アメリカを独立へと導いた教育と言論
アメリカも植民地支配から独立した国であった
アメリカが独立戦争に踏み切ったきっかけは、イギリスが戦費調達のため北米植民地に次々と税金をかけたことにある。植民地の人たちは、1775年、「代表を送れないイギリス本国の議会に押し付けられた税金は無効だ」と立ち上がった。ボストン港の東インド会社の船を襲撃、港が捨てられた紅茶で染まった(ボストン茶会事件)。イギリスはこれに怒り、ボストンのあるマサチューセッツ州の自治権を奪い、軍隊を送り込んだ。そうして独立戦争が始まった。
植民地とはいえ、その頃の北米の人たちは、「自分たちの責任で自分たちの国を発展させていきたい」という意識が高まっていきました。
最初の入植の1607年から約10年後には、植民地議会が開設された。1千人規模の移民が初めて入植した1630年の6年後にハーバード大学を設立。荒野を開墾するなかで政治家や聖職者など新しい指導者の養成を優先させた。
入植者にはイギリスの知識層も多く、1640年ごろには出版業を立ち上げ、1704年には本国から発禁がかかる圧力のなか、本格的な新聞を出すようになった。こうした環境で「自分の国」という意識が生まれ、独立への機運が高まっていた。
「自由の創設」としてのアメリカ独立
20世紀の政治哲学者ハンナ・アーレントは、『革命について』で以下のように述べられておられます。
「革命とは自由の創設のことであり、自由が姿を現すことのできる空間を保障する政治体の創設のことである」
ここで言う「自由」とは、公的幸福の追求のことを指しており、公的幸福とは政治に参加する権利のことを言う。アーレントは、自分たちの国をどう素晴らしいものにしていくかを自由に議論し、決定し、行動するなかに人間としての幸福があると考えた。
「自分たちの国の運命を自分たちで決めることができる自由」
そして、その民主主義の理想をアメリカ独立革命に見出した。
その理想の原型は、市民が政治に参加し公開で討論していた古代ギリシャの民主主義です。公的空間に自由な議論の場を創り出すことが「自由の創設」の意味であった。
アメリカ独立戦争では、当初、植民地内の意見が割れていた。独立派、英国王派、中立派に分かれていたが、文筆家のトマス・ペインが小冊子『コモン・センス』を書き、「イギリスは北米の繁栄に寄与していない。独立しか解決策はない」と訴えた。世論が大きく動き、「独立宣言」へとつながった。
人間は一人ひとりが「この時代に生きた証を遺したい」存在
アーレントは、人間が政治参加し、自由に議論し、自分たちの国の運命を自分たちで決めることが幸福であると考えたのでしょうか。主著『人間の条件』で以下のように述べている。
「人間は一人一人が唯一の存在であり、したがって、人間が一人一人誕生するごとに、なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれる」
人間は一人ひとりが独自の個性を持った存在であるからこそ、政治や言論などの「活動」に参加することによって、その人としての新しいユニークなものがこの世に付け加えられるという考え方である。
幸福の科学大川隆法総裁は、この点について『政治の理想について』で以下のように語られた。
「そうした、活動的生活のなかにおける幸福感というものは、やはり、どうしてもあります。『自分の人生を使って、この世に一石を投じ、この時代に自分が生きた証となる、何らかのモニュメント、記念碑を遺したい』という気持ちです。『この時代に生きた証を、自分の活動を通して遺したい』という気持ちがあり、それが実現される過程において、人間は真なる幸福の一つを味わうことができると思うのです」
独立戦争を指揮したワシントンや独立宣言を起草したジェファーソンら、アメリカ革命の指導者は、歴史上「その時代に生きた証」を遺した代表的な人たちである。
アメリカ建国時の「自由の創設」の理念を、白人だけではなく黒人にも広げたリンカン大統領も、間違いなくそうでしよう。
南北戦争当時、南部の人口は約900万人おり、そのうちの約400万人が黒人奴隷だった。リンカンは、アメリカ国内の奴隷の存在が神の名の下において許されないとして、双方60万人以上の犠牲を出しながら北軍の勝利に導いた。
リンカン大統領は、戦争中のゲティスバーグの演説を、以下の有名な一節で締めくくった。「(我々の任務は)人民の、人民による、人民のための政府を地上から消え去らせてはならないと決意することなのです」
この言葉に込めたリンカンの思いは、「アメリカ建国の父たちが自由を創設し、国民が政治参加し、公的幸福を築いてきた公共領域を守らなければならない」というものだったと想像できる。黒人奴隷の解放は、この大きな目的の一部であったと言ってよいでしょう。