正思

 八つの正しい道を探究する八正道の反省行なかで、特に大事なのは、「正しく思う」(正思)であり、これは「正しく考える」とも言いかえることができる。

 たとえ人に見られても恥ずかしくないような、仏法真理に則ったことを考えるようにすること。

 もし、仏法真理に反したことを考えたとしても、即座に修正を入れること。それによって、魂は洗われ、その汚れは取り去られる。

 このように、正しき思いを探究してゆくプロセスで、魂は次第に力を帯びてくる。偉大なる人物とは、偉大なることを考えた人間のことである。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『永遠の仏陀』で以下のように説かれました。

「この八正道のなかで、特に大事なことを、ただ一つ取り出すとするならば、 すべては、「正しく思う」という、この一点に集約される。

あたりを見渡してみよ。 おまえたちを取り囲んでいる人たちの、心の様相を見よ。 心のありかたを見よ。 なんとも見下げ果てたことを、一日中、考えているではないか。 いや、ほとんど考えなきに等しい人が、どれほどの数、いることであろうか。 考えなき人生を生きるとは、昆虫の人生にも劣ると言わざるをえまい。人間として生まれ、そして生きてゆくことの、いちばんの意味は、人間が考えというものを持つことができるという点に帰着するのだ。 すなわち、「正しく思う」とは、「正しく考える」と言いかえてもよいだろう。 おまえたちの人間性を決定しているものは、すべて、おまえたちの考える中身にある。

もし、他人の心がガラス張りだとして、だれもがその中身を見ることができるとしたならば、 おまえたちは、いったい、どのように感じるだろうか。 まさしく、それは驚愕でしかあるまい。 もし、おまえたちの首から黒板がぶら下がっていて、その黒板に、おまえたちの考えていることが、チョークの文字となって現れているとしたら、どうするか。 街を歩くことさえできまい。 人と視線を合わせることさえできまい。

この際に、どうすればよいのか。 そう、基本的には二つのことが重要となろう。 一つは、見られても恥ずかしくないような、仏法真理に則ったことを考えるということである。 そして、いま一つは、もし仏法真理に反したことを考えたとしても、即座に修正を入れるということなのだ。 「ああ、自分は間違ったことを考えていた。 これは、自分の良心に照らして、まことに恥ずべきことであった」と、 即座に修正することなのだ。 それによって、魂は洗われ、その汚れは取り去られるのだ。

このようにして、自分の正しき思いというものを探究してゆく過程において、その魂は、次第しだいに力を帯びてくることになるのだ。偉大なる人物とは、偉大なることを考えた人間のことであるのだ。 これが大事なポイントとなる。」

 

心の三毒と六大煩悩

 仏性をけがす3つの悪しき精神作用(煩悩)を心の三毒といい、むさぼりの心(貪)、怒りの心(瞋)、愚かさ(癡)である。これにうぬぼれの心・人を見下す心(慢)、疑いの心(疑)、種々の間違った見解(悪見)の3つを加えて「六大煩悩」とし、人間の正しき思いを迷わせ、地獄へ墜ちる重大原因と考えるのが、仏教的正思の基準である。

 たいていは、このどれかに引っ掛かっています。 悪魔に、これで引っ掛けられて、やられることがあるのです。 特に、宗教家の場合は、やはり、「慢」のところに引っ掛かることが多いようです。 (『エクソシスト入門 実録・悪魔との対話』より)

 ただし、百八煩悩といわれるほどに、悪しき精神作用は多く、正思には無限の深まりがある。

 

 

 「貪(とん)」は貪欲(とんよく)です。欲が過ぎることです。欲は誰もが持っていますが、欲が過ぎると、周りから見ても嫌なものです。「あの人は欲が過ぎるな。この程度の仕事で、こんなに報酬をもらおうとしている」「この程度で、こんなに儲けようとしている」などということです。

 時代劇では、「悪代官を正義の味方がやっつける」という話がよくありますが、このときの悪人は、たいてい、欲が過ぎる人で、不当な金を儲けようとしたり、ルールを曲げて何かを手に入れようとしたりするような人ばかりです。こういう人には貪欲があるわけです。

 「瞋(じん)」は怒りの心です。前述した、カーッと来る怒りの心です。これは、動物霊、特に蛇(へび)の霊などの憑依を受けやすいのです。

 「癡(ち)」は愚かであることです。自分で、へまをたくさんして、苦しみをつくっている人たちがそうです。

 特に、宗教的真理に対して愚かであることです。宗教的真理とは正反対のことを言っている人、私が説いていることと正反対のことを信条にして生きている人がたくさんいます。「この世の楽しみがすべてだ」と考えて、快楽に耽(ふけ)り、何ら精神的なるものを求めず、物質的、肉体的なものにだけ喜びを求めるような人は、愚かな人です。これは「癡」です。

 知能指数は高くても、学校の勉強はできても、愚かな人はたくさんいます。この「癡」による苦しみが地獄霊を呼んでくるのです。

 「慢(まん)」は慢心です。天狗の心、うぬぼれの心です。天狗は必ずしも地獄界のものではないのですが、やはり、「慢心し、その後、地べたに落ちて苦しむ。苦しみから地獄への道ができる」ということが多いのです。うぬぼれも失敗の近道です。うぬぼれて失敗する人はたくさんいるのです。

 「疑(ぎ)」は疑いです。これは、主として仏法真理への疑いが多いのですが、疑い、猜疑心、人を疑う気持ち、素直でない気持ちです。

 「悪見(あくけん)」は、思想的に間違っていること、見解が間違っていることです。

 間違った見解がたくさんあります。それを学校で教わることもあります。それが政治思想や経済思想になっていたりもします。あるいは、いろいろな団体や宗教等で、間違った考えを教えているところもあります。

 間違った考えに取りつかれてしまい、それが頭に入っていたら、すべてが違って見えてきます。そのため、間違った宗教団体のなかにいて、間違った思想を持った人は、悟りを開くのは、かなり難しいと思います。やはり、足を洗わないかぎりは無理でしょう。強盗の仲間のなかにいて悟りを開くのは難しいように、間違った思想の人たちの群れのなかにいて真理に到達するのは難しいのです。

 悪見は現在もたくさんあります。知識人のなかにも、悪見は、たいへん多いのです。特に悪見を広げているのはジャーナリズムです。新聞やテレビ、週刊誌等の報道によって、間違った考えが洪水のごとく押し寄せています。これによる混乱、地獄界の拡大再生産が多いわけです。

 このようなことが数多くあります。

 「貪・瞋・癡・慢・疑・悪見」は、マイナスの心の基本的なものとして考えたらよいでしょう。そのほかに、感情的なレベルで言えば、前述したように、カーッと怒(いか)ったり、愚痴を言ったり、人のせいにしたりすることもマイナスの心ですし、「とにかく口が悪い」「行いが悪い」「生活が乱れている」ということも、マイナスの心の表れです。(『神秘の法』より)

 

「地獄に堕ちる原因のほとんどは、「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」という「心の三毒」です。

貪 貪(むさぼ)りの心  「

 貪」とは、貪欲、貪りの心です。当会の言葉で言えば「奪う愛」に生きた人です。この奪う愛、貪りの心で生きた人は、ほとんど地獄に行くわけです。  この「貪」の特徴は、「自分では、よく分からない」ということです。しかし、他人が見れば、ものすごくよく分かるのです。「あの人は欲の深い人だね。強欲な人だね。人の気持ちが全然分からない人だね」「いつも、取っていくことばかりをする。いつも、奪っていくことばかりを考えている」というのは、本人は知らないことがけっこう多いのですが、他人が見れば、十人中、八、九人は「そのとおり」と言うのです。自分を正しく見ることは、それほど難しいことなのです。この「欲の深さ」をなくすためには、やはり、「足ることを知る心」が非常に大事です。それから、「布施の心」も大事です。宗教では布施ということをよく言います。布施というのは差し出すことですが、差し出すことによって執着が取れていくのです。自分が取ることばかりをいつも考えている人は、「人にあげる」、あるいは「尊いもののために差し出す」というようなことを考えないのです。そういう布施の心を持っている人であれば、貪欲の罪で地獄などに行きはしないのです。

瞋 怒りの心  

 「瞋」とは怒りです。カーッと来る心というものがありますけれども、これなどは、たいていの場合、不平不満なのです。自分の思いどおりにならない不平不満からカーッと来るのです。亡くなったおじいさん、おばあさん、お父さん、お母さんのことを思い出してみて、「あの人は短気な人だったね。よくカーッと怒っては周りにあたり散らしていたね」というようなことがあれば、それが原因で地獄に行っていることが多いわけです。

癡 愚かな心  

 「癡」とは愚かさのことです。この愚かさは、必ずしも「頭が悪い」という意味ではありません。この世的には頭が良くても、この「癡」になる人は数多くいます。これは、要するに「仏法真理を知らない」ということなのです。仏法真理を知らない人は愚かに見えるのです。仏法真理を知っている人から見たら、まったく別方向のこと、無駄な努力をしていて、自分の首を締めるようなことを一生懸命やっているのですが、この世的には頭の良い人であることが、けっこう多いのです。地獄領域を拡大するような、まったく正反対の仕事をしている人がいるのです。そういう愚かさがあります。生きているうちに仏法真理を知っていれば、地獄になど堕ちないのです。ところが、それを知らないために堕ちるのです。

(『霊的世界のほんとうの話。』より)

 真の人間の生き方は、左右の両極端を捨て、中道のなかに真理を発見していく生き方であるのです。  その中道が、「八正道」であり、天国へ続く道なのです。  人間が本当に目指している生活は、大調和の世界であり、すべての人が苦楽の両極端をすてて中道に入り、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく行為をなし、正しく生活をし、正しく精進し、正しく念じ、正しく定に入るという八正道を実践してこそ、本当の心の王国ができ、本物の仏国土ユートピアができるのです。  そして、人間の本当の幸せとは、日々の精神的喜びのなかにあり、日々の精神的向上のなかにあり、八正道の奥を究めてゆく途次にこそ、幸福感は高まっていくのです。

 その「正しき思い」というものを探求するために、「正しい信仰―正信」が必要なのです。

『信仰告白の時代』~第一の法門  信解脱

 あなたがたのまわりに、いや、あなたがた自身に、今、もし悪しき現象が現われ、悩みが現われ、苦しみが現われ、悲しみが現われているとしても、それは因果の理法に基づいて生じたものなのだ。 人間のこの世の修行においては、すべて原因があって結果がある。 播(ま)いた種があって実りがあるのだ。この因果の理法を信ずることこそ、正見への道であるということを知らねばならない。 あなたがたは、正見という言葉を、かつて釈迦の説いた八正道のなかの一番目の言葉として記憶していることであろう。 なるほど、正見とは、正しく見ること、正しい見解を持つことという意味であるが、仏法真理の初心者においては、正見とは、「正信(しょうしん)」にほかならない。 正しい信仰である。 悟りに到る第一の法門は、「信解脱」である。 信仰とは、単なるお題目ではない。 仏法真理を信ずることができるということは、すでに悟りの第一段階に入ったということなのだ。 信ずるということは、すでに、悟りの一部を我が手にしたということなのだ。 信仰など持てない、信ずることもできない、と言う人もあるであろう。 よろしい。 しかし、その言葉は、言い換えるならば、私は悟れないと言っているのと同じだ。 信仰なくして悟りはない、ということを知るがよい。

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