凶悪犯罪と悪霊

 幸福の科学の大川隆法総裁は、『『愛と障害者と悪魔の働きについて ―「相模原障害者施設」殺傷事件』(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように述べておられます。

「何とも衝撃的で凄惨な事件が起きたものだ。  障害者施設を舞台として、そこで解雇された元職員が、夜中に忍び込み、一人で十九人を殺し、二十六人に重軽傷を負わせた。個人犯罪としては、戦後日本では最大規模のものと思われる。  事件そのものは殺人事件として、警察や裁判所マターとなり、マスコミが障害者施設や容疑者に対する医者の対応を追及していくだろう。  単なる突発的な事件なら、私の出番ではないが、背後に、「重度の障害者は安楽死させるべきだ」という政治・宗教にまたがる主張があるので、何らかの悪魔的な働きかけがあったと見て、スピリチュアルなリサーチを行ってみた。  結果は、驚くべき内容で、予兆としては「未来への衝撃」に値するものだった。私たちは、効率的で生産的な社会を夢みるあまり、「神の愛」を忘れてはいまいか。いま一度、障害者問題を宗教的視点で捉え直してみたいと思う。」

 大川隆法総裁によって、スピリチュアルなリサーチが行なわれた結果、相模原で起きたこの重大犯罪の犯人を操っていた存在として出てきたのは、凶悪な小悪魔、そしてそれだけでなく、その黒幕の大きな悪魔でした。

 大川隆法先生は本書の中で、「これは、『ネオナチ的なものが日本に起きてくる序章』と見たほうがいいのではないでしょうか」「これは、十年以内の未来が見えますね。」「一過性の事件だと思わないで用心したほうがいいでしょう。」と、強く警告を発しておられました。

 本書によって、「魔の跳梁」による大量殺傷事件という不思議な現象が、実際にこの世で起きていたことが確認されたわけです。

 「悪魔」という存在は、いったい何を考え、どう行動するものか。その影響力を、どういった形でこの世の人々に及ぼしているのか。

 

西洋医学では、憑依現象がなぜ起きるのかが説明できない

 脳における何らかの障害だとして、精神病院に入れられる人は多いが、医学では治す方法はない。しかし、霊がやって来たとういうのがおかしく聞こえるほうが、真実の世界から見たらおかしい。

 幸福の科学の大川隆法総裁は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で以下のように説かれました。

「西洋医学では、「憑依といわれる現象がある」ということは分かっているのですが、「なぜ、そういうことが起きるのか」という問いに答えられないのです。それについては、どうしても分からず、科学的に説明ができません。そう呼ばれる現象があることは分かっていても、それを医学的には説明できないわけです。  医学というものは、肉体としての人間を研究しているので、どうしても根本に唯物論的な考えがあります。それはそれで使命としてはよいのですが、憑依現象についても、「脳に何か関係がなければいけない」と考えて、「脳の作用、あるいは脳の構造上の問題である」と捉えがちです。憑依現象を精神科の案件とした場合にも、だいたい、「脳における何らかの障害である」と考えるのです。  また、心というものについても、「脳の作用に付随して発生するものだ」と考えます。そして、「心は、脳の一種の機能として、精神作用としてあるのであって、脳のほうが、何か具合が悪くなると、精神作用のほうも歪んでくる。それによって、『霊が見える』『霊の声が聞こえる』などと言い出したり、『自分は○○の霊だ』などと語りはじめたりする患者が出てくる」というような扱いをしています。  それで精神病院に入れられている人は多いのですが、精神病院に入れられても、基本的には治りません。なぜなら、医学そのものが憑依現象について理解できていないので、治す方法はないからです。「薬を飲ませて、おとなしくさせる」「隔離して、一般の人との摩擦、一般社会との摩擦を避ける」ということぐらいしか方法はないのです。(中略)  もちろん、ほんとうに、身体の構造上、何か障害があって、錯乱状態になる人もいるとは思います。“機械”のほうが故障している場合もあるでしょう。しかし、そうでない場合もあります。要するに、心のほうの問題が原因で、いろいろなものが見えたり聞こえたりすることがあるのです。  「いろいろな霊がやってくる」「○○の霊が、いま来ていた」などと言うと、それがおかしく聞こえるようになってきているのが現代ですが、おかしく聞こえるほうが、ほんとうは、真実の世界から見たら、おかしいのです」

 大川隆法総裁は、『霊界散歩』(幸福の科学出版)で以下のように説かれました。

「犯罪を犯した人のなかには、よく、自分が犯罪を犯したことを全然覚えていない人がいます。「意識がなかった。それは自分の意思ではなかった。いつのまに、その犯罪を犯したのだろうか。全然、記憶がない」という人がいますが、それは、ほんとうにあることなのです。  そういう人は、実際に魂が肉体から抜けていて、ほかのものに肉体を占領されているのです。そして、憑依されているときに、人殺しをしたり、泥棒に入ったり、万引きをしたり、いろいろな悪さをするわけですが、事が終われば、憑依霊が抜けて、本人の魂が戻ってきます。  やがて、気がつくと裁判所にいて、「いったい何をされているのだろう」というような状況になっています。裁判所で、「あなたは、こんなことをした」と言われ、「私は、そんなことをした覚えはありません」と答えます。  しかし、証人に、「確かに、この人に間違いない」と証言され、「×月×日×時に、あなたは、人を殺し、金品を奪って逃げた」などと言われます。それでも、本人は、「そんなことは全然知らない。私は無罪です」と言います。  実は、その犯罪行為のときに、憑依霊が入り、それを行ったのです。そして、「しめしめ」と思い、終わったら逃げたわけです。  霊のほうは、肉体から抜けてしまえば、本人が電気椅子にかかろうが、どうなろうが、関係ありません。しかし、本人のほうは、たまったものではなく、「こんなはずではなかった」と言って暴れるのです」

 

凶悪犯罪と悪霊との関係

 どちらの犯罪も容疑者と被害者の間に利害関係があるわけではなく、動機も不明確で第三者には理解し難い。こうした未成年による異常な犯罪をどう考えればよいのか。

 大川隆法・幸福の科学総裁は、著書『霊界散歩』の中で、凶悪犯罪の原因を、「霊的」に指摘している。

 「犯罪を犯した人のなかには、よく、自分が犯罪を犯したことを全然覚えていない人がいます」「憑依されているときに、人殺しをしたり、泥棒に入ったり、万引きをしたり、いろいろな悪さをするわけですが、事が終われば、憑依霊が抜けて、本人の魂が戻ってきます」

 事件当時の記憶をはっきりと思い出せない場合、医学的には多重人格と見なされがちだが、その多くは、実は悪霊による憑依が原因である。

 悪霊とは、生前に善なる思いや行いよりも、悪なる思いや行いの方が多く、死後もなお成仏できずに迷い苦しんでいる霊存在だ。こうした悪霊は、プラスの心を持った人間には取り憑けないが、自らと同じ、嫉妬や憎悪に満ちたマイナスの心を持つ人間に憑依する。心の状態が変わらず、悪霊に毎日のように憑依されると、やがて完全憑依状態になり、理性が失われ、凶悪犯罪に走ることがある。

 様子が急に変わる現象は、宗教的には「憑依」と呼ばれ、ある霊が地上の人間に取り憑いて常に影響を与えている可能性が高い。

 霊が取り憑けるのは、本人が同じ心の状態や考え方を持っているためだ。「障害者は生きるに値しない」という容疑者の過った「人間観」が、同類の悪しき霊を呼び寄せた要因である。

 このような思想に基づく凶行は、精神薬の投与だけでは止められない。容疑者が魂の真実を知る機会があったら、罪を犯すことは避けられたかもしれない。

 大川隆法・幸福の科学グループ総裁は、経典『ザ・ヒーリングパワー』で次のように説いている。

 「人生において、迷いの根本は、『人間として生きているときに、幸福の科学が教えているような「正しい生き方」を知らない』『人の本質は魂であり、あの世の世界があるということ、死んだら霊になるということを知らない』ということです

参考

 特に未成年の犯罪の増加の背景には、学校教育、家庭教育の中に宗教的価値観が欠けていることがある。幼い頃から宗教心を育み、自らの心をコントロールできるようになれば、悪霊の影響を受けにくくなる。

 戦後、日本では教育から宗教を排除してきたが、「人間は皆、神仏に平等につくられた尊い存在」であることを信じてこそ、自らの命を大切にし、他人の人生を尊重できるものだ。宗教的価値観の浸透こそ犯罪を抑止するカギである。

参考

 障害者殺傷事件も、その根底にあるのは、自分や自分が属する社会集団の考えを絶対視する思想だ。お互いの”正しさ”を主張し合う中に争いが生まれ、そこに悪魔的な思想が入ってこないとも限らない。

 これを避けるには、人類を導いてきた存在の説く正義を学ぶことだ。

 幸福の科学は、すべての人は神仏の子であり、魂において平等であること、人間は何度も転生輪廻を繰り返し、違う国や時代に異なる立場で生まれ変わるという霊的真実を明らかにしている。これを知れば、国籍、人種、宗教、思想などの「違い」で憎しみ合うことは愚かだと分かるはずだ。

 世界で起きている悲惨な事件をなくすために、「お互いの違いからくる憎しみを越え、共に愛し合え」という神仏の願いに耳を傾けたい。

 

多重人格も現代医学では「了解不能」

 現在、精神医学の世界では、多重人格については診断方法をめぐって意見が分かれている。『別人格』と言っても、精神医学の分野では、『了解不能』(わからない)ということ。それ以上追求できないため、薬物で鎮静を図ることぐらいしかできません。

 現代では、了解不能とされている多重人格ですが、この現象を同じ傾向性の苦しみを持つ霊による『憑依』という現象で説明するとすべて筋が通るのです。

 実は我々も、気がつかないうちに、悪魔ではないとしても、「悪霊」に取り憑かれていることがないとは限らない。

 幸福の科学の大川隆法総裁の著書『幸福の法』には、「『半分以上の人は、何らかの悪しき霊的な影響を受けている』というのが、現代社会の実情ではないでしょうか。何らかの影響のある悪霊が、一体ないし二体、作用していることが多いのです」とある。程度の差はあっても、現代に生きる人間の多くが憑依されることがあるということだ。

 悪霊とは簡単に言えば、生前に善なる思いや行いよりも悪なる思いや行いの方が多かった人が、死後もそのマイナスの心のままで迷い苦しんでいる存在である。

  では、憑依のメカニズムとは、一体どのようなものなのか。

 まず基本的に、この世で生きている人間と、悪霊の心の波長が合わなければ、その人間に取り憑くことはできない。これを「波長同通の法則」と言う。ちょうど、目に見えない電波を、テレビのチャンネルを合わせることで受信できるのと同じ原理だ。

  たとえば、自分の置かれた境遇への強い恨みや他人への嫉妬心を抱き、「人を殺したい」「社会をメチャクチャにしてやりたい」という思いを持っている人には、同じような思いを持った悪霊が取り憑くことができるというわけだ。他にも怒りや悩み、被害妄想や自己嫌悪などマイナスの思いを強く持ち続けている人は悪霊に取り憑かれやすい。

 この憑依現象を、一連の事件と重ね合わせると、理解不能な犯行の多くの謎が解けていく。

 ただ、ここで注意しなければいけないのは、憑依されるのは基本的に本人の責任であるということだ。

 通り魔的事件の犯人の多くは、「親のせい」「会社のせい」「社会のせい」と、不幸をすべて自分以外の他人や環境のせいに責任転嫁する傾向が強い。

 やはり、正しさの尺度、正しい宗教がないからだと思います。特に、戦後、日本は宗教を排斥し、忌避してきました。そこに左翼思想が乗っかって、現状のような唯物論的な世界を肯定しているのです。現代は物質的な価値観が蔓延しています。そんな時代だからこそ、我々は本当の正しさというものに目を向けていく必要があるのです。

 程度の差はあっても、霊的な世界観を知っていれば、そういうことが起きないように、自分の心を律していこうという気持ちになるでしょう。霊的人生観さえ持てば解決の糸口がつかめるはずです。

 

「心神喪失者」なら罰せられない刑法

 常軌を逸した残忍な事件が起きる度に話題に上る「責任能力」とは、そもそもどういうことか。

 刑法39条1項では「心神喪失者の行為は、罰しない」と定められている。心神喪失者とは、主に精神病患者や知的障害者を想定しており、物事の分別がつかず「自分の行為が悪いことだ」という認識が持てない人のことを指す。または、それに近い状態である「心神耗弱者」と判断された場合も刑が軽くなる。

  刑罰が決められているのは、「悪いことをすると、自らに不利益になる」ことを示して犯罪を抑止する効果と、間違った行為を繰り返さないようにする教育の効果を期待してのことである。ゆえに、心神喪失状態にある人は、悪い行為に対する責任を負う能力がなく、教育効果も期待できないとされている。

 こうした法律の背景には、「無意識のうちに犯した罪で罰せられても、本人は何を反省すればいいのか分からない」という考えがある。「責任能力」とは、「反省・更生する余地があるかどうか」ということでもある。これから行われる裁判で地検の判断がひっくり返され、「心神喪失者」「心神耗弱者」と判断された場合、刑罰は非常に軽くなってしまう。

参考

 しかし、この「心神喪失なら罪は問えず、反省もできない」という考え方は、宗教的に見た時に疑問が残る。

 確かに、「心神喪失」の状態で犯す罪は自分の意識で犯しているとは言い切れない。「神の声が聞こえた」「ヒトラーの思想が降りた」など。こうした現象は、死後に成仏できない「悪霊」が、生きている人間にとり憑いて異常な言動をとらせる「憑依」という。何者かに煽られ、操られたものである可能性が高い。しかし、だからと言って「本人に責任能力がなく、反省の余地が無いか」と言われれば、そうではない。

 悪霊に憑依されるには、それだけの理由がある。それは、地上で生きている人間の心が、その悪霊の心と同通するということだ。例えば、普段から怒りの心を持っている人には、より強い怒りの心を持った霊が憑依し、暴力行為に及ばせることがある。また、自己嫌悪が強い人には、同じような心を持った霊が憑依し、自殺に至らせる。

 つまり、憑依による犯罪でも、本人の責任は逃れられない。これは、泥酔して判断能力がない状態で交通事故を起こしたとしても、そうした状態になる前段階として、飲酒をして車に乗った責任を問われることに近い。

 通り魔事件などの裁判では、精神鑑定による「心神耗弱」「心神喪失」をめぐって責任能力の問題が生じるだろう。だが、憑依のメカニズムに照らせば、あくまで本人の強烈なマイナスの思いが最初にあり、それが悪霊を呼び込んで心を支配され、心神喪失状態にあったとも考えられる。その意味で、まったくの免責とするにはやや疑問が残る。

 通り魔事件などの原因究明や再発防止のためには、犯罪の原因を社会や環境ばかりに求めるのではなく、本人の「心」のコントロールの責任という観点が必要だ。

 むしろ、「心神喪失」状態だったからといって「責任が問えない」ことにすれば、更生につながらない。犯罪抑止・再犯防止の観点からも、「心神喪失状態なら、責任を問えず、反省のしようもない」という司法の常識は、再考の余地があるのではないか。

 参考

 霊的真実や心の法則に無知な精神鑑定や、それに基づく司法には、唯物論的な限界がある。人が犯罪に至る際の心の法則を解明し、根本的に犯罪を防止するためにも、霊的真実の啓蒙が不可欠である。

 すべての人は、神仏から分かれてきた尊い存在であり、本質的に善をなそうとする傾向がある。加害者の本当の「人権」を守るには、悪霊と同通してしまった心を反省し、神仏の子である本来の自己を取り戻すための宗教的回心を促すことが必要です。

 

犯罪更生

 「刑務所は『受刑者に作業をさせるところ』という意味合いが強く、これまで更生に向けた指導については、体系的に定められていませんでした」

 法務省関係者がそう明かすように、刑務所や受刑者について定めた「監獄法」(1908年施行)では、刑務所を「懲役に処せられたる者を拘禁する所とす」と定義。刑務所は、本人の更生よりも社会防衛のために受刑者を外界から隔離する場所だった。

 日本の刑務所では長年、受刑者が過去の過ちを振り返ったり、自分の心と向き合うことは原則、本人や、民間の教誨師などの宗教家に委ねられてきた。

 しかし、2006年に「刑事収容施設法」が施行され、刑務所主導での積極的な「矯正指導」が始まった。

 その代表的なものには、同じ罪を犯した人同士で話し合うことで自分の過ちを気づくというグループワークや、欧米などで成果が上がっている「認知行動療法」などがある。

 だがそうした指導が、必ずしも再犯防止に役立っているわけではないようだ。それは数字にも表れており、刑務所を出所して5年以内に再び罪を犯し、刑務所に戻った「再入所率」は4割を超えたままだ。

 現在の矯正指導が、本当に受刑者を更生させているとは思えない。その時は『悪いことをした』と思っても、社会に出ればまた心が揺れて、同じような過ちを犯す人が多い。彼らが社会復帰した後も、継続して自分を律していけるような『宗教教育』が必要だと思います。

 人間の本質は魂であり、心であり、精神です。人の心は、本来ダイヤモンドであり、それを輝かせれば、どんな困難からも立ち直ることができます。罪を犯した人がその事実に気づいたとき、本当の意味で彼らの更生が始まるのです。

 反省においては、行為や言葉の奥にある本人の思いが重要であり、その根底には正しい宗教的価値観が必要とされる。日々、正しい反省を行い、それが十分なレベルまで達した時に、その人が過去に犯した罪は消える。それが霊的な真実です。