精神鑑定の霊的視点

 常軌を逸した残忍な事件が起きる度に話題に上る「責任能力」とはどういうことでしょうか。

 刑法39条1項では「心神喪失者の行為は罰しない」、2項では「心神耗弱(こうじゃく)者の行為はその刑を減軽する」と それぞれ定めています。

 心神喪失とは、主に精神病患者や知的障害者を想定しており、善悪の判断ができず、行動を統御できなくなり、刑事責任能力がない状態、心神耗弱とは、自分の行為の善悪をつけづらく、部分的にしか刑事責任を問えない状態を指します。

 刑罰が決められているのは、「悪いことをすると、自らに不利益になる」ことを示して犯罪を抑止する効果と、間違った行為を繰り返さないようにする教育の効果を期待してのことである。ゆえに、心神喪失状態にある人は、悪い行為に対する責任を負う能力がなく、教育効果も期待できないとされている。

 こうした法律の背景には、「無意識のうちに犯した罪で罰せられても、本人は何を反省すればよいのか分からない」という考えがある。「責任能力」とは、「反省・更生する余地があるかどうか」ということでもある。これから行われる裁判で地検の判断がひっくり返され、「心神喪失者」「心神耗弱者」と判断された場合、刑罰は非常に軽くなってしまう。

 同じく、精神病などで錯乱状態にあったり、病気や薬の影響などで意識が朦朧としていたりするときも、「刑事責任能力がない」と判断されることがあります。

参考

「多重人格をどう認めるか」司法の迷い

 「刑事責任能力がない」と判断されると刑罰は科されないため、被告人を守りたい弁護士が精神鑑定などを要求し、「本人は心身喪失状態にあった」と主張することがあります。

 しかし、過去の裁判では、多重人格という精神病があること、その影響が少なからずあったことは考慮しながらも、それによって刑事責任能力がないとまでは判断しませんでした。例えば、「声優のアイコ」を名乗り、睡眠薬を男性に飲ませて金品を奪うなど4件の昏睡強盗罪などに問われた神いっき被告の裁判があります。多重人格だという精神鑑定結果が出されたものの、裁判所は1審、2審ともに責任能力を認め、懲役10年の判決を言い渡しています。

 実際、多重人格については「意図的に病気を作り出している」「本人の思い込み」と捉えられることもあり、裁判でも「配慮はするが、多重人格を理由として無罪にはしない」というスタンスが強かったように思われます。ところが、とある裁判では、窃盗は「別人格」によると認め、「本人」の責任を限定的に捕らえるという極めて異例の判決が出ました。

 しかし、「心神喪失なら罪は問えず、反省もできない」という考え方は、宗教的に見た時に疑問が残る。

 確かに、「心神喪失」の状態で犯す罪は自分の意識で犯しているとは言い切れない。「神の声が聞こえた」「ヒトラーの思想が降りた」など。こうした現象は、死後に成仏できない「悪霊」が、生きている人間にとり憑いて異常な言動をとらせる「憑依」という。何者かに煽られ、操られたものである可能性が高い。しかし、だからと言って「本人に責任能力がなく、反省の余地が無いか」と言われれば、そうではない。

 悪霊に憑依されるには、それだけの理由がある。それは、地上で生きている人間の心が、その悪霊の心と同通するということである。例えば、普段から怒りの心を持っている人には、より強い怒りの心を持った霊が憑依し、暴力行為に及ばせることがある。また、自己嫌悪が強い人には、同じような心を持った霊が憑依し、自殺に至らせる。

 通り魔事件などの裁判では、精神鑑定による「心神耗弱」「心神喪失」をめぐって責任能力の問題が生じる。だが、憑依のメカニズムに照らせば、あくまで本人の強烈なマイナスの思いが最初にあり、それが悪霊を呼び込んで心を支配され、心神喪失状態にあったとも考えられる。その意味で、まったくの免責とするにはやや疑問が残る。

 通り魔事件などの原因究明や再発防止のためには、犯罪の原因を社会や環境ばかりに求めるのではなく、本人の「心」のコントロールの責任という観点が必要です。

 精神鑑定を霊的視点から見てみます。霊的に見ると、精神病患者のほとんどは、悪霊や悪魔に取り付かれた状態にある。悪霊は生前人を害することをなんとも思わず、間違った心で生きた人の霊である。悪魔はより凶悪で、意図的に人に害を与えようとしている存在です。

 一方、凶悪犯罪者のほとんども霊的に見ると「精神病状態」にある。「『殺せ』という声が聞こえた」「誰でもよいので人を殺したかった」と証言する人物は、たいてい悪魔に取り付かれていると見てよい。

 では、悪魔に取り付かれたのは偶然でしょうか。悪魔は同じ思いや考えを持っている人に同通してくる。すなわち、悪霊や悪魔の影響を受けて事件を起こすのは、結局は本人に「責任」があるのです。

 また、知的障害者には善悪が理解できないのではないかというのは偏見です。知的に障害があったとしても、魂は健全です。脳の機能などに障害があった場合は、思いや考えをうまく表現できないだけで、魂では善悪は分かる。だが、周囲の無理解や偏見に苦しんで、悪霊と同通する心を持った場合には、犯罪行為に走ってしまうこともある。

 こうした霊的真実を知れば、「心神喪失状態にあって分別がつかないから刑罰を課さない」という考えは本末転倒だと分かる。

 むしろ、精神鑑定で心神喪失状態にあると認定して犯罪を見逃していくうちに、ますます悪霊や悪魔と離れられなくなり、犯罪を繰り返すことになりかねない。

 司法の世界にも霊的視点を取り入れていかなければ、方向性を間違ってしまう。

参考

 むしろ、「心神喪失」状態だったからといって「責任が問えない」ことにすれば、更生につながらない。犯罪抑止・再犯防止の観点からも、「心神喪失状態なら、責任を問えず、反省のしようもない」という司法の常識は再考の余地があるのではないでしょうか。

 参考

 霊的真実や心の法則に無知な精神鑑定や、それに基づく司法には、唯物論的な限界がある。人が犯罪に至る際の心の法則を解明し、根本的に犯罪を防止するためにも、霊的真実の啓蒙が不可欠である。

 すべての人は、神仏から分かれてきた尊い存在であり、本質的に善をなそうとする傾向がある。加害者の本当の「人権」を守るには、悪霊と同通してしまった心を反省し、神仏の子である本来の自己を取り戻すための宗教的回心を促すことが必要です。

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