明治維新~第2次世界大戦までの日本

「自由の創設」としての明治維新

 アメリカ独立やリンカンによる奴隷解放の精神が、日本の明治維新に大きな影響を与えていた。

 明治政府をつくった維新の志士たちは、ワシントンやリンカンの思想や行動を強く意識し、士農工商の身分をなくし、四民平等の社会を築いた。アメリカの南部諸州で黒人への社会的・法律的差別が取り払われたのが1960年代であることを考えれば、日本はアメリカに100年先んじていた。

 明治政府の基本方針は、1868年(明治元年)の「五箇条の御誓文」に示されている。

 「広く会議を興し、万機公論に決すべし」(広く会議〔あるいは議会という解釈〕を開き、重要事項は開かれた議論によって決定されるべきである)

 「上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし」(身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国の政策を遂行すべきである)

 この中に政治参加の思想が一部盛り込まれている。江戸時代はすべての人が「生まれ」によって その人生が決まってしまっていたわけだが、武士という特権階級がなくなり、政治参加の道が開かれていったのです。

 

吉田松陰の革命思想と大東亜戦争

 革命には、それに先だって革命思想が現れる。

 東洋の革命の原理は、孟子が説いた易姓革命に行きつく。「天帝は特定の人物が建てた王朝に地上を治めさせるが、その流れを引く人物が徳を失ったら、天帝が見切りをつけ、革命が起きる」というものである。

 天帝の下した判断が、革命思想となってまず地上に現われてくる。

 明治維新の場合、中心的な革命思想は吉田松陰によるものであった。

 松陰の思想は以下のようなものである。

 「天照大神の子孫である天皇の下に、人々はみな平等である。一人ひとりが一斉に立ち上がり、日本を他国の侵略から守らねばならない」

 「そのために朝鮮半島や満州、台湾、フィリピン、さらにはインドからも欧米による植民地支配を駆逐すべきだ」

 一君万民論、草莽崛起、尊王攘夷を松陰は命を賭して訴えたわけだが、幕末維新の時代を小説に書いた作家・司馬遼太郎は、当時の長州藩について吉田松陰を「教祖」とする一つの「狂信的」な宗教団体だと指摘していた。

 まさに、「天帝」からの革命思想の直接的な受け皿になって、幕藩体制をひっくり返す革命の震源地になったのです。

 確かに、その後の100年間、日本は松陰の言葉どおりに動いた。松陰の弟子たちによる明治政府は、士農工商や武士内の上士・下士の差別をなくし、四民平等を実現した。

 大東亜戦争では、「天照大神の御加護と天皇陛下の御徳の下に、アジアの国々は一つの家のように平和的に繁栄しなければならない」という八紘一宇の精神を掲げ、欧米の植民地支配を一掃した。

 松陰の思想が、「天帝」や日本の神々の願いそのものであったことの証明である。

 

神々の力で勝利した日露戦争

 インド神話で「人類の始祖」として知られるマヌが、霊言で、「日露戦争は、本来、ロシアが絶対に勝つはずの戦いだったのです。『ロシアが勝って、朝鮮半島まで支配するだろう』という予想だったので、まさかの逆転劇だったのです。日本固有の神様がたが頑張られたのだろうと思います」と語ったように、10倍あったと言われる国力の差を跳ね返して、日本が奇跡の勝利をものにした背景には神々の力があった。

 実際、日露戦争の指導者の多くは、明治天皇を筆頭に地上に降りた天上界の神々であった。乃木希典や東郷平八郎も神格を持った存在である。初代総理大臣の伊藤博文も7次元菩薩界の人であり、山県有朋は8次元如来界の人で、3世紀の終わり頃には日本武尊として生まれた国づくりの英雄である。

 戦争を始めるにあたって、坂本龍馬の霊が明治天皇の皇后の夢枕に立ち、「この戦いには勝てます」と告げたという記録も残っている。

 その結果、日露戦争は、単にロシアに勝ったというだけでなく、「白人優位」だった数百年にわたる世界史の流れを変えることに成功した。

 SF作家として有名なH・G・ウェルズも、その著『世界史概観』の中で、日露戦争の意義を次のように述べている。

 「この闘争は、ヨーロッパ人傲慢時代の終焉という、アジアの歴史における一時期を画するものである」

 もし、日露戦争に敗れていたら、日本がロシアの属国になっていた可能性が高かったことを考えると、まさに奇跡の勝利だったと言える。

 日露戦争は、敵失が重なり、味方にも幸運が重なって、いろいろな人の活躍により勝てたけれども、本来は負け戦だった。

 日本は、資金が不足して継戦能力はなく、海軍は戦艦がかなり傷んでおり、陸軍も作戦と戦闘準備に誤りがあって、ロシア側の備えのほうが十分だった。

 この日露戦争の奇跡の勝利が、第二次大戦の敗北につながっている

 幸福の科学大川隆法総裁は、『秋山真之の日本防衛論』で、陸軍大将・乃木希典の言葉(「霊言」)を次のように伝えておられます。

「いや、本来は負け戦だよね。あれは運がよかった。本来は負け戦だ。本来は負けなければいけない戦だったと思うよ。陸軍も、海軍も、負け戦というのが、本来の姿だ。本当にラッキーだったと思いますね。敵失が重なり、味方にも幸運が重なって勝てたけれども、本来、これは負け戦ですね。
 資金的にも不足していて、無理に外債を集めて戦っているし、継戦能力はなかったし、戦艦もかなり傷んでいたし、陸軍も十分ではなかったし、敵の備えのほうが十分だったね。
 けれども、死傷者があまりに多いのと、乃木の凡将ぶりが誇大に評価されて、すごく恐ろしい人だと思われたらしい。実は、用兵が下手だったために、大勢の兵が死んだのだけれども、それが、何と言うか、「乃木は、人が死ぬのを何とも思わない人間だ」と思われたらしい。
 ロシア側に残っていた武器弾薬、食糧、および、シベリア鉄道による補給体制の確立、それから、要塞の堅固さ等から見て、こちらの作戦および戦闘準備に誤りがあったことは明らかだった。最初の見通しが間違っていて、むざむざと大勢の人を死なせ、戦力を失ったことは、間違いない。
 だから、私の虚名が流れたことで、敵が予想外に恐れてしまい、「日本軍は強い」と思ってしまったところがあるし、「側面から攻撃した者たちにも、当然ながら、援護軍が来るものだ」と向こうが思って、逃げたようなところもそうとうあるので、ロシアのほうが、勝てる戦いを落としたということではあるでしょうね。
 もうちょっと粘られたら、うちの負けだったし、あの高地が取れなければ、旅順の要塞化がさらに進んで、やはり、非常に厳しい戦いになっただろうね。
 海軍のほうだって、「運がよかった」としか言いようがないね。そうとう疲弊しており、港に入りたくて戦意が落ちている艦隊に遭遇して、これを日本の近くで撃破したわけですから、運がよかったのと、東郷平八郎元帥が剛毅な方であったために、勝ったところもあるわな。
 だから、謙虚なのではなくて、本当に、あれは、いろいろな人の活躍により、百に一つの勝ち方をしたのであって、本来は負け戦だ。
 資金を集めたり、あと、講和に持ち込むのにも、たまたま優秀な外交担当者がいて、友人等を通じて交渉をやれたり、いろんな要素が積み重なっての勝利だったね。だから、ナポレオンも敗れ、ヒトラーも敗れた、あのロシア軍(ソ連軍)に日本軍が勝てたというのは、まあ、奇跡の勝利だったね。
 でも、その奇跡の勝利が、おそらくは、第二次大戦の敗北につながっていると思う。兵站部門の軽視から見て、日露戦争は負けている戦いなんだけれども、それでも勝ってしまったために、先の第二次大戦でも、「神風が吹いて勝てる」と思ったところがある。
 だから、「日露戦争では、本当は危なかった」ということを、十分に知らしめておれば、第二次大戦の様相は、かなり違ったものになっただろう。」
(82~88ページ)

 

「自由の創設」としての大正デモクラシー

 自由民権運動が高まり、1881年(明治14年)には「国会開設の詔」が出され、1889年(明治22年)には明治憲法が公布された。翌年、帝国議会が発足し、アジアで初めて議会制民主主義の国家となった。

 国会開設から20年後には、政党が藩閥や軍を抑えて主導権を握り、戦後とほぼ同じレベルの民主政治「大正デモクラシー」を実現した。

 1918年には初めての政党内閣として原敬内閣が成立。その後、護憲三派内閣を経て、1925年から1932年まで、政友会と民政党が交代で政権を担う二大政党制となり、政党政治の黄金期を迎えた。

 武士という支配階級が決まっていた江戸時代からわずか数十年で、庶民が努力・才能によって道を開き、政治にも参画できる社会をつくり上げた。白人が有色人種を支配する世界の中で、日本人は、自分たちの政府(公的領域)をつくり、自分たちの運命を自分たちで決めることができる政治体制を築いたのである。その意味で、中国やアメリカなどが「先の戦争はファシズムの日本との戦争だった」と言うのは明らかに間違いである。日本は大正デモクラシーの後、一度も議会の機能が止まったことはなかったし、戦時中でも反軍演説が堂々と行われていた。異論を封じるファシズム体制ではなかった。権力が一点に集中していたヒットラーのナチス・ドイツやムッソリーニのイタリア、スターリンのソ連などのファシズムとはまったく異なるものであった。

 

日米の衝突を運命づけた台湾とフィリピン

 日米は、互いに1860年代に国を統一し国力を伸ばした新興国であった。そして、この2つの国の衝突を運命づけたのが1895年の日本による台湾統治であり、1899年のアメリカによるフィリピン植民地化である。

 台湾とフィリピンは、当時、蒸気船だと一日で行ける距離でした。1905年、日本が日露戦争で勝利した後のアメリカの警戒ぶりを、初代内閣安全保障室長の佐々淳行氏は以下のように解説する。

「(日本の)連合艦隊がフィリピンに来ないか気を付けろ、とセオドア・ルーズベルト(米大統領)が言っています。日本がフィリピンを取りに行くんじゃないかと心配したのでしょう」

 当時、人口が膨張する日本は、移民の送り先としてフィリピンに目をつけており、アメリカの支配に反発するフィリピン人を裏で援助したとも言われる。

 その後、アメリカは、1919年に日本を仮想敵とする戦争計画「オレンジプラン」を立案。日本も1923年の帝国国防方針でアメリカを第一の仮想敵とした。

 こうして見ると、太平洋戦争は自衛戦争だったとは言い切れない。公平に見れば、日米両国が東西の二大パワーに成長した結果、衝突が必然化した覇権戦争だったのである。

 

世界に人種差別廃止を求めた日本

 白人優位の世界に挑んだのが日本であった。1905年、日露戦争における日本の勝利は、アジア・アフリカで歓喜をもって迎えられた。インドの独立運動家チャンドラ・ボースは当時を以下のように振り返っている。

 「一東洋民族である日本が、世界の強大国のロシアと戦い、これを大敗させた。このニュースは全インドに伝わり、興奮の波がインドを覆った。私たちインドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を敬慕し尊敬した」

 さらに、日本人は、「白人に支配されず、自分たちのことは自分たちで決められる政治体制」を世界に広げようとした。

 第一次大戦後、1919年のパリ講和会議で国際連盟規約を話し合う委員会で、日本は規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」という表現を盛り込むよう提案した。国際会議で人種差別の撤廃を明確に主張したのは日本が初めてだという。

 ところが、委員会の議長を務めるウィルソン米大統領が、提案を取り下げるよう主張。これに対し、日本は採決を要求した。それが通って投票が行われ、フランスやイタリア、中華民国などの代表11人が賛成。イギリスやアメリカなどの代表5人が反対した。人種差別撤廃が圧倒的多数。ところが、ウィルソンが「全会一致でないため、提案は不成立である」と宣言し、葬り去ってしまった。

 有色人種を弾圧・搾取していた欧米にとって、「人種平等」の理念は不都合で非現実的なものだったのです。

 パリ講和会議では、人種差別をめぐって日本とアメリカが真っ向から対立した。この図式はその後も続き、先の大東亜戦争で軍事的に雌雄を決することとなった。

 

人種差別による日本人排斥運動

 対米開戦には、人種問題も影響していた。ゴールド・ラッシュで押し寄せた中国系移民に続き、アメリカでは日本人の移民が、「白人の仕事を奪う」として問題になっていく。各州で土地規制などの排日移民法が成立し、1924年には日本からの移民を実質的に禁止する「絶対的排日移民法」が連邦議会で成立。同胞が不当な扱いを受けていることに対し、日本では対米開戦を支持する声が高まっていった。

 

日本を追い詰めた経済封鎖

 1929年に世界恐慌が始まると、植民地を多く持つ英仏などは、植民地を含めた自国連邦の外との貿易に高関税を課すなど、ブロック経済で不況克服を目指した。一方、経済圏を多く持たない日独伊は、経済の立て直しが難しく、新たな経済圏の形成を狙わざるを得ない状況へと追い込まれていった。

 日本は、満州国の建国に続き、仏領インドシナにも進出する。アメリカなどは、日中戦争で中立を守らず、中国側を支援しており、日本はその支援ルートの遮断を狙ったのでした。しかし、これをきっかけに、アメリカなどは「ABCD包囲網」という経済封鎖を敷き、日本を追い詰める。石油など資源に乏しい日本にとって、これは致命的で、日本は開戦に踏み切らざるを得なくなった。 

(注)Aはアメリカ(America)、B はイギリス(Britain)、Cは中国(China)、Dはオランダ(Dutch)のこと。

 

日本を戦争に引きずり込んだ共産主義者の工作

 こうして開戦へと追い込まれていった日本だが、直接のきっかけを作ったのは、共産主義者の工作だったという説がある。1937年に中華民国軍が日本軍を攻撃した上海事変で、日本は日中戦争へと引きずり込まれるが、攻撃を始めた中国軍の将軍はコミンテルンに通じていたと言われている。また、アメリカと最後まで戦争回避の交渉を行っていた日本は、「ハル・ノート」という最後通牒を受けて真珠湾攻撃を決意するが、これを起草した米政府高官もソ連の工作員だったことが分かっている。

第2次大戦前 日本の3つの「困難」

人種差別を終わらせるプラン

追い込まれた末の自衛戦争

 追い込まれた日本は正当な自衛権の行使として、開戦に踏み切ったことが分かる。日本人排斥運動で国内の反米感情が高まっていた日本は、経済封鎖で追い詰められ、自衛の戦争に打って出ざるを得なかった。共産主義者の工作も、その引き金を引く役を担った。アメリカでは、日米戦争を「日本のファシズムを倒すための戦い」だったとする見方もあるが、それは正しいのでしようか。

 

「善政」だった朝鮮・台湾統治

 「日本も朝鮮半島や台湾を支配し、搾取したではないか」という見方がある。しかし、実態はその逆で、朝鮮と台湾では、日本から多額の政府資金を持ち出され、衛生や教育、産業のインフラに投資され、急速に「近代化」が図られた。

 朝鮮総督府の歳入の10~20%は日本政府からの補助金。これでは「搾取」のしようがない。その資金で、まずは病院を建てるなどして劣悪な衛生環境を改善。伝染病を根絶し、乳児死亡率を大幅に低下させた。教育制度も全域に普及させ、李氏朝鮮の1400年代に創られていたハングルを復活。「朝鮮の二宮金次郎の大量輩出」の目標を掲げた。1910年の併合時に公立小学校に通う生徒は約2万人だったのが、1937年には約900万人にもなった。加えて、京城帝大を大阪・名古屋帝大に先駆けて設立するなど高等教育も重視した。

 コメの生産量を倍増させるなど、食糧事情も改善し、朝鮮の人口は併合前の980万人から2400万人へと倍増。1910年の併合時は「日本の源平時代のようだ」と言われた貧困状態を30数年で克服した。

 台湾でも、同じように医療・衛生、教育、産業のインフラが整備された。初等教育の就学率は1944年には71%になり、アジアでは日本の内地に次ぐ高い水準となった。まともな教育を与えなかった欧米の植民地とは正反対である。

 日本による統治が始まった1895年と終戦前の1943年を比べると、台湾の平均寿命は約30歳から約60歳へと伸び、人口も約260万人から約660万人に急増した。

「飽くなき侵略と搾取」「アジアの人々の隷属化」によって、虐殺されたり、産業や生活が破壊されたりした欧米支配の植民地とはまったく正反対の「善政」だったことが分かる。

 

日本は朝鮮人に選挙権と被選挙権を与えていた

 日本は朝鮮に民主主義を導入しました。1945年には「朝鮮内で選挙を行い、日本の国会に代表を送る」ことができる選挙法が制定されていました。

 在日朝鮮人に関しては、早い段階で選挙権・被選挙権が認められ、1930年以降、ハングルで投票用紙に記入することも可能でした。さらに、1930年代から多くの在日朝鮮人が衆院選挙に立候補し、実際に国会議員も誕生しています。

 

日本は朝鮮人に土地を与えた

 教科書には日本が「一方的に土地調査をし、所有権が明確でないとして多くの土地を朝鮮農民から奪った」と書いてありますが、実際はどうなのでしょうか。

 日韓併合前の朝鮮では、土地の所有制度がなく、支配階級が農民の土地を暴力的に奪うことが日常的に行われていました。日本は、そうしたことを防ぐためにも土地調査を行い、所有権をはっきりさせたのです。農民たちも、自分の土地が地籍に上がるのを喜び、積極的に協力しました。結果的に、未申告地で残ったのは全体の3%のみで、それも朝鮮の人々に払い下げられました。

 

日本は皇族を朝鮮に嫁がせた

 日本は日韓併合後、朝鮮人を日本人と等しく扱うという意思を示すため、日本皇族・梨本宮方子を、韓国の皇太子・李垠に嫁がせました。イギリスは逆のことをしており、ビルマを植民地にした際、滅ぼした王朝の王女を一般のインド人兵士と結婚させました。しかも、そのインド人には正妻がいたため、王女は愛人扱いとなっています。

 

「創氏改名」を要求したのは朝鮮人

 日本が朝鮮人に日本語を教えたことが、「文化を統制した」ように言われることがあります。しかし、日本の言語政策は朝鮮近代化のためのものでした。

 それどころか、韓国や北朝鮮で使われているハングル文字を普及させたのは日本です。福沢諭吉が、「日本の漢字仮名交じり文のように、漢文を読み下せるようになれば、大衆を啓発できる」と、当初は民衆に使われていなかったハングルの可能性を発見。それを受けて、日本の朝鮮総督府が主導してハングルの文字体系を整理し、教科書にも採用しました。

 

日本は朝鮮経済を育てた

 日本が朝鮮で行ったのは「搾取」ではなく、近代化し独立国にさせるための「投資」でした。国力が低い朝鮮半島がロシアの支配圏に入れば、日本の侵略も秒読みとなるという、安全保障上の背景がありました。

 まず、日本は、現在の6兆円にあたる血税をつぎ込んで、鉄道網を整備しました。現在、韓国・北朝鮮にある合計約8千キロの鉄道の7割が、日本統治時代に開通されたものです。北朝鮮の主要電源になっている鴨緑江の水豊ダムなど、大規模な発電所建設も行いました。さらに、農地開拓や灌漑などの農業改革を行い、朝鮮の耕地面積を2倍近くに増やしました。米の生産量は併合前に比べて倍増しました。北部には大規模な工業地帯を建設し、工場成長率は1930年代には平均12%にも達しました。

 こうして、日本から朝鮮に投入された資本は総額30億円に上ります。当時、日本の国家予算が20億円規模だったことを考えると、莫大で最後まで赤字経営が続きました。こうした投資により、生活水準も向上し、日本が朝鮮統治した36年間で朝鮮の人口は倍増しています。現地人を虐げたとはとうてい言えません。

 朝鮮併合を果たした1910年、明治天皇が「韓国併合の詔」を出した。統治の指針になったこの詔には、「太平のもと、産業や貿易を顕著に発展させるようにしたい」「官僚・役人はこの趣旨を充分に理解し、かつ現地の実情を踏まえて政治を担当し、朝鮮民衆をして太平の喜びを感じることができるように努めよ」とあり、朝鮮を内地と公平に扱う方針が示された。

 

日本は台湾も近代化させた

 日本は台湾統治にあたっても、現地人の人権を尊重し、同様の近代化を推し進めました。後藤新平や新渡戸稲造といった日本近代化に貢献した一流の人材を、総督として送り込みました。

 日本が台湾を南北に貫徹して走らせた鉄道は、移動や物流の大動脈となり、現在も交通の要となっています。また、道路のなかった場所にも公道を整備し、従来なら移動に丸2日かかっていた距離が、2時間の移動で済むようになった場所もあります。さらには、貧しい農民のために、「烏山頭ダム」などを建設し、灌漑により豊かな穀倉地帯を生みました。教育でも、地域ごとに言語が異なっていた現地人に共通語として日本語を教えました。日本の警察官や教師は台湾語の勉強をしていました。

 台湾についても、統治する直前、日清戦争で日本国内の財政が悪化していたにもかかわらず、衆議院議員の原敬などが、日本と平等にすべきだという内地延長論を主張。搾取するという発想は全くなかった。

 また、1923年には、摂政宮(後の昭和天皇)が台湾に行啓した際、舞踊で迎える先住民を「蛮族」と紹介した将軍に対し、「その言葉使いは相応しくない」とたしなめられ、日本が古来より台湾の名称として使っていた「高砂」にちなみ、「高砂族」と呼ぶようになった。

 日本は一貫して台湾と朝鮮に対して平等に接したのです。

 

台湾も朝鮮も植民地ではない

 日本は、戦後、「欧米と同様に台湾と朝鮮を植民地として扱った」と認識されていますが、それは正しくありません。

 日本が台湾や朝鮮を領有する際、さまざまな植民地を研究した末に、モデルにしたのがイギリスでした。

 そもそも、当時の日本は、イギリスがウェールズ、スコットランド、アイルランドで構成されるのと同様、朝鮮、台湾とでつくった「合邦国家」であった。当時こうした国家は珍しくなく、第一次大戦後に崩壊したオーストリア・ハンガリー帝国や1992年まであったチェコスロバキアもそうであった。合邦ならば、「植民地支配をして、搾取した」という議論自体的外れである。

 イギリスは、もともと、イングランドが、ウェールズやスコットランド、アイルランドを合併してつくった国です。欧州の辺境に位置する小さな島国に過ぎなかったイギリスは、大陸からの侵略を警戒していたために、近隣の王国を合併したのです。

 イギリスのように小さな島国である日本も、欧米からの侵略を恐れ、琉球や台湾、朝鮮と共に合邦国家をつくりました。

 こうした合併は、当時世界中で流行していました。イギリス以外にも、チェコスロバキアやオーストリー・ハンガリー帝国も合邦国家です。これらの国は植民地とは呼ばれません。なぜ日本だけが断罪され続けるのでしょうか。

 

「台湾は植民地」と発言して紛糾した帝国議会

 日本には、後に首相になった原敬らが、「台湾は内地と同じ扱いにすべき」という内地延長論を提唱するなど、平等に接する考え方が根強くありました。台湾と内地との格差を是正する意見が相次ぎ、台湾の国家経営を担った台湾総督の長谷川清の時代には、国会議員選挙の実施も検討されました。

 1905年、桂太郎首相が台湾に対する日本の立場について聞かれたところ、「植民地だと考えている」と答えたため、野党議員が「これまでそうした方針を打ち出した内閣はないはずだ」と反発し、議会が紛糾したことがあります。この論争があったこと自体、日本では台湾を植民地とみなしていなかった証拠です。

 朝鮮に至っては、植民地か否かという論争すらなく、初めから内地と同一視されていました。朝鮮の国家運営について、大正天皇は、すべてを平等に慈しみなさいという「一視同仁の詔」を出しています。事実、日本の国会には朝鮮人の国会議員もおりました。

 

植民地かどうかは統治の中身で判断すべき

 現代、植民地自体を問題視する向きがありますが、以前はベルギーやデンマークのような小国でも植民地を持っていました。問題視するのなら、「どのような価値観で国家経営をしたのか」という中身を問うべきです。

 日本は、台湾や朝鮮を内地と同じように扱おうとし、近代化を進めました。新渡戸稲造の言うところの「武士道精神」があったためです。日本は、古来より、和の精神を尊ぶ秩序ある社会であり、2600年以上続く天皇をいただく国です。平安時代や江戸時代に戦争がなくなったのは、日本的な価値観に基づく社会ができたためです。この考え方は人類にとって貴重な財産です。

 もし、日本が経済的利益を求めて植民地を得たとしても、武士道精神に基づいた国造りをしたでしょう。

 台湾や朝鮮を慈しんだ先人たちに対して、欧米の植民地支配と比べること自体が失礼な話であり、自虐史観そのものです。

 

・50年で歳入が87倍に急増した台湾

・日本統治時代に高度成長した朝鮮

 朝鮮統治を担った朝鮮総督府のトップは、首相候補や大将級の一流人材が務めた。宮中行事の席次では第6位に位置づけられ、当時の日本は朝鮮を大切にした。

 それは政府の対応にも見られる。日本は、現在価値に換算して60兆円を超える資金を持ち出し、朝鮮のインフラやコメの増産、近代的な医療制度などを整えた。税率も内地よりも低めにした結果、1920年から1930年代の経済成長率は平均約4%を記録。これは当時の日本や欧州を超える高度経済成長である。それに伴い、1944年の朝鮮の税収も約28億円に急増し、餓死者や犯罪者も激減した。

 半島経営で搾取されたのは、むしろ日本人のほうであった。

 戦後、三星や現代などの財閥が韓国経済を牽引してきたが、韓国財閥の上位50グループの創始者のうち、約6割が日本の統治時代にビジネスを学んだ。

 日本は朝鮮に資本主義の精神を教えたと言える。

 

台湾の初等教育の就学率は35倍に急増

 日本が台湾統治で真っ先に行った政策は教育である。台湾総督府は公学校令を公布し、まず、55校の公学校(後の小学校)をつくって、次第に中等教育、高等教育の学校も整備し、台北帝国大学(現・国立台湾大学)も設立した。

 1943年に義務教育を施行した結果、学童数は約93万人になり、義務教育普及率は約7割に達した。また、1945年までに日本に留学した累計数も20万人を記録するなど、アジア屈指の教育先進国に発展した。

 戦後、台湾で使用されていた国民中学の教科書『認識台湾』では、日本統治について、「人口の激増」「時間厳守の観念の養成」「遵法精神の確立」などを台湾にもたらしたと評価している。

 また、教育を重視する方針は朝鮮でも同じである。朝鮮総督府総督の宇垣一成が、朝鮮の二宮金次郎の大量輩出を掲げるなどした結果、併合した10年に公立小学校に通う生徒数は2万人だったが、1937年には約900万人になった。

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