心の時代を生きる

 神も天使も心も魂も、味も匂いも香りも暑さも寒さも重さもある世界から、すべての要素を抽出して残った物質(延長)世界を、縦・横・高さの三次元世界と定めることで、近代の自然科学は立ち上がりました。

 味も匂いも重さも電磁気も、いったん取り去った物質世界に、少しずつ数学的体裁を整えて戻していく過程が物理・化学の進展の歴史でした。医学や農学、分子生物学に至るまでの技術の進歩も、この恩恵にあずかっています。

 しかし、神も天使も心も魂も、現に存在するのですが、科学の扱うフィールドには戻されていません。今の科学では、脳や電気作用、情報科学で扱える内容で、心や精神を説明しようとしていますが、それで心や魂の存在を否定するのであれば間違いです。心や精神の作用について科学でも扱うようにしないと、本当の生物学、生命学にはならないのです。

 

見えないものこそ見なければいけない

 「物しかない」という見方は、仏教的には「悪見」に当たります。生きている(あるいは死ぬ)ということは、心や魂の存在を考えないと、本当のことは分かりません。幸福の科学の教学では、人間が持つ魂とは、肉体を運転している人体状の想念体であり、その魂の中で考えたり判断したりしている中核部分を「心」と呼んでいます。

 幸福の科学大川隆法総裁は、著書『幸福の科学大学創立者の精神を学ぶ1(概論)』でこう指摘しています。

「『大きな霊体構造、思考するエネルギー体としての霊体のなかに人体様の魂が存在し、中心部分で魂の”舵取り”をしているのが人間の心』ということになります」

 そうした魂の存在を認めないと、次の科学のステージには進めないのです。そして、そのステージへの移行によって、はじめて生命や進化が科学的に論じられることになるのです。それは、AI(人工知能)などが届かない世界の入り口にもなっています。

 そのために、学問の世界においても心を探究する時代を拓く必要があります。

 また、総裁は、著書『伝道の法』ではこう指摘しています。

「学問において、そうとう”汚染”が起きているでしょう。そして、流れている”汚染水”は、基本的に、心というものや魂というもの、あるいは、あの世の世界につながる考え方を否定していくものだろうと思います。これを突破しなければいけません」

参考

心に目覚める

 ところで、心の時代を切り拓く、あるいは新しい科学の道を拓くための前提として、個人が「心に目覚める」にはどうしたらよいのでしょうか。

 そのためには、人間の能力として一番上に立つ「悟性」を磨くことが大事です。少なくとも、「独り静かに考える時間」「自分の心の内を見つめる時間」が必要になります。

 

自然の奥にあるもの

 まず、自らの中の悟性の力に気づかなくてはいけない。

「悟性というものは、地上にあるすべての営みを超えた自分を見つめるところから始まっていきます」(『心に目覚める』)

 本能や喜怒哀楽などの感情、理性、知性、意志などを超えて、心の中の悟性に気づき、悟性を磨くことで肉体を超えた自己に到るのです。

 修行によって、自らの中の霊性と、さらに自然の奥にも物質を超えた部分があることが分かってきます。

 その領域が、未来科学が探究すべき対象であり、その探究によって、生命の生命たる本質に迫る世界が開けてくるのです。

 それは、動物や植物の個々の気持ちや感情といったものだけではなく、その奥に自然全体、生命全体、生きとし生けるものへ投げかける、熱いまなざしがあることが確信できるようになるのです。

 自然は決して目に見えて手に触れるものだけでできているのではありません。高次の存在から低次の霊までの階層をもちつつ、エネルギーでつながった大きな存在のように思えます。自らの心を磨き、心境を高めることで、そうした次元の霊的存在が分かるようになってくるのです。

 自然の奥に慈悲があるように、歴史の奥にも慈悲や愛が流れています。そうした物質ではない心、精神の領域の存在があるとしたら、それが未来をつくっていきます。歴史には意志や計画、欲求などの目的性があるのです。

 この点、無方向性の変化を前提とする現在の進化論、さらには目的論を否定する従来の科学とも矛盾を生じています。これらを昇華し、融合する視点を創造しないといけないわけです。

 「科学的真理のみが学問で扱う真理」という見方自体が、現代という断面でのみ通用する歴史上の産物として相対化して見ることもできます。

 生物進化を再考することは、唯物論と進化論の鎖を断ち切り、唯物論が跋扈(ばっこ)する日本の存立基盤を問い直すことにつながります。そして、その資格と使命も、長らく動植物の心に寄り添ってきた美しき国・日本にある。

参考

心の階層

 近代科学は、物心二元論の哲学のもと、自然から「精神」を抜き取り、「客観」として扱っています。形而上学からの解放は、自然科学の発展や産業革命を生み出し、かつてない飛躍をもたらしました。ただし、その科学が生物学から魂と目的論を抜き去った。

 抜き去られた方の「精神」ですが、その中にもさらに深い洞察の目を向けることができます。精神というのは階層的な構造があります。

参考

悟性の教育

 心を磨き、高めることで、自然の中にも精神があることが分かる。

 例えば、私たちが詩や絵画を鑑賞するときも、五十音の文字の並びを見ているわけでも、絵の具の材質を見ているわけでもありません。時代を超えて存在する「美そのもの」に触れているのだと思います。鑑賞する力がつくことで、時間から切り出された「イデア」が見えてくることになります。それは、つくり手の心に触れることでもあるでしょう。 

 同じように、心の段階を高め、生かされている感覚が強くなると、細胞や生物個体、生態系のしくみの中に、単なる物質を超えた”つくられた意図”のようなものを感じるようになります。

 その心の段階を高める方法は、宗教的悟りの高め方や修行方法と同じであり、「悟性の磨き方」ということにもなる。

 人類を精神世界に導いてきた教えとして、東洋には儒教や道教もあります。かつての中国は偉大な精神的指導者を数多く輩出し、日本も長く恩恵を受けてきました。

 朱子も、心身訓練、精神修養によって「脱然(豁然)貫通」という、精神と物質、主観と客観を超えた境地に到ることを説いています。

 その境地を体験すると、物質以上の自然の目には見えない一面に気づき、それらが別個の存在ではなく、究極的には、一つの慈悲の念いとして悟得できるのです。

 それにより、一なる「理」が、形而下において一なる「気」となり、それが「陰陽」となって自然を生み出すという「気の自然学」が説かれます。

参考

悟性から科学へ

 大川隆法総裁の著書『心に目覚める』には、悟性の磨き方として 4つの方法が説かれていますが、その1つの方法が「自分の心がつくった曇り、窓ガラスの曇りのようなものを反省によって取り除く」というものです。

 今まで生きてきた中で、無自覚な「悪い考え」が窓ガラスの曇りのように心についています。それを取り除き、心を透明にすることで、高次元の霊的な波動に合うようになります。 

 悟性を磨き、高い境地に上がっていくと、心のあり方に応じた高次元の存在と通じて、幸福感が増していきます。

 欲望に捉われたまま霊的になってしまうと、邪霊などと通じて危険なことがあります。反省によって自らの悪しき思いを拭い去っていくことは、より安全な悟性の磨き方になります。信仰心の確立も大切です。 

 悟性に触れることは、人生観だけでなく、自然観にも変革をもたらします。大川隆法総裁の著書『心に目覚める』にはこうあります。

「人は、悟性に触れて初めて、三次元世界という、この世の世界から遊離することができるようになるのです。では、どうすれば悟性に触れて、この世から遊離できるのでしょうか。それは、まず、「自分自身は、実は、肉体から発生しているものではないのだ。肉体から出ているものは、すべて自分ではない。『頭で考えているのが自分だ』と思うのは間違いである。『脳の作用が自分だ』と思うのも間違いである。『神経の作用が自分だ』と思うのも間違いである」ということに気づくことです」

 この世に生きながら、この世の物質的解明を行うのではなく、霊的な視点でこの世を見ることで、それまで見えてこなかった自然の一面が見えてくるのです。もちろん、社会観、経済観、芸術観も変容するでしょう。

 その悟性でもって、科学の流れに大きな影響を与えた人は誰でしょう。ニュートンもそうですし、ファラデーやアインシュタインもそうでしょう。日本人では、物理学では湯川秀樹、数学では岡潔、生物学では今西錦司でしょうか。

 こうした方々は、自然観を変え、新しい学問を創造しました。学問の方法として、「哲学は演繹的、科学は帰納的に導く」と言われますが、科学に飛躍的な前進をもたらす人は、たいてい自然哲学をもって登場します。その自然哲学を生み出しているのは、「悟性的直観」であると思います。

 科学者が直観でつかんだものから演繹して、科学的真理が明らかにされてきたのです。

参考