信教の自由がすべての人権の出発点

 人類が獲得してきた「自由」とは、どういうものでしょうか。

 イギリスのピューリタンたちは、イギリス国教会の宗教弾圧の中、一方でアメリカ新大陸に渡り、一方で国に残って1642年の清教徒革命を起こした。

 その指導者クロムウェル(1599~1658年)は、さまざまな教派が集まった会合で語った。

 「我々は神に身を委ね、神が各人に語りかける御声に聴き入らなければならない」

「我々は多くの人々が語りかけてくれるのを聞いたのであるが、それらの人々の言葉を通して、神が我々に話しかけておられたことを認めざるを得ない」

 また、その秘書官となったミルトン(1608~1674年)は、『言論・出版の自由(アレオパジティカ)』で以下のように語っている。

 人間は真理の全体像を主の再臨まで知ることはできないので、「現在知っていることによって、知らないことを探し求めつづけ、見つけ次第、真理を真理に結合していかなければならない」と述べた。それを例えれば、「主の神殿を造営するにあたって、ある者は大理石を切り、ある者はそれを四角にし、またある者は杉の木を切り倒す」という作業のようなもので、その中で真理が明らかになってくるのだと主張した。

 二人が語ったのは、「神の子としての人間が語る言葉には、神の心の断片が宿っている。人々が討論を重ねる中で、神の心の全体を推しはかることができる」ということです。

 これが近代民主主義の出発点となった。重要なポイントは、単なる多数決ではないということです。討論を通じて神の心がどこにあるかを発見するところに、民主主義の本質がある。このためミルトンは民主主義の参加者の「資格」が必要だと考え、それを宗教教育で担保することを考えた。この考え方がアメリカ移民にも受け継がれ、入植直後の大学設立につながった。

 一人ひとりが神の心の一部を表現しているのだから、どの教派にも真理が宿ることはあり得る。よって、少数派の新しい宗教・宗派であっても排除・弾圧してはいけない。この考え方が信教の自由として確立した。

 そもそも宗教は、開祖や中興の祖が何らかの霊的体験をして、神の心を説き、世の人々を目覚めさせたり、社会変革に立ち上がらせたりする。少数者の自由が認められなければ、新しい宗教は誕生した時点で抹殺されてしまう。

 その後、信教の自由から当然の権利として、自分の信仰を告白する自由(伝道の自由)や、自分たちの教会を建てる自由が認められるようになった。

 それが世俗的に展開し、思想・信条の自由、言論・出版の自由、集会・結社の自由、さらには、アメリカ入植者たちのように大学をつくる自由(学問の自由)、政治活動の自由にまで広がった。

 結局、信教の自由から近代国家の「自由」の権利がすべて生まれた。このため、信教の自由は、「国民の権利の女王」と呼ぶ憲法学者もいるほどです。確かに、神様を信じる自由を否定されたら、信仰者は命がけで戦う。信仰の力によって、近代以降の国民としての権利が認められていったのです。

 

 日本はまだ「自由」が確立できていない

 アメリカ独立の原動力となったのは、「これらの自由が侵されたら、政府をつくり直してよい」というロックの思想だが、その背景には「人間は神の創造物であり、神の子としての権利は守られなければならない」という価値観があった。

 ロックは『市民政府論』で以下のように述べている。

「人間はすべて、唯一人の全知全能なる創造主の作品であり、すべて唯一人の主なる神の僕であって、その命により、またその事業のため、この世に送られたものである。彼らはその送り主なる神の所有物であり、ただ神の欲する限りにおいてのみ(決して他の者の欲するままにではなく)、生存し得るように作られているのである」

 この精神がアメリカ独立宣言に「すべての人間は平等に創られ、その創造主によって、生命、自由、そして幸福の追求を含む、奪うことのできない一定の権利を与えられている」という言葉で盛り込まれた。

 さらには、日本の戦後憲法の条文にも受け継がれたはずだった。だが、まだ日本ではこの近代的な「自由」の権利が確立できていないようです。戦後日本の無神論・唯物論的風潮も影響しているのでしょう。憲法第20条には「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と規定されているが、付帯条項で「政治と宗教を分けよ」「公教育で宗教を教えるな」と禁止事項が並んでいる。「人権の女王」である信教の自由をこれだけ否定的に扱うと、そこから派生するその他の「自由」の権利も制限してしまうことになる。

 であるから、「自由の創設」が難しいし、財産を守ることも十分できない。安倍首相は自分を、自由を創設したアメリカ独立戦争の英雄に重ね合わせたいのだろうが、その逆の立場でしよう。マスコミの多くも言論の自由だけを過度に重視する。信教の自由こそが国民の権利として最も大切なものであり、宗教こそが国民の自由の砦であることを理解していない。

 イギリスは17世紀のピューリタン革命で、国家が宗教や国民を管理する「お上支配」の文化を乗り越えた。アメリカ革命では、「神の創造物」の自覚を持った人たちが信教の自由を確立し、お上任せではなく、自分たちの運命を自分たちで決める「自由の創設」を行った。

 日本がこれから迎えるであろう「革命」は、宗教を尊ぶ「宗教立国」と、国民が自らの考えで未来を変えていける「自由の大国」が不可分一体になったものです。

 アメリカ革命の思想的先駆者ロックは、為政者の介入・弾圧を戒め、信教の自由を守ることを訴えた『寛容についての書簡』で以下のように述べている。

「神の存在を否定する人びとは、決して寛容に扱われるべきではありません。人間社会の絆である約束とか契約、誓約とかは、無神論者をしばることはないのです。たとえ思想のなかだけのことにしても、神を否定することは、すべてを解体してしまいます」

 ロックは、結局は、人間社会の絆を解体し、獣のような世界にしてしまうと警告したのです。

 お上に従うことで一見、社会が安定するように見える。しかし、その結果は、国民が政府によって家畜やペットとして飼い慣らされるだけになっている可能性がある。

 「お上支配」をよしとする自民党やその他の政党を選ぶのか。それとも、自分たちの手で幸福な未来を創る「自由の大国」を目指す幸福実現党を選ぶのか。その選択肢が国民の前に示されている。

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