幸福の科学が勧める「幸福」

魂の向上につながる生き方を提唱しています

あの世に還っても幸福が続くような生き方

 幸福の科学が説いている「幸福」とは、どのようなものでしょうか。世の中の、いわゆる幸福論が、この世の話ばかりをするのに対して、幸福の科学の幸福論は、この世的に幸福であるだけではなく、あの世的視点から見ても幸福である生き方を説いているのです。そういう幸福を、「この世とあの世を貫く幸福」と呼んでいます。 つまり、みなさんに対して、この世で幸福感に満ちた生き方をしていただくことを願うだけではなく、死んで、あの世に還ってからも、幸福な生活が続くような生き方を提唱し、それを実践していただきたいと願っているのです。

 

この世では悲劇の人生でも、あの世で幸福になる人もいる

 もちろん、これ以外の考え方もあります。この世に対して、まったく否定的な見解をとるならば、「この世で、いかに悲惨な生き方をしても、あの世において幸福であれば、それでよい」という考え方もあると思います。キリスト教徒には、この世では、悲惨なこと、悲しみの現実とぶつかり合って生きながら、あの世での幸福を目指す人が、かなり多くいます。そもそも、教え主であるイエス自身が、この世では悲劇の人であったと考えてよいと思います。教え主が悲劇の人であったがゆえに、あとに続いた人たちも、悲劇を通しながら、あの世での栄光、あの世での幸福を求める生き方をしました。しかし、幸福の科学では、そうした生き方がいちばん良いとは必ずしも思っていません。わずか数十年ではありますが、この地上生活のなかにも、一定の意味合いを認めています。

 

この世に生まれてくる意味がある

 人間は、まったく無意味なことを繰り返すだけではありません。「この世に生まれてくるには、生まれてくるだけの理由がある。この世の数十年の人生のなかにも、それなりの役割や目的がある。人間は、何かを学ぶために、この世に生まれてきて、そこで学んだものを持って、実在の世界、本来の世界に還る存在なのである」これが根本的な考え方なのです。したがって、この世を完全に否定しているわけではなく、「修行場、教育の場、魂を磨く場として、この世は非常に大切な場である」ということを認めています。「この世において、魂が数多くの糧を得て、喜びを感ずることは、非常に幸福な生き方である。そして、その生き方が、あの世での幸福にもつながる」と言っているのです。

 

人生わずか2万数千日

 数十年の人生というものを、長いように感じるでしょうが、日数に直してみると、平均して2万数千日です。そして、砂時計の砂のように、毎日毎日が1日ずつ落ちていき、2万日から3万日たったときに、みなさんは、この世を去ることになるわけです。短いといえば、非常に短い人生です。この2万数千日の間に、この世において、どれだけのことを経験し、どれだけのことをつかみえるか。これが非常に大事です。その貴重な経験を得るために、人間は人生を送っているわけです。そのために、この世に赤ん坊として生まれ、学校で学び、大人になると、職業に就き、結婚をして家庭を営みます。そして、病になったりしながら年をとっていき、やがて、この世を去っていくのです。わずか2万数千日。この間を、どれだけ理想的なものにしていき、あの世に還ったときに、魂の向上になっているような生き方をするか。これが非常に大事なことなのです。

 

なぜ幸福を求めるのか

 人間の本質である魂自体のなかに、幸福を追い求める性格が埋め込まれている。それは、人間は根本仏から分かれてきた「光の子」だからである。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『永遠の法』で以下のように説かれました。

「人間には幸福を求める性質があると述べました。なぜ幸福を求める性質があるのかというと、これは仏が人間に与えた一つの慈悲だからです。仏は人間が生きていくうえにおいて目的を与えました。その目的が人間を不幸にしていくものならば、世界は悲惨なものとなっていくでしょう。しかし、仏がそれぞれの人間の魂のなかに幸福を求める性質を埋め込んだがために、人間はできるだけ幸せになっていこうとするようになったのです。要するに、「人間が人間であるところのもの、すなわち、人間の本質である魂自体のなかに、幸福を追い求める性格が埋め込まれている」と考えるべきなのです。  なぜ人間はもともと幸福を求めるようにできているのかといえば、結局、人間は根本仏から分かれてきた「光の子」だからです。人間が光の子、仏の子である以上、人間のなかには仏と同じ性質があるのです。仏の性質とは何でしょうか。「仏は進歩と調和によって生み出される大きな幸福感をよしとしている」と言えます。すなわち、「仏がこの大宇宙を統括し、支配し、貫いているエネルギーである理由は、そうした幸福のエネルギーを仏自体が内在しているからである」と考えていいのです。したがって、仏が仏として存在している、その存在の目的自体が、幸福に立脚点を置いていると言えるのです。  では、仏の幸福とは何なのでしょうか。仏は何に対して幸福を感じているのでしょうか。生成、化育、発展、繁栄 すべてのものが大調和のなかに大いなる発展をし、繁栄する、その途中の経験のなかに、仏は喜びを感じているのです。仏は仏として存在を停止しているときには、なんらの喜びもありません。しかし、仏が仏として活動し、その活動内容が、「すべてのものを調和させつつ、発展、繁栄させていく」という目的を体現していくことであるならば、その途中において、仏は大いなる経験、美しい経験、喜びを伴う経験を得るのです。そうすることによって、仏自体もまた、いちだんと大いなる存在への転化、拡大、発展を得ているのです。  「人間は幸福を求める存在である」「人間は幸せに生きられるように創られた」ということ自体が、すなわち、仏の本性、仏の慈悲なのです。」

 自分が幸福になりたいのであれば、「幸福になろう」と決意すること。

 決意して、断々固として幸福への道を開いていくこと。

 そのためには、まず自信を持って、心の世界で成功者になってしまうことです。

 大川隆法総裁は、『成功の法』で以下のように説かれました。

「意外なことではありますが、この出発点が分かっていない人も数多いのです。自分が幸福になれるかどうかは、まず「幸福になろう」と決意しているかどうかにかかわっています。まず、その決意から始まっていくのです。「自分は幸福になろう」と決意したところに、幸福というものは表れてくるのです。それにもかかわらず、知らず知らずのうちに、自分を不幸にしようとしているのではありませんか。「不幸な自分」というものを心に描いていく傾向のある人、気がつくと、一日中、自分の不幸な姿を描いている人、不幸の主人公として自分を描きがちな人は、どうか、もう一度、原点に返っていただきたいのです。すなわち、「あなたは、幸福になりたいのか、なりたくないのか。それをはっきりさせていただきたい」ということです。  もし、「不幸になりたい」と言うのなら、それは自分の責任です。自分の責任で、そういう道を歩いていく以上、決して不平不満をもらすべきではありません。もし、あなたが「幸福になりたい」と決意するのならば、断々固として幸福への道を開いていく必要があります。この決意が自信を生むのです。「こうしてはいけない。ああしてはいけない」という、世間の道徳観念や罪悪観念に負けてしまうのではなく、「なぜ」という気持ちを常に持つことです。「何ゆえに、いけないのか。何ゆえに、道を切り開いてはいけないのか」ということを考えてみるべきだと思います。 「断じて行えば鬼神もこれを避く」と言います。力強く前進するときに、鬼神も避けて通るのです。人間は、弱い人格を持っている人が来ると石を投げたくなったりすることもありますが、自信に満ちた人に対しては、石を投げられないものです。これは、つまり、「心が心に感応する」という現象として現れているのです。成功している人のところへは、成功者が集まってくるものなのです。したがって、「成功者を友としたい」と思うならば、まず、あなた自身が成功者となることです。その原動力は、実は自信なのです。自信を持っているからこそ、そういう成功の雰囲気が漂ってくるのです。自信を持って、まず、心の世界において、想念の世界において、成功者となってしまうことです。心の世界において成功者となった人の周りには、成功の事物が集まってきます。成功者が集まってきます。成功の雰囲気も漂ってきます。まるで磁石のように、〝砂鉄″を引きつけていくのです。この意味において、「自信を持つ」ということなくしての成功はありません。自信を持たないで、たまたま、宝くじが当たるがごとく、成功運を引き当てるよぅなことがあったとしても、そういうものは、やがて、その人から去っていくでしょう。勝利の女神、成功の女神、幸福の女神は、それをよく調教する人のところにとどまるのです。そして、その女神を調教するためには、「自信を持つ」ということが大事なのです。」
 

どうして幸福を広げるのか

 幸福の科学は、「仏国土ユートピア」の建設をめざしている。

 その根本的な理由は、仏の願い、そして、それに基づいて天上界で一生懸命に応援してくれている、菩薩や天使たちの念いと活動がある。

 その事実を知ってしまった以上、自分が仏法真理によって得た炎は、他の人に分け与えていかなくてはならない。でも、それで自分が困ることはない。むしろみんなも喜び、自分もうれしくなる。それが、「仏国土ユートピアをつくる」ということなのです。

 大川隆法総裁は、『生命(いのち)の法』で以下のように説かれました。

「人間は、自分だけが幸福になれば、それでよいわけではありません。悟りによって自分が幸福になったならば、「この幸福を他の人に分け与え、世の中そのものを変えていこう」と思わなければいけないのです。この世を仏国土へと変えなければいけません。仏の国は、あの世の世界にはありますが、仏は、「あの世に仏国土があれば、それでよい」と思っているわけではありません。仏は、「地獄に近い、泥沼のような現世を、仏国土に変えよう」と常に願いつづけているのです。そして、その思いを持って、数多くの光の大指導霊や天使、菩薩たちが、この世に生まれ変わり、苦心惨憺をしながら真理を弘め、人々を助けようとしています。また、この世で活動しているだけではなく、あの世からも一生懸命に地上の活動を応援しています。みなさんは、やがて地上を去ることになりますが、そのときに、「あの世の天使たちが、この世の人々のために、これほど力を尽くしていたのか」ということを知って、驚くと共に涙を禁じえないでしょう。  「天使たちは、こんなにも頑張っていたのか。知らなかった。天使たちがしてくれたことに対して、自分は、その百分の一の感謝もしていなかった」ということを知るでしょう。  彼らは、それはそれは涙ぐましい努力をしています。地上には非常に多くの人々が生きているので、これだけの人々を幸福に導くために努力することは、どれほど大変なことであるかを知ってください。それを知ったならば、仏法真理に目覚めたみなさんは、この世そのものを仏国土、ユートピアに変えるべく、一人ひとりが努力しなければなりません。あなたが真理に目覚めたことによって、あなたの持っている一本のろうそくに灯がともったのです。その灯を自分だけのものとしたならば、そのろうそくの光は一本のろうそくの光以上のものではありません。しかし、あなたのろうそくの炎を周りの人に分け与えたら、ろうそくの炎は二本になり、三本になり、四本になり、五本になっていきます。あなたのろうそくの炎が、一万本、百万本、一千万本に増えていったら、あなたは困るでしょうか。最初のろうそくの炎は、「炎を分け与えて損をした」と思うでしょうか。  ろうそくの炎は何も減ってはいないでしょう。ろうそくの炎は次々に連続して点じていくことができるのです。  そのように、「ろうそくの炎を増やすことによって、闇を追い払い、この世を照らす」という努力をしていくことが必要です。それが、「仏国土ユートピアをつくる」ということなのです。」

 早く出世した人は、自分の出世によってパイ全体が増えるように努力すればよい。よい学校に進学したり、職業で成功したりした人は、まわりの人たちに対して、より大きな幸福をもたらすようにすればよい。

 自分の幸福を、全人類の幸福と一致させていくこと。自分が幸福になったならば、そのお返しとして、他の人びとを幸福にしていかなければならないという気持ちを持つこと。

 そういう人が増えることは、「幸福の生産者」が増えることを意味するのです。

 大川隆法総裁は、『繁栄の法』で以下のように説かれました。

「世の中には、「幸福になりたい」と願いながら幸福になれない人がいます。それは、「自分が幸福になることによって、他の人が不幸になる」という考え方をする人です。このような考え方をゼロサム型の幸・不幸論といいます。「一個のパイを十人で分けると、一人の取り分は十分の一であるが、一人で二切れ取った人がいると、他の人の分が減り、三切れ取れば、さらに減る」というような考え方です。ゼロサム型、パイの取り合い型の考え方をする人のなかには、心情的に、幸福になることのできない人がいます。こういう人には、いわゆる「いい人」が多いのです。善人で非常に優しいため、「成功したい」と思いながらも、「自分が成功すると、他の人が不幸になるのではないか」と思って腰が砕けていくわけです。確かに、時間を止めて、「現在ただいま」ということで考えれば、パイの取り合いはあるでしょう。一個のケーキを何人かの子供で分ける場合、大きく取った子がいれば、ほかの子の分は小さくなります。しかし、時間は流れていくものなのです。早く出世した人は、自分の出世によってパイ全体が増えるように、努力すればよいのです。自分が幸福になることによって、まわりの人も幸福になるように、仕事を進めていけばよいのです。よい学校に進学したり、職業で成功したりする人が出ても、その人がまわりの人たちに対して、全員で平等に分けたときよりも大きな幸福をもたらすことができたならば、結果として、大勢の人が幸福になれるのです。ある経済評論家は、「五千人に一人ぐらいの割合で天才がいる。一人の天才が出て、事業を起こしたりして成功すると、その関連で五千人ぐらいがごはんを食べられるようになる」というようなことを述べていました。  「天才までいかなくても、千人に一人ぐらいは中天才がいて、その人が出れば千人ぐらいが食べていける。また、五百人に一人ぐらいは小天才がいて、その人が出れば五百人ぐらいが食べていける。さらには、百人に一人ぐらいは傑出した秀才がいて、その人が出れば百人ぐらいが食べていける」というような考え方はありうると思います。「傑出した人が出れば、多くの人が食べていける」という考え方もあることを知らなくてはなりません。「自分が幸福になるのは他の人にとってよくないことだ」と考える人は、潜在意識でそう考えている人もふくめると、かなりいるでしょう。そういう人は、自分の幸福を全人類の幸福と一致させていかなくてはなりません。「自分が幸福になることは全人類の幸福につながる。現時点ではまだそうなっていなくても、必ずそうなる」と考え、「自分が幸福になったならば、そのお返しとして、自分の幸福を他の人に還元していかなければならない。他の人びとを幸福にしていかなければならない」という気持ちを持つことが大事です。そういう人が増えることは、いわゆる「幸福の生産者」が増えることを意味します。その結果、いろいろなものが好循環していくのです。」

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