「与える愛」の心があるか

 心素直に、自分の心の内に問うてみたとき、他人を責める気持ちが強くないか。人を恨む心、逆に自己卑下の気持ちが、はなはだしく強くないか。

 自分が他の人を注意するのは、その人のためか、それとも自分かわいさゆえか。

 自分に「与える愛」の心があるか。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『ユートピア創造論』で以下のように説かれました。

「私は過去に何百何千という数の地獄霊を見てきましたが、地獄霊に共通する特徴として、最初に思い浮かぶのは、人を責める思いがきわめて強いということです。人を責める思いをさらに分解してみると、まず、恨みの念が強いということがあります。恨みに思う心、あるいは被害妄想的な感覚がきわめて強いのです。つまり、「自分がいま幸福でないのは、他人に害されたからだ」という考え方です。そして、その人が念の強いタイプの場合は、他人に害されたという思いが、積極的に他人を恨んだり攻撃したりする気持ちになり、一方、念の弱いタイプの場合は、自己卑下的な方向にいくことになります。いずれにしても、他人のせいにする傾向がきわめて強いのです。もちろん、他人のせいにする考え方のなかにも、一部には合理的で正当性がある場合があります。世の中には明確に間違ったことをする人もいるからです。そして悪い結果が現われ、それが自分に影響を与えるだけではなく、まわりの人にも迷惑をかけることになります。その場合、その人に注意を与え、改善を求めること自体は、決して悪ではありません。社会において共同生活をし、一つの目標に向かってみんなが努力しているときに、それを阻害するようなことをする人に対して、「是々非々」で臨むこと自体が悪いわけではありません。ただ、「自分かわいさの観点だけで物事の善悪を見ている場合には、その思いは悪に転化していく」ということを知らなければなりません。ここがポイントです。幸福の科学の基本的な教えのなかには、「与える愛」と「奪う愛」という考え方がありますが、自分かわいさのために人を非難する場合、これは奪う愛の方向であり、地獄的な思いになっているのです。  一方、与える愛の気持ちから、他人の間違いを指摘し、その人を善き方向に導こうとする行為は、決して地獄的なる行為ではありません。天使たちのなかにも、間違いを厳しく指摘して指導する霊人がいます。それは根底に愛があるから許され、是とされるのです。「善悪を見る目において、与える愛の側に立っているか。それとも、奪う愛の側に立っているか」ということを、よく知らなければならないのです。  自分の心のなかを見たとき、奪う愛の側に立っていて、他人を責める気持ちが非常に強かったならば、地獄に行く可能性がかなり高いと思わなければなりません。自分が地獄に行くかどうかは、他人から指摘されるまでもなく、自分自身の心に問うてみれば分かることなのです。人を責める思いが非常に強く、一日のあいだに去来する思いのなかで、そうした気持ちが占める時間がかなり長いようならば、その心は地獄に通じている可能性が高いのです。」

 

 ほんとうの愛は「与える愛」。

 それは、利己心と自己保存欲を捨てた愛。

 相手の心性の善なるを信じて解き放つのが、ほんとうの愛である。

 大川隆法総裁は、『信仰の法』で以下のように説かれました。

「愛のなかにも、「奪う愛」という名の執着の愛もあれば、「与える愛」という名の、利己心と自己保存欲を捨てた愛もあります。

 相手を奪い取り、相手の心をがんじがらめにするための、トリモチのような愛は、与える愛とは言わないのです。金銭や物品を幾ら湯水のごとく注ぎ込んだところで、それが相手をとりこにし、かごのなかの鳥にする目的をもってなされたものであるならば、それは、与える愛ではなく奪う愛であり、執着の愛なのです。

 ほんとうの愛は、無私の愛であり、無償の愛であり、見返りを求めない愛であり、相手を自由に伸び伸びと生かしめる愛です。  相手を縛るのが愛ではありません。相手の心性の善なるを信じて解き放つのが愛なのです。」

 

北風と太陽

「「愛」を考えるにあたり、例えをあげるとするならば、イソップ物語の「北風と太陽」の話をすれば分かりやすいのかなと思います。あるとき、北風と太陽が力比べをしようして、旅人の上着を脱がせることができるか、という勝負をすることになりました。まず、北風が力いっぱい吹いて上着を吹き飛ばそうとしたが、寒さを嫌った旅人が上着をしっかり押さえてしまい、北風は旅人の服を脱がせることができませんでした。次に、太陽が燦燦と照りつけると旅人は暑さに耐え切れず、今度は自分から上着を脱いでしまった、という話です。北風を悪者にするつもりはないのですが、「奪う愛」とは、この「北風」のようなものと言っていいでしょうか。また与える愛とは、「太陽」のような存在と言えるでしょう。つまり「奪う愛」とは、「もらうもの」「とりこむもの」「うばうもの」など、ジコチュー(自己中心)的な愛であって、そこに優しさや他人への関心がないのが特徴です。 他人が自分の意見と同じじゃないと、自分の意見を押し付けたり、従わせたりするのも「奪う愛」なんですね。しかし、「与える愛」とは、他人への関心がその中心にあって、笑顔、優しい言葉や思いやりの心、他人へのいたわりや生かそう、導こうとする行為などのなかに現れてくるものなのです。愛というものは、誰が供給しているのかを考えて見てください。それは、愛を与えている人なのです。与える愛の人、つまり愛の供給をする人がいなければ、この世は、愛の砂漠と化してしまうのです。しかし、世界を見渡してください。きっと、そこに愛があることに気づくはずです。家庭にも、会社にも、社会にも、そして自然界にも、大いなる愛と慈悲が満ち満ちているのです。真の愛とは、全ての人びとを幸福にするものなのです。ですので、全ての人が、人間を本当に幸福にするのは、この「与える愛」であって、「奪う愛」はホントの愛ではないと『知』り、そして、与える愛を実践していくことでこの世は、限りなく幸福な人びとが住む天国に近づいていくのです。そうです、すべての人がこれを知り実践すれば、たちまちそこにユートピア世界が実現するのです。これが、幸福の科学が行っているユートピア運動であるのです。」

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