介護は本当の愛を学ぶ機会

 介護する側は、その無私な行為を通して、「与える愛、尽くす愛、奉仕とは何か」を考え、他人に対する献身の心を学ぶ機会と捉えることもできる。厳しい環境であったとしても、いかに明るく、朗らかに生きられるかが、本人の魂を光らせるための試練になっているという考え方もある。

 

介護職に誇りを感じる人材を増やすには霊的人生観が大切

 介護の仕事は知識や技術を磨くだけでは十分とは言えません。

 もうすぐ亡くなっていく人たち、認知症などでコミュニケーションが取りにくい人たちに対して、なぜケアを施すのか。それを知るためには、霊的人生観が必要です。すなわち、人間には魂があり、永遠の生命があることへの確信です。

 幸福の科学大川隆法総裁は、「ザ・リバティ」2017年2月号の論考、「未来への羅針盤」において、介護職は菩薩行をもとにした仕事であり、そこに魂をこめることが大事だとして、次のように語っています。

「唯物論的な介護だけでは十分ではないと思います。介護を受ける人が求めているのは、他の人の愛であり、慈悲であり、優しい心だと思います。それから、『自分がこの世に存在することの意味を教えてほしい』と思っているはずです。

『自分のように人のお世話になる立場の人が、この世に存在する意義があるのかどうか』というようなことで悩んでいらっしゃるのです。50代、60代以降での自殺者も数多くいますけれども、『自分はこの世で役に立たない』と思って死んでいく人がたくさんいるのです。そういう人たちに光を与えることは、やはり大事な仕事だと思います」

 介護施設の経営者や管理職たちが、入居者たちに対する愛の念いを忘れず、尊厳をもってあの世に旅立ってもらえるように努力すること。それが、仕事に対する誇りを喚起し、日本人、外国人問わず、優れた介護人材を育てる上で、最も大切なことなのかもしれません。

 

唯物論的な介護だけでは十分ではない

 介護を受ける人が求めているのは、他の人の愛であり、慈悲であり、優しい心だと思います。そして「自分がこの世に存在することの意味を教えてほしい」と思っているはずです。

 もちろん、経済政策も同時にやらなければいけませんが、お金だけでは人は救えません。

 「人間はあの世からこの世に生まれ、人生で様々なことを学んでこの世を卒業し、あの世に還る」という人間観・人生観が介護の前提であるべきです。虐待という悲しい事件を減らすとともに、人生の終末期において家族の絆を強めることも、日本の福祉の未来をひらく鍵になりそうです。

 医療や介護を充実させ、高齢者を手厚くサポートすることが必ずしも『健康長寿』にはつながらない。

 階段や段差など、生活の中に適度な『バリア』があることが足腰の機能を保ってくれて、寝たきりにならずに済むのです。

 高齢者の自立を支援するためには、高齢者に「自分でできることは自分でやる」という姿勢を失わせないことが大切です。本格的な介護が必要ない段階から、介護保険サービスに頼りすぎることは、まだ残っている生活機能を わざわざ失わせることにもなりかねない。生活機能を失うと、要介護度が上がり寝たきりに近づくので、本人も家族も幸せな老後から遠ざかってしまいます。

 戦後は「核家族化」が進む一方でした。「大介護時代」を前にして、これからは家族の絆を強くする方向の新しい家族観が必要になるのではないでしょうか。

参考

家族の絆が深くなっていく

 介護は、縁ある人の最期の世話をすることで、それまで受けた恩を返す貴重な機会にもなる。もちろん、「介護離職」の問題は解決していかなければならないが、介護を施設任せにして、家族や親戚がまったく面倒を見なくなることは望ましくない。

 大川隆法総裁は、著書『奇跡の法』で、介護について次のように述べている。

「国や都道府県が面倒を見ることができないというのは、一見、非常に不幸なことのようにも見えますが、逆に、それぞれの家族のなかに自衛手段が働いてくるため、家族のきずなというものが深くなっていくだろうと思うのです。すなわち、子供が親を養わなければいけないような時代が、もう一度、到来するのです」

 超高齢化社会を迎えている今、すべて政府に老後の面倒を見てもらおうとするのではなく、家族で助け合う文化を復活させることも必要です。

 

今後の介護のビジネスのあり方や家庭とのかかわり方

 介護職は菩薩行をもとにした仕事だとは思われます。その中に魂を込めることが大事です。

「関係のある人たちが、みんな幸福になっていきますように」という気持ちをいつも持っていること。

 介護ビジネス関係の方々はいろいろな家庭に関わっていくので、その折々に、彼らに必要なことを考えてあげて、相手の知らないうちに正しい方向に導く、あるいは幸福な方向に導くということは、志さえ持っていればできるでしょう。

 ある方が介護サービスなどをされることによって、家庭の中が光に満ちてきて好転していく、家族が幸福になっていくということはありうることだと思います。

 その志は成功すると思うし、成功の実績を見せることで、業界にいる他の方々も、「そういうふうにするといいね」「そうしたら聖なる仕事になってくるね」ということが分かってくるはずです。

 

自分の「分」の範囲で助け舟を出す

 もちろん、あまり説教魔になってはいけないので気をつけないといけません。職業上、「自分が関われる分は、このぐらいまで」というものがあると思います。しかし、そのわずかな関わりの中で、彼らを幸福にしていけるように、一転語を伝えたり、あるいは判断に困るようなときに、少し助け船を出したりすることができるでしょう。

 そういうことを通して、いろいろな家庭を幸福にしていくこと、あるいは、今病気の方や障害のある方や、その家族を幸福にしていくこともできると思います。

 介護ビジネスに聖なる光を灯していくことは、非常に大きな仕事です。

 まずは、介護する側が実証者として、よい手本になることが大事です。そうすれば、仲間の人たちにも教えてあげることができるようになります。自らが実験台になって実証し、他の人に「こういうかたちで教えていくといいよ」と、新しい「介護ソフト」をつくっていくことが大事です。

 

「必要されている」という自覚

 唯物論的な介護だけでは十分ではないと思います。

 介護を受ける人が求めているのは、他の人の愛であり、慈悲であり、優しい心だと思います。それから、「自分がこの世に存在することの意味を教えてほしい」と思っているはずです。

 「自分のように人のお世話になる立場の人が、この世に存在する意義があるのかどうか」というようなことで悩んでおられることが多い。50代、60代以降での自殺者も数多くおりますが、「自分はこの世で役に立たない」と思って死んでいく人がたくさんおられます。そういう人たちに光を与えることは 大事な仕事です。

 もちろん、経済政策も同時にやらなければいけませんが、お金だけで人を救えるわけではありません。「世の中に必要とされている存在だ」と思うことで、人は救われていくのです。そういう方法も教えてあげるとよいでしょう。

 どのように話しかければよいのか、家族に対してどう接すれば、介護を受ける人たちが、この世に存在することに意義がある存在になるのかを、介護する側が教えてあげることです。

 

介護は愛の修行という視点も必要

 確かに、家庭などで介護する場合、常にそばを離れられないことは、介護者にとって大きな負担です。しかも、介護を「労働」や「時間を拘束され、自分のしたいことができない」とだけ受け止めていては、その時間は苦痛にしかならない。しかし、同じような介護生活をしていても、それを幸福だと感じられる人もいる。

 介護は単に苦しいことではなく、魂修行のための大事な機会であると気づくことで、ストレスや葛藤から解放される人がたくさんいる。

 政府は「税と社会保障の一体改革」による消費増税で社会保障の予算を増額し、ヘルパーを頼みやすくするなどの支援を予定しているが、すべてがお金で解決する問題でもない。介護に関わる人が人を愛すること、人に尽くすことの意味を知っておくことが大切です。

参考

介護は献身の愛を学ぶ機会

 今は、高齢社会に加え、高齢者の7人に1人が認知症という「認知症社会」を迎えようとしている。

 認知症とは、脳の細胞の働きが悪くなり、生活に支障が出ている状態と言われる。物忘れが激しくなったり、夜中に徘徊するなど、介護の負担がかかることも多い。介護疲れから うつ になったり、将来を悲観して自殺するケースもある。また、認知症の家族を虐待したり、エスカレートして殺人につながることもあり、社会問題になっている。

 介護疲れの理由の一つに、認知症の人に介護をしても意味がない、明るい未来が描けないと考えてしまうことが挙げられる。こうした認知症介護による不幸を減らすには、認知症の本質を理解することが必要です。

 

介護はほんとうの愛を学ぶ機会

 介護する側は、その無私な行為を通して、「与える愛、尽くす愛、奉仕とは何か」を考え、他人に対する献身の心を学ぶ機会と捉えることもできる。

 厳しい環境であったとしても、いかに明るく、朗らかに生きられるかが、本人の魂を光らせるための試練になっているという考え方もある。

 認知症のケアには、薬よりむしろコミュニケーションを大切にした、本人が安心できる環境づくりが大切です。言動を頭ごなしに否定したり、理屈で説得したりしようとするのは、本人の気持ちを傷つけてしまいます。

 

介護現場に誇りと生きがいを

 高齢者の命を預かる介護施設で働くためには、心身ともにストレスがかかります。それなのに、施設での仕事に必要な専門性や能力を身につけるための十分な人材養成システムがなく、介護職の社会的地位や給料も低いままという問題もあります。

「「超少子高齢社会」を迎える日本で介護人材不足を解消するには、例えば「給料を1万円上げる」などといった場当たり的な待遇改善では効果が期待できません。介護士が仕事に誇りや生きがいを持てるような教育制度や、キャリアアップができる制度も必要でしょう」(『心と体のほんとうの関係。』)

 

介護をプラスに受け止める努力を

 大きな目で見たなら、一生のうちに家庭に病人を持たない人は ほとんどいないかもしれません。病気、事故、不慮の災難、そして、それに基づく死。こうしたものは人生の折々に見受けられるものです。それは、人々を深い悲しみの淵に立たせることになります。現実に病人をかかえ、看病に明け暮れている家庭は、とても暗くなっていることでしょう。 ただ、その暗い面だけをあまり強く捉えすぎてはいけないと思います。人間は、本体である魂が肉体に宿って修行をしている存在です。たとえ、その体が病に冒されて苦しんだとしても、魂そのものは、地上を去って、あの世に還ったときには、元どおりの完全な姿になります。 病に苦しんでいる姿は、あくまでも この地上で修行をしていく途中に現れてくるものであって、永続的なものではありません。たとえ、その目には、どんなに地獄の苦しみのように見えたとしても、肉体というものから逃れ去り、魂そのものとなったときに、人は自由自在の境地に入ることができるのです。

 そうである以上、たとえ病気に苦しんで、やがて その病に倒れて帰らぬ人となったとしても、死んでからのちのことのほうが遙かに大事であるわけです。この世は、あくまでも「あの世に還るための準備期間」であり、「あの世に還るための予習」なのです。したがって、どのような問題が降りかかってきたとしても、その事件を、その事柄を、自分の魂にとってプラスに役立てる方向に考えていくことが大事です。それが、看病する側にも、看病される病人の側にも望まれることなのです。

 

耐えることも「愛の実践」

 介護をしている家族のほうには、何らかのお返しの義務のようなものがあるのかもしれませんし、「やがては自分も介護される日が来る」ということかもしれませんが、それも愛の実践です。耐えることも愛の実践なのです。 また、ある人が、晩年にアルツハイマーにかかったからといって、その人の人生が間違っていたわけではないのです。人間の肉体は、機械としての面では いろいろなところが弱ってくるので、頭脳の機能などがうまく働かなくなることはあります。

 しかし、そのようになったときでも、霊的には完璧です。したがって、「周りが言っている悪口などが本人の魂に聞こえている可能性は高い」と思い、口を慎んだほうがよいのです。介護される方の お迎えの日 は決まっているでしょうから、おそらく「そのときまでは、一生懸命、愛の実践行為をせよ」と、介護する側を鍛える場が与えられているのだろうと思います。

看護は天使を目指す修行