「進歩」と「調和」

 人類の歴史を見ると、仏の光が活動するにあたっての目的は、大きく二つに集約することができる。

 その第一は「進化(進歩)」であり、第二は「調和」である。

 仏が、「光」「空間」「時間」の三要素で構築を意図している世界は、この進化(進歩)と調和という二大目標を中心としている。

 幸福の大川隆法総裁は、『『永遠の法』で以下のように説かれました。

「では、「光」「空間」「時間」の三要素で、仏はいかなる世界の構築を意図しているのでしょうか。
 仮に空間を一つの透明なガラス箱のようなものだと考えてみてください。この透明なガラス箱のなかに、片隅から光がさしてきて、その光は箱のなかを反射しながら動いています。その光はガラス箱のなかに閉じ込められており、箱のなかをいろいろと移動して、さまざまな風景、光の芸術をつくり出しています。
 壁にあたった光は、反射して次の壁にあたり、また反射して次の壁にあたります。このように、透明なガラス箱のなかで、光は次々に動いているのです。
 こうした世界観で、宇宙の歴史と人類の歴史を考えてみると、光が単なる偶然の産物として生かしめられているのではなく、合目的的に物事が進んでいることは明らかです。すなわち、根本仏から発せられた光が、偶然ではなく一定の目的を持って、宇宙の進化と人類の進化を司っているのです。
 仏の光が活動するにあたっての目的は、大きく二つに集約することができます。
 目的の第一は「進化」です。宇宙を見、地球を見、地球の歴史を見、人類の歴史を見たとき、そこには、進化という偉大なる目的、目標が潜んでいます。これは誰も否定できないことです。
 より高次なものを求めているからこそ、人類は生かしめられているのであり、そうであるからこそ、人類は生きていく値打ちがあるのです。もし人類が堕落するためだけに生きているのならば、その存在意義自体が疑われなくてはなりません。なぜ堕落するために存在しなくてはならないのでしょうか。
 たとえば、粘土からさまざまなものをつくるのは、形なきものから形あるものをつくっていくことに、素晴らしい喜びを感じるからではないでしょうか。ところが、粘土からつくった象や猿、人間などが、ただの粘土に還っていくためだけに生きているのならば、まったく意味がないことになってしまいます。
 形なきものから形あるものへと変化していく これが進化の本質ではないでしょうか。
 形なきものから形あるものへ、より素晴らしいものへと発展していく進化が、人類の目標の一つならば、もう一つの目標は「調和」です。偉大なる調和、大調和です。では、大調和とは何でしょうか。
 仏が、広大無辺な部屋に粘土の山を創り、この粘土から、太陽を創り、地球を創り、月を創り、植物を創り、動物を創り、人間を創り、いろいろなものを創ったとしましょう。
 このように、形なきものから形あるものへと進化していくこと自体は素晴らしいことですが、次に問題となるのは、それぞれの被造物、創られたもの同士がいかに整然と美しく存在しているかということではないでしょうか。
 植物と動物と人間との均衡。太陽、地球、月、その他の惑星と、他の宇宙空間との釣り合い。昼と夜との釣り合い。海と陸との釣り合い。暑さと寒さとの釣り合い。仏が次に考えることは、こうした調和でしょう。
 結局、人類の歴史を見ると、進歩と調和、進化と調和という二大目標を中心に、時が流れてきたと言えるのではないでしょうか。」
(222~226ページ)

 人間世界を含む大宇宙には、「進歩(進化)」と「調和」という原理・法則が働いています。動植物と人間との調和、暑さ寒さの関係、昼と夜、海と陸との釣り合い、太陽系の惑星間の調和、他の惑星、他の宇宙との調和などなど、この地球や宇宙は美しい大調和に満ちています。

 進歩とは、物質的な進歩や進化、発展・繁栄だけではありません。人間は、赤ちゃんとして生まれてからこのかた、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と学び続けてやがて社会人となるように、肉体的にも精神的にも常に進化、進歩の中で調和した世界を造っていこうとしているように見えます。進歩のないところには、停滞、衰退が待っているだけなのです。

 ただ、進歩ばかりに偏ってしまうと、その先には破滅、破壊が待っています。 また、調和に偏ってしまうと、停滞、衰退があるのみです。

 あの世があると言うことを知り、この世において如何に心を磨き、魂修行を為したかがあの世での生活を決めることになるのです。「この世に生きていながら、あの世の真実を知り、この世の中に積極的意味合いを見出していく。また、この世の中に積極的意味合いを見出しながら、それに執着することなく、さらに魂の発展を為していく」、こういう生き方、霊的人生観中道』の生き方が真実の生き方なのです。

 この中道の考え方は、人間存在を考える上でも生きてきます。一つには、死んだら何も無くなってしまうという唯物論的な考え方、もう一つはこの世で自分だと思っている姿があの世でもそのまま続いていくという考え方があります。この両者も正しい考えではないのです。人間は永遠の魂です。そして、その魂でもって、転生輪廻を繰り返している存在です。この世はあくまで仮の世界、魂修行の場であり、本来の世界があの世と呼ばれる世界なのです。また、男性、女性の間にも進歩と調和の原理が働いています。男性は、進歩的魂、女性は調和的魂と言われています。そもそも、男性と女性は魂的に違うということを知っておく必要があるでしょう。この「進歩と調和」の原理・法則を知らないことで、「男女を全ての面で平等に扱うようにしよう」としていることが現在の社会の混乱の一因になっているのかもしれません。さらに、付け加えるならば、精神と肉体との調和においても釈尊の説いた「肉体的な快楽の中にも、肉体を否定する中にも真実はない」つまり、「苦楽の中道」という考え方が大切になってきます。人間を真に成功へと導く正しい生き方、これが本来の人間として求められている生き方であると考えてよいと思います。

 人それぞれ、様々に成功への道はあると思いますが、「自分を真に生かし、他人を生かすという道」、「自他共に生かす道」、これを選び取っていくということはバランス感覚を要求されます。これが「中道」という考え方です。このバランス感覚を大切にしながら向上への道を目指していく(王道)ということです。決して他の人々を足蹴にしたり、害したりして発展しようという道(覇道)ではないのです。この中道を目指すためには、幸福の科学では『八正道』の教えも説かれています。 「自らの向上を他の人々のために使う」という考え方は、幸福の科学では、「一人ひとりの人格の向上」と「社会の発展・繁栄」をともに目指していくという考え方であり、この考え方は幸福の科学のオリジナルの教えとして『中道からの発展』と呼んでいます。『自分を害さず、他人も害さず、自他共に生かす道』という中道の生き方です。この延長線上に自分が得られる幸福を、他の人々にも拡げていくという考え方、つまり、『利自即利他』の考え方が幸福の科学の基本にあるのです。

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