神はなぜ悪の存在を許しているのか

 幸福の科学で説かれている教えが天国的(上向き)としたら、悪魔や魔女達は地獄的(下向き)である。方向性が全く正反対である様に思われる。

大川隆法総裁 未来への羅針盤 ワールド・ティーチャー・メッセージ No.229

 悪魔の存在を、リアリティを持って感じられる人はそんなにはいないでしょう。ただ、私自身はリアルに感じますし、周りにいる人たちの中には、結構、感じる人もいます。

 魔について疑問に思う点として、「神が全知全能なら、なぜ、魔を生かしているんだ」「どうして、1億年以上にわたって置いておくんだ」という見方はあると思うのです。これが、宗教を疑う人の論理としてよく使われています。「神が本当に全知全能だったら、悪魔が存在するのはおかしい。善と悪とが存在するのはおかしい。善だけがあって、悪などないはずだし、悪人や犯罪人など、いないのが当然だ」と言うのです。

 また、「キリスト教国同士が戦っている。こんなことは絶対におかしい」というような考え方もあるわけです。魔の力を大きく見れば、そういうこともあります。

 しかし、アインシュタインの言葉ではありませんが、世の中は全て、「相対的にできている」のです。男と女、光と闇、善と悪など、いろいろなものが相対的に存在して、初めて自分の位置関係が分かるようになっています。

 これは、宇宙のなかの座標と同じようなものです。「いろいろな星や銀河があるために、今の自分たちがこのあたりにいる」というのが分かるのと同じです。いろいろな極端な考え方がある中に線をたくさん引いていくと、自分の位置が分かってくるようになっています。そういう意味で、相対的で、お互いに関係し合うような世界になっています。

 

宗教的な「魔」の意味

 「なぜ魔がいるのか」について考えてみると、私のように宗教指導者の立場に立つ者は、いつの時代も試されています。この、「魔に打ち勝てるか、それとも敗れ去るか」という試しは、やはりいつもあるのです。

 歴史上、この試しに負けた者もたくさんいます。宗教の中に魔が入って、魔の手下を増やすように頑張っているところもあると思います。

 黴菌が増えるように悪いものが増えているわけですから、やはり、反対のものもなければいけません。

 こうした世界は一見、理不尽に見えるかもしれません。しかし、人間に、「『善悪とは何か』を学び取れ。感じ取れ」ということを教えているのだと思うのです。ですから、私は一方的に、魔を一瞬で消滅させれば済むというものではないと思っています。

 身の周りに霊現象が起きるようになると分かってくるのですが、地獄霊や悪魔というのは、嫌でしょうがない存在です。ですから、その存在が分かる人は、「こんなもの、神様は一瞬で消してくれたらいいのに」と思う人が多いのです。「蒸発させるなり、魂を消滅させるなりしてくれたらすっきりするじゃないですか」と言います。

 けれども、考え方によっては、これはアウシュビッツでユダヤ人を虐殺したこととよく似ています。「間違いを犯した人間は消滅させる」というのであれば、本当に慈悲の神様かどうか、分からないところがあります。

 人間は、誰しも間違いを犯すことはあるのです。間違いを犯したり、悪いこともするけれども、その人間も仏性を持っています。人間が仏性を持っているからこそ、悪い生き方をしていた人が、今度は天使のように生きることができます。そういう転回点を迎えることができるし、この「心を転回させることが可能だ」ということが実に素晴らしいのです。

 当会にもいろいろな方がいらっしゃいます。障害を持つ方を支援する「ヘレンの会」や、障害児支援の「ユー・アー・エンゼル!」運動も行っています。障害を持つ方を差別的に見る宗教では、「生まれつき障害を持っているのは、きっと何か呪いがかかっているか、前世の罰を受けているのだ」と決めつける人もいるかもしれません。

 けれども、私はそう取るべきではないと考えています。障害を持って生きることも、魂磨きのチャンスとして与えられていることですし、ご両親や周りの方も大変ですが、自分の神性や仏性を磨き上げるための条件としてあるのだ、ということです。

 

魔との戦いにおける反省の大切さ

 悪人が出てきたように見えたり、自分を妨害したりするように出てくることもあるし、積極的な魔というものもあるように見えます。けれども、これもまた、人類に大いなる反省を起こさせたり、自分たちの文化レベルや哲学等をもう一回反省させたり、宗教観の弱さを反省させるための力でもあるのです。

 魔というのは、確かに生きている人間を苦しめるし、悪魔が取り憑いた場合、声が聞こえる人がいます。霊能者でなくても、例えば精神科病棟に入っている人だと、たいてい「死ね、死ね」という言葉が聞こえるのです。「死になさい」「飛び降りろ」「首を絞めろ」などといった声が聞こえます。これは悪魔の声です。本当に存在するのです。

 それは人間の持っている最低の心で、自分は幸福になれないけども、他人を不幸にすることによって、一時期心を安らがせようとする気持ちです。それは皆さんも分かるでしょう。「自分の会社は全然、儲けが出ないけど、せめて隣の会社も潰れてほしい」「同業者が潰れるとホッとする」などという気持ちです。こういう心が、自分たちの中にもあるのではないかと、やはり反省したほうがいいと思います。

 自分たちの中に、呪いの心や他人の不幸を願う心、例えば「あいつなんか失敗したらいい」「不幸になればいい」と思ったり、結婚する人に対しては、「別れたらいい」などと思うような気持ちがないかどうかを振り返ることも大事です。

 極端な思考ではあるけれども、それも「反省」の一つです。

 また、「降魔」というのは、個人にでもあることだと思いますが、リーダーとしてある程度の人数を率いる人に、悪魔が影響してくることがあるでしょう。

 先ほど言ったように、会社経営者で「積極的に同業他社を潰してシェアを取ってやろう」と思っているような指導者の下であれば、会社も地獄的になってくるだろうと思います。何が正しいか、正義が分からなくなります。

 お客様の幸福を願って事業を発展させていく過程で、他社が統廃合されることもあるかもしれません。しかし、「他の会社を潰すためにやっている」と考えてはいけませんし、「自分が良い成績を取るのは、他の人を蹴落とすためだ」などと考えてはいけないのです。

 

魔の存在を見て「正義」が分かる

 実は、魔を見て初めて「正義」が分かり、「救世」とはどういうことなのかも分かるようになるのです。

 私は「人を生かせ」と言っています。「人を愛し、人を生かし、人を許せ」と言っていますが、逆に、悪魔は「人を殺せ」と言います。「人を殺せ。おまえも死ね」。これが悪魔の言葉です。この違いははっきりしています。

 けれども、違った思想があっても良いのです。その二つの思想が戦って、正しいものが勝たなければいけないのです。それによって正義が確立し、同時に降魔も実現できるのです。

 魔というものも、皆さんの魂を豊かにするために残されています。

 ある意味では、チーズに風味を増すためのカビみたいなものだと思っても良いでしょう。カビの部分がチーズを熟成させ、風味を高めて、文化度を上げる面もあるわけです。完全にカビがなくならないところもありますが、普通なら有害なカビが、有用なものに変わる場合もあるのです。

 同じように、魔が出てくるけれども、降魔を通して救世主、あるいは悟りたる者が生み出されるようになる。魔が、降魔を通して、「正義とは何か」を人々に教えることもあります。

 もちろん、魔の存在を積極的に認めるわけではありません。ただ、「そういうものがいまだにある」ということは、何らかの意味で、人々にさらに高度な文化を体験してもらうために存在しているのだと思わなければいけません。魔を肯定するわけではありませんが、「まだ存在する」ということは、神仏の大きな心の中で、人々の教育のための反面教師として残しているし、「自分の心のなかにも、一部、魔に通じるものがあるから存在するのだ」と思って克服していくことが大事だと思います。

 宗教家や政治家、軍事的指導者でも、転落した人はたくさんいます。また、王様のような立場の人で、悪魔に取り憑かれて、地獄に堕ちた人たちもたくさんいます。皆、自分なりの代償は払っています。ただ、彼らは自分が代償を払うだけでなく、その支配下にあった多くの人たちを苦しめたり、迷わせたりした部分の恨みも買っています。その意味で、地獄界が存在しているのです。

 

「太陽」の存在を求めよ

 だからこそ、今必要なのは「太陽」なのです。嵐や雨、風について悩むばかりではなく、「明るい太陽が昇ってくることで、そういうものを追い払うんだ」という心を持つことが大事ではないかと思います。

 人間は迷いやすい存在なので、「善と悪が拮抗して戦っている」というような考え方を持つと攻撃されやすいのです。

 私の教えている通り、「四次元界には地獄界と天上界の境目があるけれども、五次元以降には、いわゆる神仏に向かっていく高級霊たちの世界がある」と考えることです。

「四次元界だけに、地獄界や、天国との違いがはっきりしない幽界・精霊界がある。けれども、天国・地獄の戦いがあるのはここだけだ。それから上の世界には悪魔たちは上がっていけない」という世界観を持っていれば、神仏に対する確固とした信仰心を持ち続けられます。

 幸福の科学を30年間続けて、「仏弟子」といわれた人の中にも、教団に対して悪口を言ったり、反旗を翻したりするような人がたくさんいました。けれども、そのほとんどが利己主義者です。自分の立場が良ければ賛成する。逆に、自分の立場が悪くなれば、反対して教団の邪魔をする。そんなことがたくさん起きましたが、それでは考え方が小さいです。そういった”meism(自己中心主義)”や利己主義は、「小さい」と思います。自分を大事にするのは良いのですが、主として、「利他の思いを推し進めることが宗教の本道だ」と考えることが大事です。

 全く悪事を犯さない人はいないでしょう。ただ、悪事を犯してしまっても、反省するだけでなく、その後良いことだってできるはずです。良いことを積み重ねていくことが、慈悲の形成になるし、慈悲の行為になります。そうした実践行為が大事だということです。

 哲学的には難しい質問でしたが、「大宇宙の仕組みとして、なぜ今、悪や悪魔が存在するか」は、一人の人間には分からない部分があるかもしれません。「現にあるものの中で、自分を良い方向に持っていく考え方とは何か」を考えてください。

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