしてしまいます。

 見捨てられる恐怖によって、親からの精神的な分離独立が阻害されたままですので、自分が何者なのかわかりません。また、何者かになることもできません。「私は誰なのか、どうしてここにいるのか」と問い続けますが、答えが出ません。

 境界例からの回復のためには、まず最初にこう言った日常生活の中に潜んでいる過剰な見捨てられ感をチェックすることが必要になります。

 親に見捨てられたからと言っても、なにも自分で自分を見捨てることはないのです。そんな馬鹿げたことをやる必要はないのです。親から言われたからと言って、なにもわざわざ自分の不利になるようなことをする必要はまったくないのです。とは言っても、長年にわたって刷り込まれてきた間違った考え方を修正することは容易ではありません。しかし、少なくともこのメカニズムを知ることで、少しは人生が良い方向に向かうようになるでしょう。

境界性パーソナリティ障害の診断基準 に続く