凶悪犯罪

「障害者に人格はあるのか」(相模原・障害者施設殺傷事件)

 今回のような凶悪犯罪の加害者は、良心や善意を持たない、いわゆる「サイコパス(精神病質者)」ではないかと世間から言われることが多い。しかし、善意を持たない「生まれつき悪魔のような人間」は、本当に存在するのでしょうか。

 幸福の科学では、生まれつきの悪人がいるのではなく、すべての人間が「仏の子」として美しい心を持って生まれてきていると教えている。だが、何十年かこの地上で生きていくうちに、いろいろな影響を受けて、その性格や考え方が形作られてしまう。

 愛と障害者と悪魔の働きについて

凶悪犯罪と悪霊との関係

 どちらの犯罪も容疑者と被害者の間に利害関係があるわけではなく、動機も不明確で第三者には理解し難い。こうした未成年による異常な犯罪をどう考えればよいのでしょうか。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『霊界散歩』の中で凶悪犯罪の原因を「霊的」に指摘しました。

 「犯罪を犯した人のなかには、よく、自分が犯罪を犯したことを全然覚えていない人がいます」「憑依されているときに、人殺しをしたり、泥棒に入ったり、万引きをしたり、いろいろな悪さをするわけですが、事が終われば、憑依霊が抜けて、本人の魂が戻ってきます」

 事件当時の記憶をはっきりと思い出せない場合、医学的には多重人格と見なされがちだが、その多くは悪霊による憑依が原因です。

 地上にいる人間が、本来の自分ではありえないような衝動的な行動に出るのは、地獄の悪霊・悪魔の影響を受けているからです。

悪霊、悪魔とはどんな存在なのか

 本人が日常的に周りの人を憎んでいたり、満たされない境遇に不満を抱いたり、暗い気持ちを抱えていると、その思いが「波長同通の法則」で同じような思いを持つ悪霊を呼び寄せる。自らの心を変えない限り、悪霊と同通し続け、ついには肉体を乗っ取られてしまう。

 悪霊とは、生前に善なる思いや行いよりも悪なる思いや行いの方が多く、死後もなお成仏できずに迷い苦しんでいる霊存在である。こうした悪霊はプラスの心を持った人間には取り憑けないが、自らと同じ嫉妬や憎悪に満ちたマイナスの心を持つ人間に憑依する。心の状態が変わらず悪霊に毎日のように憑依されると、やがて完全憑依状態になり理性が失われ凶悪犯罪に走ることがある。

 様子が急に変わる現象は宗教的には「憑依」と呼ばれ、ある霊が地上の人間に取り憑いて常に影響を与えている可能性が高い。

 霊が取り憑けるのは本人が同じ心の状態や考え方を持っているためです。「障害者は生きるに値しない」という容疑者の過った「人間観」が同類の悪しき霊を呼び寄せた要因です。

 このような思想に基づく凶行は精神薬の投与だけでは止められない。容疑者が魂の真実を知る機会があったら罪を犯すことは避けられたかもしれない。

 大川隆法総裁は、『ザ・ヒーリングパワー』で次のように説いておられます。

 「人生において、迷いの根本は、『人間として生きているときに、幸福の科学が教えているような「正しい生き方」を知らない』『人の本質は魂であり、あの世の世界があるということ、死んだら霊になるということを知らない』ということです

参考

 特に未成年の犯罪の増加の背景には、学校教育、家庭教育の中に宗教的価値観が欠けていることがある。幼い頃から宗教心を育み自らの心をコントロールできるようになれば、悪霊の影響を受けにくくなる。

 戦後、日本では教育から宗教を排除してきた。「人間は皆、神仏に平等につくられた尊い存在」であることを信じてこそ、自らの命を大切にし他人の人生を尊重できるのです。宗教的価値観の浸透こそ犯罪を抑止するカギである。

参考

 障害者殺傷事件も、その根底にあるのは、自分や自分が属する社会集団の考えを絶対視する思想である。お互いの正しさを主張し合う中に争いが生まれ、そこに悪魔的な思想が入ってこないとも限らない。

 これを避けるには、人類を導いてきた存在の説く正義を学ぶことである。

 幸福の科学は、「すべての人は神仏の子であり、魂において平等であること、人間は何度も転生輪廻を繰り返し、違う国や時代に異なる立場で生まれ変わる」という霊的真実を明らかにしている。これを知れば、国籍、人種、宗教、思想などの「違い」で憎しみ合うことは愚かだと分かるはずです。

 世界で起きている悲惨な事件をなくすために、「お互いの違いからくる憎しみを越え、共に愛し合え」という神仏の願いに耳を傾けたい。

 

多重人格と憑依

 現在、精神医学の世界では、多重人格については診断方法をめぐって意見が分かれている。『別人格』と言っても、精神医学の分野では、『了解不能』(わからない)ということ。それ以上追求できないため、薬物で鎮静を図ることぐらいしかできません。

 現代では了解不能とされている多重人格ですが、この現象を同じ傾向性の苦しみを持つ霊による『憑依』という現象で説明するとすべて筋が通るのです。

さらに詳しく

 様子が急に変わる現象は宗教的には「憑依」と呼ばれる。ある霊が地上の人間に取り憑いて常に影響を与えている可能性が高い。

 複数の人格を有する状態は、精神医学では「解離性同一障害」と呼ばれる。以前は「多重人格障害」と呼ばれていたこの症状は、宗教的に見れば、「憑依現象」の可能性が高い。

多重人格 現代医学では「了解不能」

精神科医には理解できない憑依現象

 憑依現象とは、地上で生きている人間に現在肉体を持っていない霊存在が影響を与える、もしくは肉体を支配してしまうことを指す。基本的には、本人が考えていること、思っていることと似た霊を呼び寄せることが多い。だが、激しい自己否定や薬物、アルコールによる酩酊状態などにより、本人の魂が肉体から離れてしまい、悪霊などが肉体を支配することもある。

 霊が取り憑けるのは、本人が同じ心の状態や考え方を持っているためです。「障害者は生きるに値しない」という容疑者の過った「人間観」が、同類の悪しき霊を呼び寄せた要因である。

 宗教的に言えば、犯人は悪霊に「憑依」されている状態である可能性が高い。善悪の基準を見失い、他人への不信や怒り、絶望を抱えている人間と同通した悪霊が、犯罪を犯すよう「ささやく」ことがあり得る。

 悪霊に憑依されるにはそれだけの理由がある。地上で生きている人間の心がその悪霊の心と同通するということです。例えば、普段から怒りの心を持っている人にはより強い怒りの心を持った霊が憑依し、暴力行為に及ばせることがある。また、自己嫌悪が強い人には同じような心を持った霊が憑依し自殺に至らせる。

 憑依現象だとすれば、乗っ取った霊と本人の「波長が合った」理由があったということになる。それは疲労やストレスなど様々だが、大事なことは悪いものと波長が合うような自分の心をコントロールすることです。

 西洋医学自体がこうした霊的な影響を認めないが、戦後の日本が宗教を排除し、唯物論的な風潮が強いという問題もある。だが、それだけでは説明のつかない出来事が日常的に起こっている。宗教の側からの問題提起を受け止めない限り、こうした事故の原因は分からないでしょう。

西洋医学では、憑依現象がなぜ起きるのかが説明できない

 我々も気がつかないうちに、悪魔ではないとしても「悪霊」に取り憑かれていることがないとは限らない。

 幸福の科学大川隆法総裁は、経典『ザ・ヒーリングパワー』で次のように説かれた。

人生において、迷いの根本は、『人間として生きているときに、幸福の科学が教えているような「正しい生き方」を知らない』『人の本質は魂であり、あの世の世界があるということ、死んだら霊になるということを知らない』ということです

 悪霊に憑依されたまま死ねば、その霊と同じ地獄で苦しむことになる。また、自殺をしても、霊となって地上でさまようこととなり、苦しみは続く。死ぬことでは苦しみから逃れることはできない。

逆に、悪霊を共感させ、引き寄せている考え方を宗教的な反省によって変え、善い行いを積み重ねていけば、悪霊から遠ざかり、人生を再建することもできる。

 悪霊に翻弄されての殺人という悲劇の連鎖は止めなければならない。その解決法として、「霊的人生観」を基礎として、人生の苦しみを乗り越えるという宗教的アプローチに可能性が見いだせるでしょう。

参考

憑依には麻薬も大きく影響している

 この世の人間の不幸を喜ぶ悪霊の立場から見れば、麻薬を使っている人は、憑依してこの世で暴れるための格好の道具ということになる。

 本人に責任がないかと言えばそんなことはない。憑依される状況をつくったのは他ならぬ本人だからです。

 憑依は、本人の心の波長と悪霊の波長が合った時に起こる。ラジオの周波数を合わせるとその周波数の放送を聴けるように、同じ波長の者同士でなければ憑依はできない。

 つまり、悪霊や悪魔に憑依されないためには、麻薬などを使わないことは当然だが、心の波長を明るく積極的に保ち、失望や不満など悪霊と同じ心境にならないことが最も重要です。

 

 精神鑑定の霊的視点

 心神喪失とは、物事の善悪を判断して行動する能力がない状態であり、責任能力がないとされるため罰されない。

 心神耗弱とはそうした能力が著しく弱っている状態で、責任能力が限定されているとされ、刑が軽減される(刑法第39条)。

 殺人などの凶悪犯罪では、被告が「その時の記憶がない。何をやったか覚えていない」と語ることがしばしばあり、被告の責任能力の有無が重要な争点となる。責任能力がなかったと判定されれば、殺人者でも遺族の感情に反して罰されないのです。

さらに詳しく

 凶悪犯罪でなくても、怒りや絶望のあまり我を忘れた言動をとる人は珍しくない。霊的観点からいえば、その瞬間その人は悪霊に憑依され、肉体を乗っ取られてコントロールされていることが多い。ですから「記憶がない」のです。だが、幸福の科学が明かしている心の法則と霊界の関係に照らすと、そうした悪霊を呼び込んだのは偶然でも災難でもない。本人の心が恨みや怒りなど、悪霊と同調して引きつける波長を出していたからに他ならない(『波長同通の法則』)。その意味で、状況などに情状酌量の余地はあったとしても、最終的には自分の心をコントロールできなかった本人にも原因がある。法律的にはともかく、宗教的には心神喪失者に「責任がない」とは一概に言えないのです。

参考

 精神的に病んだ人の殺人は、他人にそそのかされて行なう「教唆殺人」に近い面があるかもしれない。その場合、当然本人にも責任が発生する。

 憑依による犯罪でも、本人の責任は逃れられない。これは、泥酔して判断能力がない状態で交通事故を起こしたとしても、そうした状態になる前段階として、飲酒をして車に乗った責任を問われることに近い。

 現代の医学では憑依現象を十分に解明できないため、裁判所は、別人格による犯行をどのように扱っていいのか悩んでいるのが実情でしょう。霊的真実や心の法則に無知な精神鑑定やそれに基づく司法には、唯物論的な限界がある。罪を正当に裁き、犯人の更生を促すためにも、裁判所には霊的価値観への理解が求められる。

 人が犯罪に至る際の心の法則を解明し、根本的に犯罪を防止するためにも、霊的真実の啓蒙が不可欠である。

犯罪更生

死刑の霊的な視点

正しい宗教の教えと教育

 自分の悪しき心の傾向性が悪霊を引き寄せるという霊的真実を知るなら、精神鑑定で「責任能力がない」とされても、加害者に「責任」があることになる。しかし、たとえ過去に悪しき行いをしても、反省をすることで自分を変えていくことができる。肉体を乗っ取られるレベルまで悪霊の影響を受けている場合は、それほど簡単なことではないが、悪霊との縁を断ち切っていくために、正しい宗教の教えを学び、反省を習慣づけることが必要です。また、心を悪しき思いに支配されないことだけではなく、悪霊と正反対の「明るく積極的で建設的な心、愛の心、利他の心」に変えていくことも必要です。

 悪霊に翻弄されての殺人という悲劇の連鎖は止めなければならない。その解決法として、「霊的人生観」を基礎として、人生の苦しみを乗り越えるという宗教的アプローチに可能性が見いだせるでしょう。

参考

 本来、この世に生きるすべての人が、神の子としての美しい心と使命を持って生まれてきている。自らの心を善なる方向に向け、魂を光らせることによって悪霊から身を守ることができる。このような、学校で教えてもらえない霊的な知識を得るためには、正しい宗教の教えと教育が必要です。 参考

命の尊さを教えるには宗教教育が必要