憑依・霊障

 現在、精神医学の世界では、多重人格については診断方法をめぐって意見が分かれている。『別人格』と言っても、精神医学の分野では『了解不能』(わからない)という。それ以上追求できないため、薬物で鎮静を図ることぐらいしかできません。

 しんし、この現象を同じ傾向性の苦しみを持つ霊による『憑依』という現象で説明するとすべて筋が通るのです。

 我々も、悪魔ではないとしても、「悪霊」に取り憑かれていることがないとは限らない。たとえば、茨城の事件の男は、高校卒業後アルバイトを転々としており、「定職に就いていないことを責められた」と家族への不満を供述。自宅近くの遊技場では、負けた腹いせにゲーム機をたたいたり蹴ったりする姿も目撃されていたと言う。また、秋葉原の事件の男は、派遣先の会社にいつ解雇されるか分からないという不安を抱いていたと言い、ネットへの書き込みを無視されたことに孤立感を深めていた。

 環境や他人のせいにしようとする心は悪の発生原因である。悪霊の多くも、生前自分の不幸を環境や他人のせいにし、死んで霊になってもその心のままでいる。自分の不幸を他に責任転嫁する人間の思いが、そうした悪霊と同通し、彼らのボディ・ジャックを呼び込んでしまうのです。憑依も、根本は憑依される人間の自己責任なのです。

 マスコミや識者も、特に動機が不明確な通り魔事件などが起きると、その原因を「親」「家族」「社会」「時代」といった本人以外のせいにしがちです。不幸をともすれば他人のせいにしたがる現代の日本は、悪霊にとって暗躍しやすい時代と言える。正しさの尺度、正しい宗教がないからだと思います。戦後日本は宗教を排斥し、忌避してきました。そこに左翼思想が乗っかって、現状のような唯物論的な世界を肯定しているのです。現代は物質的な価値観が蔓延しています。そのような時代だからこそ、我々は本当の正しさというものに目を向けていく必要があるのです。

 程度の差はあっても、霊的な世界観を知っていれば、そういうことが起きないように、自分の心を律していこうという気持ちになるでしょう。霊的人生観さえ持てば解決の糸口がつかめるはずです。

悪霊に憑依されたとき、肉体に病変が現れることがある

「怒りや欲などで心に曇りをつくると、同じような心のまま亡くなった人の霊(悪霊)が引き寄せられ、憑依されてしまいます。すると自分の霊体もその影響を受けて、病気になることがあります。心の曇りをつくらないようにすることが大切です。」(『超・絶対健康法』)

 悪霊が取り憑くか取り憑かないかは、頭のよし悪し とは関係がないのです。悪霊は人柄のよい人には憑きにくく、人柄の悪い人には憑きやすい。いかに感情が安定しているか、いかに人生観が安定しているかと関係がある。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『幸福の法』で次のように説かれました。

「「悪霊が取り憑くか、取り憑かないか」ということは、頭のよし悪しとは関係がありません。悪霊は、頭のよい人には憑かず、頭の悪い人だけに憑くかというと、そんなことはないのです。そうではなく、これは基本的には人柄のほうと関係があります。人柄がどうであるかということです。悪霊は、人柄のよい人には憑きにくく、人柄の悪い人には憑きやすいのです。私は以前、財務省の官僚が覆面で行った座談会を本にしたものを読んだことがあります。ところが、そこでは三人が話をしているのですが、その三人ともが阿修羅霊に取り憑かれているのです。それで、その本を読むと、非常に気分が悪くなり、半日ほど、仕事ができませんでした。彼らは、忙しく仕事をしているうちに、霊障になっていたのでしょう。もし彼らが部屋のなかに入ってきたら、たぶん、部屋のなかがモワッとして、こちらの体がペタッとなるほど、きついと思います。そのように、頭のよし悪しとは関係がないわけです。心が非常に波立ち、非常に攻撃的な心を持っていると、阿修羅霊に憑かれたりして、まったくの霊障になります。そして、自殺するか、あるいは、もっと強ければ、人をいじめるほうに行くか、そのどちらかになったりするのです。霊的な影響を、悪霊から受けるか、それとも守護霊から受けるかということは、この世的な頭のよし悪しとは、また別の問題です。そこに関係するのは、主として人柄です。言い換えれば、いかに感情が安定しているか、あるいは、いかに人生観が安定しているかということです。ここと関係があるのです。」

 西洋医学では、憑依現象がなぜ起きるのかが説明できない。

 脳における何らかの障害だとして、精神病院に入れられる人は多いが、医学では治す方法はない。

 しかし、霊がやって来たというのがおかしく聞こえるほうが、真実の世界から見たらおかしいのです。

 大川隆法総裁は、『神秘の法』で次のように説かれました。

「西洋医学では、「憑依といわれる現象がある」ということは分かっているのですが、「なぜ、そういうことが起きるのか」という問いに答えられないのです。それについては、どうしても分からず、科学的に説明ができません。そう呼ばれる現象があることは分かっていても、それを医学的には説明できないわけです。医学というものは、肉体としての人間を研究しているので、どうしても根本に唯物論的な考えがあります。それはそれで使命としてはよいのですが、憑依現象についても、「脳に何か関係がなければいけない」と考えて、「脳の作用、あるいは脳の構造上の問題である」と捉えがちです。憑依現象を精神科の案件とした場合にも、だいたい、「脳における何らかの障害である」と考えるのです。また、心というものについても、「脳の作用に付随して発生するものだ」と考えます。そして、「心は、脳の一種の機能として、精神作用としてあるのであって、脳のほうが、何か具合が悪くなると、精神作用のほうも歪んでくる。それによって、『霊が見える』『霊の声が聞こえる』などと言い出したり、『自分は○○の霊だ』などと語りはじめたりする患者が出てくる」というような扱いをしています。それで精神病院に入れられている人は多いのですが、精神病院に入れられても、基本的には治りません。なぜなら、医学そのものが憑依現象について理解できていないので、治す方法はないからです。「薬を飲ませて、おとなしくさせる」「隔離して、一般の人との摩擦、一般社会との摩擦を避ける」ということぐらいしか方法はないのです。もちろん、ほんとうに、身体の構造上、何か障害があって、錯乱状態になる人もいるとは思います。“機械”のほうが故障している場合もあるでしょう。しかし、そうでない場合もあります。要するに、心のほうの問題が原因で、いろいろなものが見えたり聞こえたりすることがあるのです。「いろいろな霊がやってくる」「○○の霊が、いま来ていた」などと言うと、それがおかしく聞こえるようになってきているのが現代ですが、おかしく聞こえるほうが、ほんとうは、真実の世界から見たら、おかしいのです。」

 神も仏も、霊の世界の法則(『波長導通の法則』)を無視してまで悪霊が憑依できなくしようとはされない。

 地上に生きている人間が、悪霊の波長に合うような間違った生き方をしないこと。悪霊の影響を受けたときには、素直に自らを振り返って反省することが大事である。

 大川隆法総裁は、『幸福への道標』で次のように説かれました。

「霊の世界は法則下にあります。法則のもとにすべてのことが運行されているのです。悪霊も一つの法則のもとに憑依現象を起こしているのであって、そうした法則を無視してまで憑依することはできません。そうでなければ、地獄の悪霊はすべて地上に出てきて、地上人に憑依してしまいますから、地獄の人口は空になってしまうはずです。しかし現実に空になっていないということは、一定の約束ごとのもとに地上に出てきて、そして地上の人間を迷わしているのだというふうに考えられるのです。では、その一定の条件とは何でしょうか。それが地上の人間の心の状態が、彼に憑依しようとする悪霊とまったく同じ周期、周波数をもっているということなのです。言ってみれば、悩みの質が同じというふうに言ってもいいし、考えている関心がピッタリ一致するというふうに言ってもよいでしょう。念いの世界は、一念三千であってどの世界にも通じます。そういうふうに放送電波を出しているのと同じなのです。それゆえに、まったく同じ周波数があった場合に、その周波数に合う霊が感応してくるということがあるわけです。こう考えてみると、やはり悪霊のせいにするのではなくて、自分自身の心のあり方というものを、もう一度ふり返って考えてみる必要があるのではないでしょうか。」

 不思議なことですが、悪霊が憑依するのは、鬱血して疲労素や痛みなどがあるところです。たとえば、リウマチなどは蛇の霊が足にぐるぐると巻きついていたり、慢性的な頭痛は動物霊が頭に憑いていたり、肩や首や腰などがいつも痛むのはそこへ霊が乗っていたりする。

 その原因は、「波長同通の法則」で、悩み事や心配事などで地獄界にいる悪霊と心が同じ波長になっているからです。

 大川隆法総裁は、『神秘の法』で次のように説かれました。

「霊に憑かれているところは、肉体的に見て、血が滞って鬱血しています。その鬱血したところに、疲労素や痛みなどがあって、霊的に見ると、暗い陰りができています。そこに霊が引っかかってくるのです。たとえば、リウマチなどで、「足がいつも冷えて困る」という人の場合は、蛇の霊などが足にぐるぐると巻きついていることもよくあります。また、慢性的に頭痛がする人、いつも、「頭が痛い、痛い」と言っているような人の場合も、動物霊が頭に憑いていることがあります。一瞬、「頭に鉢巻きを巻いているのか」と思って、よく見たら、そうではなく、長い蛇の霊が頭に巻きついていたりします。あるいは、狐などの霊が、前足でピッと頭をはさんでいたりします。「頭が痛い、痛い」と言っている人には、動物霊が乗っていて、頭を押さえていたりするのです。それから、「肩や首のところが、普通でないかたちで、いつも痛んでいる」という人は、そこへ霊が乗っていたりします。腰などの場合も同様です。それは、なぜ起こるのでしょうか。もちろん、その場合、霊体の一部も痛いわけですが、その霊体の痛みにつながっているのは心のところです。心のところに原因があるのです。前述した「波長同通の法則」があり、霊が憑くには憑くだけの理由が必ずあります。何か理由がなければ霊は憑きません。霊が憑くからには、その憑いたものと憑かれるものとに同じ心があります。両者は同質の心を持っているのです。生きている人間で、そういう心になるのは、まずは、悩み事、心配事がある場合です。悩み事、心配事があれば、調子が悪くなります。人間として生きているあいだに、悩み事、心配事がまったくないということはありません。誰でも、悩み事、心配事はできます。ただ、それが、この世的に見て、一定の実力でもって解決がついていくものであればよいのですが、それで解決がつかない場合は、その悩みに心が縛られてきます。心が一点にグーツと縛られてきて、逃げられなくなってくるのです。その状態が長く続いていくと、つまり、悩みが一点でずっと続いていくと、地獄界にいる人には、ちょうど、上からロープでも下りてきたような感じに見えます。彼らは、一本、長いロープが下りてきたのを見て、「何だろう、これは。おれのところへ下りてきた。『上がってこい』ということかな」と思い、それを引っ張って、上がっていきはじめます。そして、「何か御用ですか」という感じでやってくるわけです。」

 憑依霊がつくと、体調が悪くなり不機嫌になって、悪の循環がはじまり、次がやってくる。

 しかし、人間の身体は小さいので、何体も憑くと、憑依霊どうしがケンカしてしまい、それほど数多くは憑けない。かなり重症でも、四、五体ぐらいまで。普通は一体か二体いることが多い。

 大川隆法総裁は、『幸福への方法』で以下のように説かれました。

「心の針が一点に止まって、地獄霊たちと同じ波長が続くようになったときには、彼らにそのまま五年も十年も二十年も居すわられることになります。それが、いわゆる憑依されているという状態です。憑依霊が憑いたわけです。憑依霊が憑くと、霊能者でなくても身体が重く感じてきます。首や肩が凝ったり、背中や腰が重くなったり、何となく重い感じがするのです。そして、そうした生活をしていると不機嫌になってくるので、どうしても人間関係がうまくいかなくなり、悪の循環が始まります。憑依霊が一体だけなら、まだましなのですが、このように悪い人格ができてくると、二体目、三体目と、次のものがやってくるのです。私は、四、五体の悪霊が憑いている状態の人と、近くで少し話をするだけで、空気が汚染されてくるのを感じます。そうした人の近くは空間が歪んでいるのです。一、二体ぐらいであれば、まだ呼吸ができますが、どのような顔の人なのかが分からなくなるほど、いろいろなものが憑いている人だと、地獄臭がして、空気まで毒されて感じられるのです。ただ、ある変な宗教団体が言っているように、「何百体も何千体も悪霊が憑く」ということは、ありえません。これまでに最も多いと思ったのは十体ぐらいです。そのくらいが限度です。人間の身体は小さいので、それほど数多くは憑けません。何体も憑くと、憑依霊どうしがケンカをしてしまい、負けたほうは憑いていられなくなるので、それほどたくさんは無理なのです。かなり重症の人は、四、五体ぐらいまでは持っていることがありますが、普通は、〝おなじみさん〟が一体か二体いることが多いということです。」

 『宗教の挑戦』では次のように説かれました。

「では、本来の霊的な自分を取り戻すためにはどうするかと言いますと、毎日、反省というものをきっちりとすることです。夜宴る前に、今日一日のことを振り返って反省する。今日一日、たとえば人に対して、厳しい念いを出さなかったか。厳しい言葉を言わなかったか。悪口を言わなかったか。嘘はつかなかったか。人を仲違いさせるようなことはしなかったか。また、当然ながら、自分を堕落させるようなことはしなかったか。思いのなかにおいても、淫らな思いを持たなかったかどうか。あるいは、世の人びとを悪くさせるような方向の思想を持たなかったか。また、今日は人に親切にしただろうか。今日は仕事は熱心にしただろうか。純粋な気持ちだっただろうか。対人関係、あるいは自分自身の心と行ないにおいて、正しい生き方をしたかどうかということを、毎日きっちりと振り返って、三十分なり一時間なり反省してゆくと、次第しだいにゴミやほこりが取れて、心が透明になってくるのです。こうした点検を毎日くり返してゆきます。また、土曜や日曜のような、ゆっくりした休みのあるときには、一室にこもって、心穏やかに、生まれてからこのかたのことを順番に振り返ってゆきます。小さいころに、ご両親にいろいろと迷惑をかけたことなどを振り返ってみる。小学校時代、先生や友達に迷惑をかけたことはなかったかどうか。それから、物心ついてから後、わがままにいろいろなことをしなかったか。特に反抗期の頃のことなどを、よく反省するのです。こういうかたちでの反省を通して、自分の心の透明化をはかり、そして熱い涙、あるいは熱い感激がこみ上げてきて、霊的になっていった場合には、もしその人にそれまで悪霊などが憑依していたなら、それが背中からパリッと剥がれるような感じがします。壁紙を剥がすような感じで、パリッと剥がれた感じがするのです。その悪霊が取れた瞬間は、身体がものすごく軽くなります。ものすごく軽い感じがします。自分は今までどうしてこんなに重い生活をしていたのかと思います。身体が軽くて軽くて、本当に嬉しくて、浮き浮きするような経験をします。いつも宿酔(ふつかよい)で身体がだるいとか、煙草をずっと吸っている人が食事がまずいとかということと一緒で、悪霊がずっと憑いている人というのは、いつも何かだるくて、重くて、面白くなくて、辛くてという気持ちがずーっと続いているのです。憑依霊が取れた瞬間はわかります。パリッといきます。そして、明るい、あたたかい、軽い感じになって、久々に雨がやんで晴れあがったときのように、飛んだりはねたりしたくなるような明るい気持ちになります。これが実は守護霊と心が同通した瞬間なのです。」

 『幸福への道標』で次のように説かれました。

「こうした悪霊に負けてはならない。私は、彼らに勇気をもって間違いに気づかせてやること、これが愛であると、そのようにも思えるのです。その第一は、神というものの存在をしっかりと信ずることです。信ずることから、ほんとうにすばらしい世界が始まります。その神を信ずるという行為、あるいは指導霊を信ずるという行為、そして「法」が説かれるときに、その「法」につながっていこうとする心、法に帰依する心、この心が各人、各人を金色のロープで結びつけているのです。そして、あらゆる悪霊から守る働きをするのです。この「法」に帰依する心を失った者は、ロープの結び目がほどけ、各人が悪霊と戦わなければならなくなっていきます。そういうこととなっていくのです。悪霊との戦いにおいてだいじなことは、「法」に帰依するという気持ちであると思います。その金色のロープをしっかりと結びつけておくということだと思います。悪霊と戦うさいに、第二に必要なことは、愛の徹底的実践であります。そのときに魂の純粋さを、けっして忘れないことだと思います。純粋な気持ちから愛を発揮すること。愛を実践すること。これが望まれているのです。不純な動機から愛を実践しても、その愛はだれのためにもなりません。みなさん自身のためにも、その愛を受ける人のためにもならないのです。純粋な動機から無私な気持ちで愛を捧げるということ、これがだいじです。第三番目に言っておきたいことは、それは、今、自分がほんとうに神に生かされているということに対する感謝の気持ちを忘れないことだと思います。私が接してきた悪霊で、感謝の気持ちがある人は一人もいませんでした。百パーセント感謝がないのです。これだけは明らかなことでした。まことに不思議なことですが、人間として生まれて生きて、感謝なき人生を送るといぅことは、それほど寂しいものなのです。感謝を持って生きられるということは、それだけ多くの恵みを発見している自分があるのです。それだけ心にゆとりがあり、輝きがあるのです。悪霊について想いをめぐらすときに、どうかこの私の言葉を思い出してほしいのです。悪霊は不平、不満、愚痴、足ることを知らぬ欲望、こんなもので心をうずまかせています。そうした思いはどのような人間にもおそらくあるでしょう。人生をふり返ってみたときに、どこかにかならずあるはずです。しかし、悪霊にはけっしてないものは感謝だということ、このことさえしっかり思っていれば、やがてみなさんはちがった波長の世界に入っていけるのです。どうか心が波立って、そして毎日が不幸だという方は、おそらくは悪霊の支配下にあると思われますが、この「感謝」という二字を忘れないでいただきたい。そのときに彼らはあなた方に憑いていることができなくなってくるのです。」

 悪霊に憑依されている人と思う人は、まず、努力して明るく笑うこと。そのとき、仏の光が入ってくる。

 よいことが必ず来ると信じて、希望を持って生きていくこと。

 そして、他人の幸せを祝福すること。その善念は必ずや自分にも返ってくる。

 『地獄の方程式』では次のように説かれました。

「悪霊に憑依されている人の特徴は、たいていは暗い表情をして、いつも取り越し苦労、持ち越し苦労で頭を痛めている人たちだと言うことができます。まず笑うことです。笑顔も顔施といって、仏教では大切な布施の一つとされています。笑顔は会う人の心を明るくし、自分の心も明るくします。努力して明るく笑うことです。そのとき、仏の光が入ってくるのです。  また取り越し苦労や持ち越し苦労をして幸せになった人など一人もいないのだから、よいことが必ず来ると信じて、希望を持って生きてゆくことです。  そして他人に心を向けて、他人の幸せを祝福する心を、念を持つことです。悪霊に悩まされている人というのは、結局のところ、自分のことしか考えていない人たちなのです。努力して他人を祝福することです。その善念は必ずや自分にも返ってくるはずです。」

 『幸福の法』で次のように説かれました。

「実際、反省によって悪霊が取れる瞬間というのは、ペリッと剥がれる感じがします。ほんとうに、壁紙を剥がすように、ペリッと剥がれる感じがするのです。事実上、霊には重さがないのですが、悪霊が憑いていると、体は重いのです。体が非常に重く、毎日、調子が悪いのです。たとえば、梅雨時の、どんよりした天気の日に満員電車に乗っているような、うっとうしくて、体がだるく、やる気が出ない感じが、悪霊が憑いているときの感じなのです。これがペリッと取れると、まず、顔に赤みが射してきます。悪霊が憑いていると、よく、顔が青かったり、黒ずんでいたり、死相が出ていたりするのですが、その顔に赤みが出てくるのです。また、体に光が入ってくるので、体がサーッと温かくなったり、血の気が通ってくると同時に、ぽかぽかと少し温かい感じが出てきたりします。そして、体が非常に軽くなります。やはり、一名の霊の苦しみを背負うと、あるいは、二名、三名の霊の苦しみを背負うと、重いものなのです。なぜなら、人間は霊的な存在だからです。これが取れると、楽になります。ただ、悪霊が取れても、同じ悩みをくり返していると、悪霊は、また戻ってきます。そのため、悪霊が取れたあとは、なるべく明るい人生観を持って生きることが大事です。どうやって悪霊と波長を合わせないようにするかということが大事なのです。したがって、反省して悪霊を取ったら、あとは、そういう悪霊の苦しみの波動と合わないような、建設的で明るい人生を生きるようにしなくてはいけません。」

 悪霊に憑依されている人と思う人は、まず、努力して明るく笑うこと。そのとき、仏の光が入ってくる。
 
 悪霊に対しては、反省が最大の防御であると同時に最大の攻撃でもある。

 大川隆法総裁は、『不動心』で次のように説かれました。

「悪霊との対決は、反省を抜きにしては語れないものがあります。消極的な方法に見えますが、反省は立派な対決方法なのです。それは、悪霊が憑いている人たちの言動を見てみればよく分かります。彼らに共通しているのは、「自分には決して責任がない」という言い方をすることです。「制度が悪かった」「会社が悪かった」「あの人が自分を害した」「こうした家庭に生まれたのが不運だった」 このように、責任を外部に転嫁しようとするのが悪霊の典型的な姿なので、こうした傾向のある人は、「自分は悪霊に憑かれているか、悪霊の候補生だ」と思っていただきたいのです。こうしたときに大事なのが反省です。反省とは「みずからを省みる」ということです。他を責める気持ちが出たときには、みずからを振り返ってみることが大事なのです。それでは、みずからをどう振り返ればよいのでしょうか。まず、「他人との不調和が起きた原因は、他人にだけではなく自分自身にもあったのではないか。自分自身にも何か問題があったのではないか」と考えてみることです。そして、もし自分自身に間違いがあったことを発見したならば、その点を相手に直接わびるか、あるいは心のなかでわびるのです。さらには、仏に許しを乞い、そうした過ちを二度と犯すまいと思うことです。この世に裸で生まれてきた赤ん坊は、この世のことを何も知りませんが、長ずるにしたがって経験を積んでいきます。その間、さまざまな試行錯誤がありますけれども、そうした試行錯誤のなかで、どのようなことを学び取っていくかが肝心なのです。そして、学びの方法の一つとして反省があるのです。このように、反省を通して、人間は偏らない自分というものを発見します。それはまた、いびつでない自分、でこぼこのない自分、非常に磨きのかかった自分です。これによって、その人には悪霊のつけ入る隙がなくなってくるのです。悪霊は、その人の最も弱いところを攻めてきます。これが悪霊の特徴です。その人の暗い部分、えぐれている部分、出っ張っている部分を重点的に攻めてくるので、そうした部分をつくらないことが大事なのです。その意味において、反省は悪霊に対する最大の防御であると言えます。しかし、反省は最大の防御であると同時に、最大の攻撃でもあります。防御をする過程において出す念いが、悪霊たちの好まないものとなっているからです。蚊取り線香に蚊が近寄りたがらないように、反省をしている人に悪霊は近寄りたがらないのです。悪霊は蚊のようなものなので、そうした蚊が飛びまわり、血を吸おうとしているのを発見したならば、蚊取り線香の煙のように、悪霊が最もきらうものを出すことが大事です。悪霊が最もきらうのは、結局、正しい生き方です。正しい生き方に戻るために反省をするのです。それによって、悪霊を近寄らせないことができます。」

 先祖の霊が子孫に憑依することがあるのは、「波長同通の法則」によるためです。憑依霊が長く憑いていられるのは、両者の心の思いが似ているからです。

 その場合は、まず、子孫の側が自分自身の心を正すことが大事である。各人が、自分自身の心を反省によって磨き、光り輝くことによって、憑依霊は憑いていられず、はずすことができる。

 『幸福への方法』で次のように説かれました。

「悪霊に憑依された場合の典型的な感覚は、自分でもチェックすることが可能です。それは、他人でも身内でもいいのですが、そうした人たちが自分にはどう見えるか、ということで判断できます。たとえば主婦であれば、毎日毎日、朝から晩まで、自分の夫の悪いところばかりが見えてしかたがなく、振り返ってみれば、「結婚当時からずっと、あれもこれも悪かった。そもそも、結婚そのものが間違っていたのではないか」と思えるような場合には、九九パーセント、悪霊がいると思って間違いありません。実際に夫のほうが悪い場合も一部あるので、そうした見方が完全に間違っているとはいえません。そのとおりであることも、たまにはあります。しかし、何もかもが悪く見えてくるような場合は、たいてい悪霊の支配を受けていることが多いのです。悪霊が入ってくると、価値観がガラッと変わり、すべてが悲観的、否定的に見え、悪く見えてくるのです。そして、人に対して、きつい言葉、悪い言葉、辛辣な言葉、中傷する言葉が、次から次へと出てきます。そうすると、相手もそれで毒を食らうので、相手からも応酬が来ます。それがくり返されると、だんだん家庭のなかが荒れてくるのです。夫婦ゲンカが絶えないと、当然、子供にも影響が出てきます。子供が、ケガや病気をしたり、非行に走ったり、犯罪行為をしたりするようなことになります。  家庭のなかに悪霊が入ると、そうした状態になってくるのです。したがって、過去を振り返ってみて、それまでいいと思っていたものが、突如、嫌いになって、悪いことばかりが見えてくるようになったならば、霊的なものが影響しているのです。そのときには、「これは自分自身の考えなのか、それとも自分に憑いているものの考えなのか」を、踏みとどまって考えてみる必要があります。 「これは、自分自身のほんとうの考えではないのではないか。自分に憑いている何ものかが、自分を不幸にしようとして、破滅させようとして、こうしたことを言わせているのではないか。その言葉のままに動いていると、自分が不幸になるしかないのではないか」と思えるのであれば、そこでブレーキを踏まなくてはいけません。そのブレーキとは何かというと、「反省」ということなのです。反省については、当会では八正道というものも教えていますが、そうした難しいことを考えなくても、「これは自分を破滅に到らせようとする考え方、生き方ではないのか」と思ったならば、そこで踏みとどまってみてください。いったんブレーキを踏んで、「これには、自分ではないものの考え方が入っているのではないか。霊的なものが影響してはいないか。悪霊がささやいてはいないか」ということを考えるべきです。それだけでも大きな第一歩なのです。」

 『真実への目覚め』で次のように説かれました。

「また、自分が不幸なことを先祖のせいにし、「先祖が迷っているから、今、自分は不幸なのだ」という言い方をする人もいます。それが当たっている場合もないわけではありません。確かに、先祖が地獄で迷っている場合もありますし、先祖の霊が子孫に憑依していることもあります。現実に、そういうことを私は数多く見てきました。しかしながら、霊界には「波長同通の法則」というものがあって、「取り憑かれるもの」と「取り憑くもの」とは思いが通じているのです。そうでなければ、憑依霊は地上の人に憑いていられません。憑依霊が長く憑いていられるのは、両者の心の思いが似ているからなのです。例えば、この世に生きている人が、誰かを強く恨んだり憎んだりする気持ちを持っているとします。その場合、あの世の地獄界に堕ち、人を恨んだり憎んだり怒ったりしている先祖がいれば、両者の波長が通じてしまいます。そうすると、子孫がその思いを持ち続けるかぎり、先祖は、いつまででも憑依することができ、憑依された人の運命を悪くしていきます。その人を病気にしたり、事業を成功させなかったり、間違った判断をさせたりできるのです。そういう意味では、「先祖が迷っていて、子孫を苦しませる」という現象が、あることはあります。しかし、その場合であっても、「まず子孫の側が自分自身の心を正すことが大事である」と言っておきたいのです。ブラジルにある日本系の宗教のなかには、不幸のすべてを先祖のせいにしたり、憑依霊のせいにしたりする宗教もあります。そういうことの影響はないとは言いませんが、「憑依霊をはずすのは、実は、自分自身の心のあり方次第なのだ」ということを忘れてはなりません。要するに、自分自身の心をピカピカに磨いたならば、悪霊は取り憑くことができなくなるのです。単なる他力信仰というか、他のものの力による救いも可能ではあるのですが、各人が自分自身を磨き、光り輝くことによって、悪霊をはずすこともできるのです。そのことを知っていただきたいのです。心が反省によって磨かれ、光を放つときには、後頭部に後光が射します。聖人を描いた絵などを見ると、金の輪がかかっていることがよくありますが、あのように金色のオーラが実際に出ます。そういう状態になると、憑依霊が憑いていられないのです。また、自分自身に光が出るような状態になると、天上界とも同通するようになります。この段階においては、自分自身の守護霊、あるいは、守護霊よりも格の高い、天使に相当する指導霊からも光が入ってくるようになります。その光は、非常に温かい光であり、それまでの重い感覚、苦しい感覚、疲れた感覚などが、一気に取り去られるような気持ちになるのです。」

 家庭が荒れているときは、まずは自分自身を振り返ってみることです。

 自分に悪霊が憑依してしまっていないか。その自分の言動が原因で、配偶者や子供にも悪影響があって家庭が荒れていないかと。

  大川隆法総裁は、『霊界散歩』で次のように説かれました。

「簡単なものとして、「鏡を見る」という方法があります。鏡で自分の顔を見れば、悪霊に憑依されている“悪霊顔”は、ある程度、分かるものです。正直なもので、精神生活が貧しいと、それが、だんだん顔に表れてきます。ほんとうに、尻尾や角、牙が生えても似合う顔になってくるのです。悪想念の種類は数多くありますが、それと波長の合う悪霊が必ずいます。そして、「波長同通の法則」によって、その悪想念を出した人のところへやってくるのです。」

 

霊障を避けるには

 事実を変えられないのなら、考え方を変えてみましょう。

 「明るく生きること」が、霊障を避けるためのいちばん簡単な対処策である。

 心のなかのことは完全に自分に委ねられているから、「自分は明るい人間だと思おう」というように、繰り返し思っていると、だんだん潜在意識下に影響が出てきて深く浸透していき、心を変えていくことができる。

 総裁は、『「アイム・ハッピー」 悩みから抜け出す5つのシンプルなヒント』で次のように説かれました。

「「霊障を避けるにはどうしたらよいのか」というのは、とても大きなニーズがあると思います。  実は、そのためのいちばん簡単な対処策が、「明るく生きること」なのです。ただただ、明るく生きることです。これ一本でいいのです。これ一本で、悪霊撃退は終わりです。もちろん、明るいふりをするだけでは駄目です。「ハハハ」と笑っているふりをして、顔だけ明るくて「心はドロドロ」とか、「憎しみのかたまり」とかいうのはいけません。これは、駄目です。最初は表面的なところ、目や口など、顔の表情を明るくするところから、当然、始まるべきだとは思いますが、次第に、それを心のなかまで落とし込んでいくことです。「心のなかまで明るいものに変えていこう」「自分は明るい人間だと思おう」というように、繰り返し、繰り返し思っていると、だんだん潜在意識下に影響が出てきて、深く浸透していきます。そうすると、心のなかに溜まっている、恨みの心や悲しみの心、不幸の心、人のせいにする心、「環境が悪いためにこうなったんだ」という心を変えていくことができるのです。やはり、「変えることができること」にトライするべきでしょう。それは、どういうことかというと、「事実を変えられないのなら、考え方を変えよう」ということです。心の向きを変えましょう。心の思いを変えましょう。それはできるはずです。それは各人の自由なのです。例えば、あなたが心のなかで、人を憎もうが愛そうが、自由です。「あなたは人を憎んでいるから、愛するようにしてやろう」とか、「人を愛しているが、憎むようにしてやろう」とか、あなたの心のなかに手を突っ込んで、グルッと変えることはできません。心のなかのことは、自分自身に、完全に委ねられているのです。」

 大川隆法総裁は、『幸福の法』で次のように説かれました。

「あまり、「霊だ、崇りだ」と言って、怯えたり、人を脅したりするようなことは、よいことではないと思いますが、現実に、霊障という問題はあります。統計的に数字を出せるわけではないので、明確には言えないところはありますが、やはり、「半分以上の人は、何らかの悪しき霊的な影響を受けている」というのが、現代社会の実情ではないでしょうか。何らかの影響のある悪霊が、一体ないし二体、作用していることが多いのです。悪霊に取り憑かれることによって、どのようになるかというと、感情のぶれが非常に激しくなります。特徴的には、非常に怒りやすくなり、すぐにカッカと来るようになります。それから、悪霊に憑かれていると、世界観が逆転し、すべてが逆に見えます。「人に与えたい」などという気持ちは、さらさら起きてこないのです。悪霊に憑かれていると、いつも苦しく、被害妄想で、人や環境に対する不満がたくさん出てきます。「何でも反対党」的な人生観、すなわち、「とにかく、幸福な人や、うまくいっている人を批判していればよい」というような人生観になってきて、「自分で、どうにかしよう」「人のためになることをしよう」などという気持ちが起きてきません。とにかく、「人を見たら悪人と思え」で、人の悪いところばかり気がつくのです。この悪霊の憑依を避けるには、一つには理性の部分が大事です。理性をしっかり持つことが非常に大事なのです。悪霊に憑依されると、感情のぶれが非常に激しくなってきます。そういう場合には、適当な睡眠を取り、健康を心掛けて、まずはコンディションを整えなくてはいけません。そのように、コンディションを整えることが必須ですが、さらに、悪霊と戦うには武器があります。そのいちばん簡単な武器が反省なのです。悪霊が自分に憑いているとしても、あまり、その悪霊自体を悪いと思いすぎないことです。それが、ずっと憑いていられるということは、自分自身のなかに、それと同調するもの、同通するものが必ずあるのです。したがって、悪霊との戦いではなく、自分自身の「己心の魔」との戦いなのだということです。」

 総裁は、霊障になっている人への王道の対処法として、まず、反省することを勧めておられます。

 だからといって、自分以外の人に真正面から反省を勧めようとしても、霊障になっている人に限って、自分が責められているとしか受け止められないのが普通です。そういうときは、まず、その人のよいところをほめてあげること。そして、和やかな雰囲気で包んであげることです。

 『心と体のほんとうの関係。』で次のように説かれました。

「それでは、自分の身近な人がそうなった場合には、どうすればよいでしょうか。  まず、その人のよいところをほめてあげることです。ここから始めるのが、いちばん効果が大きいのです。その人の悪いところを責めたら、もっと暴れます。だから、努めて明るい話をして、ほめてあげてください。その和やかな雰囲気のなかで、包み込んでいくことが大事です。そうした友情の輪、仲間たちの思いが大事です。一人では、悪霊に勝てない人でも、周囲の人がその人を助けようとして輪をつくると、悪霊は勝てないのです。暗いほうだけを見ている人には、暗いことが幾らでも見えてきますが、幸福なほうを見ていくと、幸福なものが増えてきます。どうか、そういう努力をしてください。」

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