転生輪廻

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 人間の本質は、同じ仏の光から分かれ、永遠の生命を与えられた霊・魂であり、自らの魂修行と地上ユートピア化を目的に、様々な国に幾度となく生まれ変わりをくり返しています。

 私たちの人生は一度限りではなく、何千回と、あの世とこの世を生まれ変わりしています。毎回違った職業や家柄、家族関係などを選んで生まれ、新たな経験を積みながら魂の向上を目指しているのです。

 なぜ何度も転生輪廻するのでしょうか。「人生経験を積む」ということは貴重なことなのです。人は、何度も何度も、何十回、何百回、あるいはそれ以上の回数の転生輪廻を繰り返している以上、そのあいだにはさまざまなパターンの人生があり、そのつどさまざまな経験を積んでいるのです。毎回同じ人生ばかりでは経験になりません。人生計画にはさまざまなものがありますが、「魂の経験を豊富にする」という観点から転生輪廻の計画が立てられるのです。

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・「あの世(霊界)がある」

・「肉体は滅びても、魂は永遠に生き続ける」

・「人間は、様々な時代、様々な地域に、何度も何度も生まれ変わりながら、仏法真理を学び実践することで、悟りを深め、自らが仏神へと近づいていくことのできる存在である」

・「この地上世界を、天国のような素晴らしいユートピアにすることが、人間の最も聖なる使命である」

 

 幸福の科学大川隆法総裁は、著書『悟りの発見』の中で以下のように説かれました。

「今、私は転生という言葉を挙げました。これは常識的には信じられない方のほうが多いかもしれません。ただ、私はこういう体験をしはじめてから十数年たち、その間、みなさんもご存じのように、すでに百冊以上の本を出しました。そのうち半分ぐらいは霊言、霊示集だと思いますが、インチキや作りごとでは、これだけのものを絶対出せませんし、書ける人はいません。こうしたことができるのは、それが現実だからです。現に霊の世界はあるのです。みなさんと同じように、人間としてかつて地上に肉体を持って生きていた方が、死というものを境にして、ただの灰になってしまう、炭素と少量の水分や二酸化炭素などといったものになってしまい、一生かかって勉強したものや得たものがすべてゼロになってしまうという、こういう考えに賛同できる方もいらっしゃるでしょう。しかし私から言えば、こうした考えは狂信妄信です。信じられません。みなさんは信じられますか。それなら何のためにみなさんは一生懸命生きてきたのですか。努力してきたのですか。そうではないですか。まったくの塵や灰になってしまうのならば、何のための努力ですか。何のために遺徳がありますか。何のための教えですか。子供を教育してどうなるのですか。何のために教育するのですか。考えてみればおかしいことです。今世でそれだけ一生懸命やらねばならないと感じているということは、みなさんの心の奥底において、永遠なるものを知っているからです。自分たちは必ず向上せねばならないという気持ちが、どこかにあるはずです。その気持ちは知っているのです、人間というのは一代限りではないことを、数十年限りではないことを。永遠の生命のなかを生き抜いているからこそ、努力精進ということがあるということを、必ずみなさんは心のどこかで知っているのです。」

 人生の環境は、生まれる前に自分で決めてきた、と知ることが出発点です。そして、自分の人生をしっかりと振り返って、他の人と異なるところに着目して、自分の人生の特徴をつかむこと。そうすることで、今世の自分の人生の課題が何かを発見する。与えられているものに最大の感謝をしながら生き、間違いを犯したら素直に反省していくこと。つまり、自分の人生を自分で主体的に生きることです。

 大川隆法総裁は、『信仰告白の時代』で以下のように説かれました。

「両親に対しての不満もあるでしょう。しかし、その両親を知っていて生まれてきたのは、みなさん自身なのです。「親が勝手に産んだ」というのは根本的な間違いであり、必ず自分で親を選んで生まれてきています。生まれる前に、自分の親が誰かということを知っているのです。たとえ、それが正規の生まれ方でない場合、要するに正常な夫婦のあいだに生まれなかった場合であっても、それを承知のうえで生まれてきています。その人の魂経験に必要なために、そのような計画をして、そこに生まれているのです。そこに自分にとって必要な学びがあるからです。自分が何者であって、いかなる人生計画を持っている人間であるかということは、過去を振り返ってみればよくわかります。あなたの両親は、どのような仕事をしていましたか。あなたは、どのような家に生まれましたか。それはどの地域ですか。どの時代ですか。家族はどうでしたか。近所はどうでしたか。兄弟のなかで、あなたは他の人とどのように違っていましたか。その人生の歩みを、数十年間ずっと振り返ってみると、あなたの人生の目的と使命というものが、非常にはっきりと見えてきます。それが、あなたの魂の、今回の課題なのです。それを、まず見抜かなければなりません。そして、いかなる使命であるかがよくわかったならば、いま与えられているものに最大の感謝をしながら生き、また、日々みずからが過ちを犯さないように心して、もし間違いを犯したならば反省をすることです。」

 人は、この世に生まれてくる前は、天上界において、霊として自由自在な素晴らしい生活をしていた。したがって、地上界というのは、ひとつの修行の場である。

 また、不調和な心で人体に宿ることは許されてはいないから、地獄界からは、人は生まれてくることはできず、最低限なすべき反省がおわっていなければならない。

 したがって、長年地獄界にいて、やっと反省をおえた霊にとっては、人間として再出発し、平等にもう一度やりなおせるチャンスでもある。

 大川隆法総裁は、『太陽の法』で以下のように説かれました。

「あなたがたは、人間として生まれてくる以前、天上界において、霊として自由自在な生活をしていたのです。天上界では、お互いの心がガラス張りで、だれからでもわかるため、不調和な心をもっていたのでは、とても同じ世界にはいられなくなります。したがって、毎日会う人々は、みんな、自分と気心がしれたすばらしい人々です。また、霊人たちは、自分の年格好を自由自在に変えることができます。また、ほしいものがあれば、強く念えばすぐ目の前にあらわれてきます。そして、すべての人が、少しでも真理に目覚めようと、それぞれの段階において、修行にはげんでおります。地獄界にいる不調和な霊たちは、決して地上界に人間として生まれ出ることはできません。彼らの心は、闘争と破壊の心であり、そのような心でもって、人体に宿ることは決して許されてはいないからです。では、この地上に生まれかわるためにはどうするか。まず、少なくとも、四次元幽界(精霊界)の住人であることが必要とされます。そして、天上界の人間として、自らが霊的なる存在であり、仏の子であるということを多少なりとも悟らなくては、この地上に生まれかわることはできません。したがって、最低限、なすべき反省がおわっていない場合には、そういう人は、転生できないのです。 このように、地上に生まれかわるということは、天上界にいる者にとっては、当初からひとつの試練だといえます。また、長年地獄界にいて、やっと反省をおえた霊にとっては、人間として再出発し、もう一度やりなおせるチャンスでもあるのです。ですから、地上界というのは、ひとつの修行の場なのです。天上界で自由自在に生きていた霊にとっては、肉体に宿るということは、すなわちこれ、自らの霊性、仏性が試されるときなのです。自分の霊的なる覚醒が、はたしてほんものかどうかが、徹底的に試される場なのです。霊的に自由自在のときに、仏を信ずることは容易です。しかし、この三次元の物質世界のルールの中で生活して、一体どれだけ四次元以降のルールを悟れるか。仏の力を悟れるか。仏の力が働いている世界であることを悟れるか。それが徹底的に試されるのであり、この試験にパスしてはじめて、人間は、もといた世界以上の高次元世界へと還ってゆけるのです。長年、地獄界で苦しんでいて、やっと反省の境地に到達し、仏の子である人間としての最低限の悟りを得た人々は、「今度こそ立派な人間になってみせる」と意気込んで、この地上界に生まれてきます。しかし、三次元の物質世界の荒い波動に強い影響を受けて、仏の子としての自覚を得ることのないまま、深く欲望の世界に耽溺し、再び天上界に還って来ることなく、さらに暗黒の地獄へとくだってゆく人もおります。この三次元の物質世界、現象世界というものは、それだけきびしい修行の場だといえます。しかし一方では、救いもあります。実在界においては、決して会うことのできない人々が、この三次元世界においては、一堂に会する。こうした人々が、同じスタートラインに立って、オギャアと赤ん坊として生まれて、平等に人生をやりなおす機会が与えられているのです。」

 人生を学校教育にたとえれば、唯物論の考え方は、小学校だけで義務教育は終わったというようなもの。

 しかし、霊界があり、人間は永遠の生命を持って転生輪廻しているという考え方は、小学校を出ても、中学校があり高校があり、大学があり大学院があり、そして社会に出てからもさまざまな学びがあると教えている。

 どちらが人間の進化や向上に役立つかは明らかであって、永遠の人生であれば、人のために奉仕したことが、やがては必ず自分自身の魂の糧となって戻ってくることが分かる

 大川隆法総裁は、『永遠の法』で以下のように説かれました。

「人間は人生観や人生の目的を常に考える存在ではありますが、それは一大問題であるため、「大宇宙のなかにおいて、自分はどのような存在なのか」ということを明確につかむまでは、人生観や人生の目的を確立しえないのです。もし、唯物論者の言うがごとく、母親のお腹のなかに生命がいきなり発生して、六十年、七十年を生き、やがて火葬場で焼かれると、人生がそれで終わりになってしまうのならば、それなりの考えを持って生きていかねばならないでしょう。ところが、宗教家たちが言うように、「あの世、実在界という世界があり、魂はあの世からこの世に生まれ変わってきて、何十年かの人生を生きる。そして、この地上を卒業したあとも、実在界において、さらなる魂の向上を目指している」というのが真実ならば、とるべき考え方は違ってきます。  人生を学校教育にたとえた場合、いくつかの見方があると思いますが、唯物論の考え方は、「小学校の六年生がすめば義務教育は終わった」というような考え方でしょう。それは、人生を小学校のなかに閉じ込めているのです。  しかし、「霊界という世界があり、人間は永遠の生命を持って転生輪廻している」という考え方は、「小学校を出ても、中学校があり、高校があり、大学があり、大学院があり、そして社会に出てからもさまざまな学びがある」というように、連綿と続く学習の場として人生を考えることになります。 うした二つの定点から人生を見た場合、どちらが人間の進化や向上に役立つかといえば、結論は明らかでしょう。永遠の進化を目指すという観点に立ったときに、人間ははるかに向上していくということです。人生は一回かぎりであり、人間は、わずかな期間だけしか生きていない、線香花火のような存在だとするならば、人生には重大な意義も目的も見いだせないのではないでしょうか。その短い期間を線香花火のように燃え尽きるために、人間はさまざまな快楽に耽り、物質欲におぼれ、放恣な生活をしてしまうのではないでしょうか。また、誰もが個人主義に陥っていくのではないでしょうか。わずか数十年の人生であるならば、「自分が楽しまなければ損だ」という考えになってしまっても、おかしくはないかもしれません。  しかし、永遠の人生であれば、「人のために奉仕したことが、やがては必ず自分自身の魂の糧となって戻ってくる」と考えられるのではないでしょうか。」

 総裁は、『宗教選択の時代』のなかで生まれ変わりについて、次のように述べられています。

『生まれ変わりのシステムをつぶさに研究すると、どうやら人間は、この世に生まれ変わってくる前に、今世の魂修行の課題ともいうべきものを明確に決めてきているらしい、ということが分かってきました。過去の何回かの地上経験を経て生きてきた時に、その方が卒業できなかったこと、そのままでは合格ではなかったと言われるところを、同じような環境においてもう一度試されることもあれば、まったく逆の環境において試されることもあります。そして、魂は、通常、男性霊は男性霊として生まれ変わり、女性霊は女性霊として生まれ変わりますが、時折、男女が入れ替わって生まれ変わることが事実としてあるようなのです。例えば、女性の方であれば、今世で、夫、あるいはそれ以外の男性から、「なぜ、こんなに虐げられる生き方をしなければいけないか」というような、本当に辛い一生を送られることがあります。そういう仕打ちをした男性は、カルマという、その人の魂が背負っている宿題を持ってあの世に還ることになりますが、その男性がそのカルマを刈り取るのには、二通りの方法があります。 一つは、もう一度、同じような魂の方と、夫婦なら夫婦、友人なら友人、知り合いなら知り合いになって、似たような環境で過ごすということがあります。前回と同じように、たとえば、その女性をいじめる人生を生きるか、それとも、今度は心を入れ換えて、見事に調和された夫婦生活、あるいは友人関係を持つか、それを試される場合です。もう一つ、まったく逆のケースとして、そうした男性が、今度は女性として生まれ変わってくるということもあります。そして今度は、逆に男性に意地悪をされるような立場を経験することもあります。 人間は、ある時には王様に生まれ、ある時には乞食に生まれるようなこともあります。今世の人生において、例えどのような環境下に置かれようとも、すべて魂修行の一環であるという観点を忘れてはならないのです。 あの世で自分が、そういう計画をして生まれてきたことを忘れて、今世のみの幸・不幸を捉えて、親を恨んだり、友人や先生を恨んだり、あるいは環境を恨んだり国を恨んだりする人がいますが、これは間違いなのです。過去世そのものを変えることはできません。また、生まれてから現在までの何十年間の人生そのもの、すでに過ぎたものを変えることはできません。それは反省あるのみです。反省する以外に、もう手立てはありません。しかし、現在から後は、まだ変えることができます。変更が可能なのです。残りの時間が長い人も短い人もいるでしょうが、しかし、現在から後の時間は変えることができます。それが、来世以降の皆さんの人生を決めるのです。 来世、たとえば自分は、理想的なこういう環境のこういう人間になって、こういう幸福な生活を送りたいと思っても、今世持ち還った宿題がありますから、その宿題の部分は、来世の生まれ変わりのどこかに必ず出てくるのです。それから逃れることはできないのです。そこで、次の人生において、また同じような失敗をするというようなことが、繰り返し起きてきます。 その事実を知ったならば、できることは「現在ただいまの自分を変え、これから後の人生を変えていくこと」、これしかないのです。 そのためには、基本的には、すでに自分がなした悪、間違い、罪に関しては、やはり悔い改めること、反省することです。これしかありません。そして、すでに播いた悪の種があったら、これが大きくならないように押し止めることが大事です。 すでに悪い習慣、悪い仕事、悪い考え方、悪い行動でもって、次なる悪の種を播いた方がいるはずですが、これが成長しないように押しとどめることは可能です。未来に生じないように、それを止めてしまうことです。 更には、善の種、善きことの種を、いま播くことが大事です。善きものが、自分や自分のまわりにすでに起きつつあるならば、これを更に育てていくこと、推し進めていくことが大事なのです。 既に終わった過去の悪については、よく反省をすることです。 そして、まだ現われてきてはいないけれども、悪い思いや行ないによって種を播いてしまい、将来的にそれが悪として出てくるようなことがあったら、それを押しとどめることです。そして、善なる種を播いたことによって、現在すでに現われてきつつある善は、さらにそれを推し進めることです。こうした努力が必要です。 これが、カルマ=業といわれるものを清算するための、そして、より幸福な人生を、今世・来世・来々世と送っていくための秘訣なのです。 このような、転生輪廻、生まれ変わりの話というものは、昔話やおとぎ噺のように聞こえることもあるでしょうが、人間は実際に何度も何度も生まれ変わりをしているというのが真実なのです。 そして、今回の人生の総決算が、結局は、来世、どういう立場でどういう人生を歩むか、ということの全てにかかってくるのです。』

仏教、ヒンドゥー教、キリスト教の「転生輪廻」思想

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