命の尊さを教えるには宗教教育が必要

 なぜ児童・生徒たちの心に、教師の言葉が届かないのでしょうか。大きな原因として考えられるのは、現在日本の公教育で宗教教育が行われていないことでしょう。

 仏教やキリスト教などの世界宗教は、共通して、道徳や法律に先立つ善悪の基準を教えている。また、人間は神仏に作られた存在であり、神仏と同じ性質を持っていると説く。だからこそ、人間は尊いのであり、歴史をひも解けば人権思想の根拠もここに行き着く。しかし、「神も仏もない」と否定する唯物論の立場では、人間はモノや機械と変わらなくなってしまう。人間の本質は魂であり、この世とあの世を行き来しながら様々な経験を積む魂修行をしているというのが真実である。「人を殺すこと」は、神仏から与えられた人生を奪う行為だからこそ罪なのです。

 また、悪霊や悪魔は現実に存在し、凶悪犯罪の裏で、犯人に憑依してささやきかけているケースも多い。

 犯行直後の振舞いが妙に冷静だったり、犯行を「覚えていない」ケースなどでは、悪霊に憑依されたり、犯行時に意識を乗っ取られている可能性が高い。

 ただし、悪霊に憑依されるのは、本人の考え方にその悪霊と親和性があるからであり、基本的には本人自身に責任がある。この意味では、精神鑑定の結果によって、無罪もしくは罪が軽くなることに一定の疑問がつく。

 教育の荒廃が叫ばれるようになって久しいが、根本原因は、宗教が公教育から排除されていることにある。悲惨な事件を繰り返さないためにも、道徳の「特別教科化」からさらに踏み込んだ宗教教育の導入が不可欠です。

参考

 道徳教育を通して「命を落とさないことの大切さや、その方法」を教えることはできても、「なぜ生命を奪ってはいけないのか」という根源的な問いに答え切ることは難しいでしょう。a0960_005582

 生命の本質やその尊さなど、目に見えないものの大切さを教えているのは、世界各地で説かれてきた宗教である。しかし、日本の学校教育からは「神、仏という存在がいる」「良いことをした人は天国へ、悪いことをした人は地獄へ行く」といった、基本的な宗教教育は日陰の存在として追いやられている。

 教育基本法では、宗教に関する一般的な教養を教えたり、宗教に対して敬意を払うことは定めている。だが、社会問題への対応や生徒への指導、道徳教育において、宗教教育が根付いているとは言いがたい。

 『人間の本質は魂であり、肉体が死んでも魂は生き続ける』というのが霊的な真実です。また、この世に生まれる理由は、「人生の様々な出来事を通して魂を磨き、成長させるため」である。殺人が罪なのは、他の人が幸福に生き、魂を成長させる機会を奪ってしまうからです。

 もちろん、家庭教育が大切なことは言うまでもないが、子供が一日の大半を過ごす学校での教育は、人格形成に大きな影響を与える。残虐な事件を二度と繰り返さないために必要なのは、現在の道徳教育を「宗教教育」のレベルに引き上げ、真の意味で生命の大切さを学び、善悪の判断ができる子供へと育てることである。

参考

 子供の非行・犯罪防止は親が宗教的素養を身につけることから始まる。家庭の幸福についての質疑応答をまとめた『幸福へのヒント』では、子供の非行や犯罪の防止について以下のように指摘しておられます。

「少年犯罪、青年犯罪のほとんどは情緒障害によるものです。この情緒障害は、『宗教的良心というものを家庭のなかでつくれなかった』ということに起因しています。それは、『親に宗教的素養がなかった』ということが非常に大きな原因になっています」

 子供に、「命の大切さ」を教えるには、「愛されていることの実感」「『死んだらどうなるか』への答え」「利他の心」などの観点が欠かせない。

 まず、親が宗教的真理を学んで、この世のことのみならず霊的真実を知ることです。そして、霊的真実に裏打ちされた真の「命の大切さ」を伝えるなかでこそ、子供たちをさまざまな悪から守り、健全な心を育んでいくことができるでしょう。

参考

 未成年の犯罪を減らすには、善悪の価値観を教えるための宗教教育が大切です。 特に未成年の犯罪の増加の背景には、学校教育、家庭教育の中に宗教的価値観が欠けていることがある。幼い頃から宗教心を育み、自らの心をコントロールできるようになれば、悪霊の影響を受けにくくなる。

「命の教育」から善悪を教える「宗教教育」へ

 戦後、日本では教育から宗教を排除してきたが、「人間は皆、神仏に平等につくられた尊い存在」であることを信じてこそ、自らの命を大切にし他人の人生を尊重できる。宗教的価値観の浸透こそ犯罪を抑止するカギである。

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