「分福」「植福」「惜福」

 自分なりの幸福をつかんだと思うときにすべきことは、まず、その一部を他の人にお裾分けしてあげること(「分福」)。

 そして、将来への種まきをしておくこと(「植福」)。ここから転じて、幸福の科学では、神仏へのお布施を「天の蔵に富を積む」善行として「植福」と呼んでお勧めしている。

 三番めは「惜福」。思わぬ大金が入ったり、思わぬ成功をおさめたときに、それをそのまま全部使ってしまわないこと。その一部は大切にしまっておくこと。

 この3つの考え方は、どれかにかたよってしまうと道を誤ってしまいがちですが、3つをそれぞれバランスよくと心がけていると、見事に発展する豊かな成功に至ることができる、ということ。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『幸福への道標』で以下のように説かれました。

「まず、自分がある程度の成長をし、成功をおさめたと思うならば、次にすべきことは、この幸福の種を次第しだいに広げていくことだと思います。その一つは、自分が幸福の種を両手一杯に持ったならば、この一部を他の人にお裾分けしてあげること、そういう「分福(ぶんぷく)」の姿勢が必要であろうと思います。さらに現在の一時的な成功、これをよしとするのではなくて、将来にわたる発展・繁栄を願うべきです。したがって、現在のその豊かさと幸福を満喫しつくすのではなくて、その一部を将来のために残しておく、あるいは将来への種まきとしておく。そういう先行投資に使っていくという考え方があると思います。これは「植福(しょくふく)」という考え方です。さらに、次なる福の考え方は、「惜福(せきふく)」という考え方があります。福を惜しむということです。それは、自分が幸運な結果を手に入れたり、大成功を手に入れたときに、その福をすべて公開し、見せびらかし、そして吹聴し、自分は成功したのだと喜びを満面にたたえて、言いふらしていると、その人の徳性というのが次第に下がってきます。そして、人から疎まれるようになってきます。福を惜しむ、「惜福」という考え方は、せっかく入ってきたその成功を、指の隙間から逃さないように、笊(ざる)から逃さないように大切に大切にする考えです。

 芥川龍之介の短編のなかに、『杜子春』という小説があったと思います。これは、中国の物語ですが、ある仙人に宝のありかを教えられた杜子春が、そこを掘ってみるとザクザクと宝が出てきた。ところがその宝を彼が持ったということを聞き知って、彼の親類縁者、友人たち、いろいろな者が集まってきて食客になります。そして、飲めや歌えやが続いて、三年たてばまた元の木阿弥になる。こういう話であったと思います。すなわち、人は身分不相応な富を手に入れると、どうしても大盤ぶるまいをしてしまいます。そして、またすぐ元のとおりになってしまう。また成功したときには、まわりの人がお追従(ついしょう)をいったり、日ごろ友だちでもなかった者までが、急ににわかな友だちになったり、いろいろと寄って来て甘い汁を吸いにきます。そして、いつのまにかその富はなくなっていきます。こういうことがあります。まさしく「惜福」という考え方を知らなかった、と言ってよいでしょう。実際に、思わぬ大金が入ったり、思わぬ成功をおさめたときに、それをそのまま全部使ってしまわないことだと思います。そのうちの一部はやはり大切に大切にしまっておくことで、そして自分が使ってよいものはこの程度だというふうに考えて、その範囲のなかで、やはり消費活動あるいは、そうした富の使用を行なうべきだと私は思います。」
 

植福

 幸福の科学では、尊い宗教活動に使っていただくために、お布施することを「植福」と呼んでいます。

 多くの人々の尊い植福で、幸福の科学では、全国各地、世界各地に「精舎」や「支部精舎」が続々と建立され、布教誌などが作られて、多くの人々の魂を救うための活動が展開されている。

 大川隆法総裁は、『希望の法』で以下のように説かれました。

「成功していく過程においては、「惜福(せきふく)」「分福(ぶんぷく)」「植福」の考え方が大事です。惜福とは、「一時的な成功に驕(おご)ってしまわない」ということ。分福とは、「他の人々をも、その富の恩恵にあずからせるようにしていく」ということです。植福とは、「いま使いたいお金や財産その他のものを、全部、使ってしまうのではなく、たとえば、将来のために蓄えていったり、十年後、二十年後、三十年後、五十年後のために投資をしていったりする」ということです。幸福の科学においても「植福」という考え方があります。自分に入ってきた収入を、全部、自分のために使ってしまうのでは、その人は尊い志を持っているとは言えません。二十万円の収入があれば、「二十万円全部を自分のために使いたい」という気持ちを持つのは当たり前のことです。二十万円の収入しかないのに、「三十万円を使いたい」と思うのが、むしろ普通かもしれません。  二十万円の収入のうち二万円なり三万円なりを、たとえば、幸福の科学において、宗教活動のために使い、精舎の建立や伝道のための資金として提供することは、楽にできることではありません。その二万円や三万円があれば、おいしいものを食べたり、ゴルフに行ったり、お酒を飲んでカラオケで歌を歌ったりすることもできます。二十万円の収入のなかから二万円なり三万円なりを割いて宗教活動に捧げるというのは、楽なことではないのです。ただ、その二万円なり三万円なりのお金が、全国、全世界から集まって積み重なると、大きな額の資金になります。そういう資金が集まることによって、全国各地に精舎を建てることができます。また、海外でも、精舎を建てたり、活動を開始したり、さまざまな印刷物をつくったりすることができるようになっていきます。自分が一生懸命に働いて得た収入の一部を、自分以外の人の活動に捧げることで、さらに大きな活動が起きてくるのです。  そして、その宗教活動を契機として、多くの人が、立ち直ったり、幸福になったり、成功したりします。自殺しようとしていた人が、自殺を思いとどまって人生をやり直したり、病気の人が気力を取り戻したり、事業の沈滞に苦しんでいた人が成功への道を歩んでいったりします。こういう、幸福の連鎖反応、善の循環が始まってきます。それは、その二万円なり三万円なりのお金が、大きな大きな力になって拡大していく姿です。これは、とても尊いことなのです。」

 幸福の科学では、お布施(ふせ)のことを「植林」になぞらえて「植福(しょくふく)」と呼びます。植林というのは、将来のため、百年先のことを考えて、行っていくものです。苗木を植えた人は、実際に、その木を伐採して材木にし、それを売ったり、家を建てたりすることはできず、決して自分のものにはなりません。しかし、植えた木は、その木が大きくなって緑なす山となり、また、材木となって、家やその他のものに変わっていきます。

 宗教の行う伝道活動には、会社のような対価性がありません。幸福の科学が会員信者のみなさまから植福を受けるときも、それは商品の対価、何かの労働の対価ではありません。対価性があれば、そこにすでに穢(けが)れがあり、それは植福ではありません。たとえ、お経を読む、説法をするなどという行為がそこにあったとしても、それは一つの機縁、よすがであって、その対価として、植福をするわけではないのです。

 植福は、「尊いものに、自分の持てるものを布施し、執着を断つ」という心の修行でもあります。対価性がないものであり、だからこそ値打ちがあり、功徳があります。みなさまが差し出された尊い植福は、社会に幸福をもたらすための光なのです。

 「布施」は、仏教の基本でもありますが、幸福の科学では、「植林」になぞらえて「植福」という言い方をしています。 植林というのは、将来のため、百年先のことを考えて、行っていくものです。 要するに、「植福」というのは、「将来の多くの人の幸福を願って、行っていく修行なのだ」ということです。そして、そうであればこそ、逆に、無限の功徳がわが身に降ってくるのです。(『「エル・カンターレへの祈り」講義』より)

 

なぜ幸福を広げようとするのか

 大川隆法総裁は、『信仰と愛』で以下のように説かれました。

「幸福というものは、自分ひとりのものにしてしまうと、腐って死んでゆくのです。そんなものなのです。食べようと思ってたくさん食べ物を持っていても、長い間置いておくと腐ってゆくように、幸福というものは自分だけ幸福になってそれで終わったらだめなのです。自分が幸福になったならば、「こんな幸福をいただいたということは、本当にありがたいことだ」と、その幸福をまず惜しむことが大事です。「自分に力があるからこうなったんだ。自分が偉いからこうなったんだ」、このようにうぬぼれるのではなく、「こんな幸福をいただいたということは、非常にありがたいことです。自分のように修行が十分でない者にも、こんな幸福が与えられたということはありがたいことです」と謙虚に受けとめる。これは「惜福」です。福を惜しむということです。そして、その幸福を他の人に分けてあげる。これは「分福」です。福を分けてあげるということです。さらに「植福」、福を植えるというのがあります。将来のために福を植えてゆくことです。それは、今はまだその途次にない方、まだそういう状態にない方のためにも、将来のためにも、何か自分のできることを今のうちからしておくということにもなりましょう。」

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