動物に生まれ変わる?

 人間の生まれ変わりは、原則人間として生まれ変わりをするのですが、例外中の例外として、修行のために一時期、動物の肉体の宿るということもあるようなのです。 しかし、その場合でも、人間にごく近い高等動物にしか宿りません。それも1年か2年という 

 

 短期間だけです。それは、人間として生まれることのありがたさを感じさせるために行われることなのです。  従って、犬や猫などの高等動物の中には、過去に人間だったものも一部にはいるのです。 彼らは、動物に生まれ変わっても、その間、人間的感覚を保有しているため、「生」そのものが非常に惨めになります。しかし、それを通り越したときに、「人間というのは、これほどありがたいものか」ということを感じることになるのです。  しかし、このような人間が動物に生まれ変わるのは、あくまでも例外中の例外であって、一般的には、人間は人間として生まれ変わってくるのです。

 世の「転生輪廻の思想」では、ランダムに人間が動物に生まれ変わる場合もあるように説明している場合もありますが、幸福の科学では、人間がランダムに動物に生まれ変わることはないと教わっています。しかし、ごく一部のとっても動物的に生きた人が反省のために生まれ変わるなど、理由があって動物に生まれることはあるそうです。

 仏教の転生輪廻説は、動物を大事にさせるための方便だけでなく、数は少ないが例外がある。

 たとえば、雄弁に喋る狐の霊がいたりするのは、死後、畜生道に堕ちて浮上できない人間に、人間として生まれることへの感謝を教えるため、いったん動物に生まれ変わる魂修行をさせられたものである。

 また、たとえば、犬の中にも、やたらと人間的感情を持っている犬がいるが、強盗殺人とかをやった人が、一回だけカルマの刈り取りのようなことをさせらされていることがある。

 大川隆法総裁は、『フランクリー・スピーキング』で以下のように説かれました。

「これはあまり大きな声では言えないんですが、私が実際につぶさに調べたところ、あるようですね。原則、人間は人間なのですが、どうも動物霊にしてはあまりにも人間らしすぎる動物霊がいるんです。たとえば、よく宗教では、憑依霊のなかに狐(きつね)だとか蛇だとかがいると言うでしょう。これは現実にいるんですけれども、狐霊と言われるもののなかに、話をしても言葉はほとんど喋れない狐霊というのがいます。これはほんとうに動物霊であって、感情は持っていますし、ある程度の反応はできるけれど、言葉自体はたいして喋れない。ところが、これ以外に、雄弁に喋れる狐の霊というのがいるんですよ。これはおかしいなと思って調べてみると、やはりもとは人間霊なんですね。人間であった人が、死後、畜生道というところに堕ちるんです。そして、そこに二、三百年いて、もう人間としては浮上してこられない場合に、要するに魂修行をさせられるために、ワン・クッションですが、いったん動物に生まれ変わる道があるんですね。これはもちろん、諸天善神(しょてんぜんじん)のなかに、稲荷大明神とか、そういう動物を司っている神様がいるのですが、その許可があればのことです。「では、人間のありがたさを知るために、人間として生きることがどれほどありがたいかをわかるために、おまえは一回動物をやってみなさい」ということで、動物に生まれ変わるんですね。そして動物をやると、「人間はうらやましい」と言うんです。人間を見ると、あんなに本も読めるし、レストランで食事もできるし、うらやましいなということを、つくづく感じるわけです。人間として生まれることへの感謝を教えるために、もうどうしようもないあたりになると、教育のためにそういうこともあります。そういう人は、あの世に還ったら、しばらくは動物霊みたいな姿をしているんですが、改心すると、また人間霊の姿に戻ってくるんです。何回かそういう例を見てきましたので、あることはあります。ただ、可能性は少ない。私も、「何に生まれるかわからない」という、仏教の昔の転生輪廻説は、「だから、動物を大事にしなさい。生き物を殺してはいけないよ」という意味の方便だと思っていたんですが、実際に調査してみると、やはり元人間霊などがいるので、これはたいへんだなと思いました。たとえば、番犬をやらされている犬のなかにも、元人間がいるんですね。犬でも、人間の言葉がものすごくわかるような犬というか、やたらと人間的感情を持っている犬がいるでしょう。これなども、過去世を調べてみると、やはり、強盗殺人とか、そういうことをやった人が、今度は逆の立場で、一回だけカルマの刈り取りのようなことをやらされていることが、たまにあるのです。これは恐怖につながるので、あまり言わないことにしていて、「ごく一部だけそういうこともあるよ」と言っているのです。」

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