霊的進化論

 三次元世界の定義からすると、時間というものは存在しません。定義から言えば、三次元は縦・横・高さの要素で成り立っているので、元から”時間はない”のです。三次元には、過去や未来はなく、昨日も明日もこの世界にはないのです。

参考

四次元以降に存在する「時間」

 私たちが経験しているものは、「今」「ここ」でしかなく、過去や未来に行くことはできません。三次元には過去も未来も存在しないのです。もちろん、昨日に火災があれば、焼け跡は今日も明日もあるでしょうし、十万年前の遺跡も百万年前の地層もあります。そこにあるのは物質です。”昨日そのものの抜け殻”です。

 では、昨日や明日そのものは、どこにあるのでしょうか。記憶や予測、意思という言い方もできますが、四次元以降の空間にあります。しかし、それでも昨日や明日そのものには行くことはできません。もし、あの世で時間軸を自由に移動できたとしても、(個人の認識では)使っている時間は「今」ではないかと思います。 

 時間というのは、三次元になく 四次元以降に存在し、時間軸にあったものは、現在・未来に影響を与えます。四次元は、過去・現在・未来の流れの中に埋没しており、時間軸の前後を認識するためには、五次元の時間以上の要素である「精神」が必要です。五次元以上の精神的主体によってはじめて、”時間を反省できる”のではないかと考えています。

自然科学が扱う進化史では、生命が抜けた”抜け殻”しか見ていません。人類の歴史の分野でも、客観性を重視するあまり、発掘された遺物の科学的な検証などが重視され、”時代のイデア”をつかみ取れる人が少なくなってきているように思います。

 

生物には特有の時空間が存在する

 時間の前後をはっきり反省できるのは、動物性を脱した人間です。ただ、その人間が捉える時間を用いて進化を考えるのは十分ではないと思います。

 ユクスキュルというドイツの生物学者は、「環世界」「環境世界」という概念を提唱し、その生物種ごとに特有の認識世界があるということを示しました。イヌならイヌの視覚・嗅覚などで認識できる独自の(人間が考える「世界」とは別の)世界があり、その世界観の中で生まれ死んでいきます。それは、人間の世界を押し付けて、ひとくくりに生物を扱うことへの警鐘になりました。

 カントの『純粋理性批判』の動物版のような感じですが、それは、動物の捉える環境だけではなく、時間も同様だと思います。もちろん、人間も動植物も、太陽の運行(地球の自転)に合わせたリズムをある程度共有していると考えられますが、時間の前後をはっきりとした形で認識できない主体にとって、この世界を生きるとはどのような感覚なのでしょうか。それを思いはかる必要があると思います。

 動物には人間のような個性がなく、死後、群魂と呼ばれる集合体にまとまる。

 生きているうちでも、動物は個性化されておらず、「種」「同種のまとまり」といった集合に埋没しているのではないかと推察されます。

 動物には、個体として程度の差はあっても喜怒哀楽などの感情はあると言われていますが、その一方で、「種」のような全体性から自由になれていないのが生物ではないでしょうか。

 神仏に創造された人間には、自由と個性が与えられており、心を磨くことで本来持っていた神とのつながりも回復できますが、動植物には「全体論」的な一側面があり、種という全体に無意識の世界で帰属しているように思えます。

 現代の進化論に欠けているのは、この部分だと思います。生物にとっての時間は、私たちが感じている時間と同じとは限りません。むしろ別の時空間を知覚しているはずです。個が確立されておらず、時間の経過もまどろんでいる生き物に対して、”個体の適応度”や”生存競争”という価値を押し付けるのは、適切ではなく、かえって擬人的ではないでしょうか。

 

生物の霊的側面を考慮しなければ、生物学は完結しない

 私たちの本来の生命(霊)は、本来四次元以上の世界にあります。そして、昨日死んだ生物の生命も四次元空間以上にあり、仲間ごとに集合霊のような状態を形成すると考えられています。

 個性がはっきりとしている人間の転生とは異なる転生をしているのが、生物の世界のようです。

 霊的人生観を獲得しなければ、人生の目的や使命とは何かが分からないように、生物の霊的一面を考慮に入れなければ、生物学は完結しないでしょう。地上と死後の世界の生命の姿が分からない限り、進化論の真の姿も分からないと思います。