悪がなぜ存在するのか

悪とは

 魂は創造的性質を持ってはいても、本来的に、悪を働いたり、地獄をつくったりするようにはできていない。

 悪とは、魂そのもののなかにひそむ性質ではなく、お互いの魂の自由と自由が相剋するところに生まれたゆがみであり、ひずみである。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『太陽の法』で以下のように説かれました。

「魂には、いくつかの特徴があります。その一番目の特徴とは、創造的性質です。魂は、自分の意志によって、自由自在に自分をつくりかえていく性質が与えられています。つまり、どのような思いをもった意識体であるかを、自分自身で決定できるということです。
  たとえば、愛を最高度に発揮することもできるし、自由を最高度に発揮することもできる。心の思いによって、内在する光の量をコントロールすることも自由自在で、高次元的存在へと自分を高めてゆくこともできれば、光の量をおとして、下次元的存在にすることも可能です。
  それでは、悪を働いたり、悪を思ったり、堕落したりすることも、魂の性質なのでしょうか。地獄に堕ちたり、地獄をつくったりすることも、魂の創造性によるものなのでしょうか。
  然り、然り。否、否。というのが答えです。
 なぜ、「然り」なのか、つまり、魂には創造の自由が与えられており、自由が自由であるゆえんは、規制がないことと、妨げるものがないということだからです。もし、規制や妨げがあるならば、それは自由ではなく、不自由となります。一方、なぜ、「否」かについては、魂そのものの本来目的は、悪を働いたり、地獄をつくったりするようにはできていないからです。悪とは、魂そのもののなかにひそむ性質ではありません。悪とは、お互いの魂の自由と自由が相剋するところに生まれたゆがみであり、ひずみなのです。
 人間は、そもそも、自分ひとりでは、いかなる悪も犯しえません。つまり、悪とは、他人の存在、ほかの生命の存在、あるいはまた、ほかの物体の存在をもってはじめて、その姿をあらわしてくるものだからです。
 古来から、善悪二元論については、さまぎまなことがいわれてきました。その根本問題は、仏のつくられた世界に、なぜ、悪が存在するのか、悪とは、仏自らのなかにひそむ性質なのかということでした。しかし、悪は、もちろんのことながら、仏自らの性質、すなわち仏性ではありません。悪とは、仏の大願成就を阻害することです。あるいは、仏から自由を与えられた者同士の相剋、お互いの自由と自由とがぶつかりあって、一定の時間、ゆがみなり、ひずみが、心の世界に、あるいは、現象世界にあらわれているものにすぎないのです。つまり、根源的存在論としてではなく、機能論、行為論として悪はあるのです。

 

自由と自由の相剋によって「悪」が生じる

 なぜ「悪魔」と呼ばれる存在がいるのかについて考えてみます。

 神仏がこの世をつくられたのだとしたら、神仏のアンチテーゼとなる「悪魔」が生まれるのは矛盾しているようにも思えます。

 大川隆法総裁は、著書『太陽の法』で、悪の発生原因を以下のように説明しています。

 「悪とは、魂そのもののなかにひそむ性質ではありません。悪とは、お互いの魂の自由と自由が相剋するところに生まれたゆがみであり、ひずみなのです。

 悪とは、仏の大願成就を阻害することです。あるいは、仏から自由を与えられた者同士の相剋、お互いの自由と自由とがぶつかりあって、一定の時間、ゆがみなり、ひずみが、心の世界に、あるいは、現象世界にあらわれているものにすぎないのです」

 もし、私たちが一人だけで生活をしていたら、もしくは、全員同じように行動する機械のような存在であったなら、ひずみとしての「悪」は生まれないでしょう。

 

神仏は悪を生じることを覚悟で 自由に伴う発展を肯定された

 また、「悪霊」や「悪魔」といわれる存在は、神仏から慈悲として与えられた自由を自らの欲望を満たすために間違って発揮し、自分と他人を傷つけてしまった存在といえます。

 宗教に触れたことのない人には、禁欲的な生活を送り、奉仕活動に打ち込むシスターや、経文読誦や禅定などの修行に打ち込む僧侶には、自由がないように見えるかもしれません。

 自らに戒律を課すことも、自由の範囲が狭まるように思うかもしれません。

 日々の生活における細かすぎる戒律を強要するイスラム教などには問題もありますが、一定の戒律は自由の中で自らの欲望をコントロールしていくために必要なものです。

 自らの欲望や本能を放置することは、自由とは違います。過ぎた食欲や出世欲、怒り、愚痴などの感情を放置しておくと、心は常に振り回された状態となります。それは、まるで暴れ馬に乗っている騎手のようなもので、自由ではありません。

 暴れ馬を放置したら、自分も振り落とされてしまい、他人に怪我をさせてしまうこともあります。

 騎手が馬を導くように、自分の心を自分でコントロールできることが、本当の意味における「自由」です。

 「自由」をなくせば、過ちを犯すことも少なくなるでしょうが、自由の中でよりよい方向性を選び取っていく喜びを味わうことができなくなります。

 総裁は、著書『不動心』で次のように自由の可能性を語ります。

「人間は、心のなかにどのような思いを抱くかに関して自由を与えられており、その自由を行使して、自分を変えていけるようになっています。思いの自由性というものを駆使して、人間は天使のようになることもできれば、悪魔のようになることもできるわけです」

 神仏は、「悪」を生じないようにすることよりも、過ちが生じることも覚悟で、向上や幸福感など積極的な「善」を尊重する仕組みを作られたと言えるでしょう。

 

悪がなぜ存在するのか

 大川隆法総裁は、『宗教選択の時代』で以下のように説かれました。

「悪とは何なのか。悪は何ゆえに起きるのか。悪に対してどうすべきなのか。これについては、さまざまな宗教で、非常に大きなテーマとして、現代まで語り継がれています。もちろん、宗教以外の、政治や法律、哲学など、いろいろな分野においても、この悪の問題は論じられています。しかし、最も根源的な議論は、やはり宗教においてなされるべきであると思います。  

 では、悪とはいったい何なのでしょうか。それは、人類の起源からあるのでしょうか。言葉を換えて言うならば、仏みずからが悪を創られたのでしょうか。こうした問題があります。これに関して、明確に言っておかねばならないことがあります。それは、「善悪は、人間の活動に関して起きることである」ということです。仏そのものが、あるものを善とし、あるものを悪とし、この世界のなかに善悪の両者を送り込み、戦わせているわけではありません。もし仏が、悪なるものを、「この世に存在するもの」として見ているとするならば、それは必ずや、「より大いなる善のために、悪の存在を許容している」ということです。では、より大いなる善とは何でしょうか。それは、三次元世界を超えた世界における善である、と考えてよいと思います。すなわち、「この世に存在するかのように見える悪は、すべて、地上の人間の魂修行の目的においてのみ存在している」と考えるべきであると思います。砥石(といし)はザラザラとしたものですが、その砥石によって研がれた結果、石や金属などは、美しく光る滑らかな面が現われてきます。それは、砥石をかける以前よりも、はるかに美しいものです。石や金属などは、自然のままにあるよりも、砥石やサンドペーパーをかけたあとのほうが、はるかに光沢のある美しいものとなるのです。このように、より大いなる善のために、一見、不愉快にも見える、デコボコでギザギザした砥石の役割として、悪なるものも現われてくるということです。」

 現象として、仏性が宿っていないかのような振るまいをする人がいる。

 その現実は認めつつも、しかしあくまでも、「地獄から生まれ変わってきている人間はいない」。どんなに悪人に見えても、核の部分に仏性はある。

 大川隆法総裁は、『悟りの挑戦(下)』で以下のように説かれました。

「「一切の衆生に仏性が宿っている」という思想を唱えるのは非常に素晴らしいことなのですが、逆にこの思想自体は、「自分たちを迫害したり、自分たちの教えを批判したり、『釈迦も極悪の罪人も、何も区別がない』というものの見方しかできない人間でも、我々と一緒なのだ」ということになるわけであり、ここにジレンマが生じたわけです。これで苦しんだ結果、「一切の衆生は仏性を持っていて、成仏する可能性があるのだけれども、『断善根(だんぜんこん)』といって、善の根っこが断ち切れている者がいるのではないか。このような思想によって解決しようとしたのです。ただ、私自身の考え方からいえば、やはり、どういう人間でも神仏の子としての性質は持っていると思うのです。小さな子供と会うとニコニコ笑ったり、好きな人と会ったらうれしそうな顔をしたりするということは、どんな人でもあるわけですから、愛や慈悲という仏の性質自体はどなたも持っていると思います。あるいは、別の意味においては、悪霊の憑依という場合もあります。悪霊が四体も五体も憑いたような状態では、もはや正常な判断ができません。神や仏のことを考えることはできませんし、「批判するのは当然」という感じで、本人が言っているというより悪霊が言っているような状況もあるわけです。このように、生まれ落ちてからの思想や信条、教育や職業訓練等を通して、あるいは心の間違いによる悪霊の憑依を通して、正しい教えを信ずる緑がまったくなさそうに見える人もいるのですが、その根本には神仏の子としての本性を持っていると私は考えています。ただ、現象的には仏性が宿っていないかのように振るまう人がいるという事実もあることは、やはり認めなければいけないと思います。これは、あくまでも「地獄から生まれ変わってきている人間はいない」という立場をとっていることと同じことです。さまざまな宗教では、「天国から生まれてくる人と地獄から生まれてくる人が半々にいる」ぐらいに思っているところが多いようですが、それだけを言うと、どうしても善人悪人の目で見てしまうので、救済という観点からいくと問題があるのです。赤ん坊や小さな子供は、どの子もみんな可愛らしい顔をしています。将来、大犯罪人になったり、暴力団の組員になるような人でも、赤ちゃんのときからそんな傾向はありません。顔つきが悪いぐらいはあるけれども、やはりそういう凶暴な性格を一歳、二歳、三歳から発揮していくということはないようです。だんだん後に出てくるものです。そのように考えておいたほうがよいだろうと思います。ですから、「断善根」 善の根っこが切れていると言いたくなることもあるでしょうが、しかし、「彼らにも核の部分に仏性はあるのだ」という優しいまなざしは持っておく必要があると思います。」

 

悪を犯さない

 人間は、生きるために多くの動植物を犠牲にしている。

 目をそらさずにこの人生の現実を見つめたとき、人間が罪なくして生きることは、なかなかできるものではなく、むしろ罪多くして生きることになる。

 だからこそ、私たち人間は、それを贖(あがな)えるだけの高度な価値を生む生き方をしなければならない。

 大川隆法総裁は、『復活の法』で以下のように説かれました。

「どのような人であっても、一つの悪も犯さずに一生を送ることはできません。もちろん、悪を犯したことに自分では気づかない場合もあります。その部分にまで光を当てられたならば、悪を犯さずに生きることは無理なのです。
 たとえば、一匹の虫も殺さずに人生を生ききることは不可能です。殺したことを自分は知らなくても、実際には殺していることがあります。自分の手で叩き落とさなくても、蚊取り線香が仕事をすることだって当然あります。道を歩いているときに蟻を踏み潰しても、気がついていないことも数多くあるでしょう。
 また、牛肉や豚肉などを、一生のうちに、いったい、どれくらい食べるのでしょうか。
 動物たちは、やはり、殺されることを嫌がっています。死にたくないのは人間も動物も同じです。今世の命を全うしたいのは動物も人間と同じですが、動物たちは、人間の食用に供されるために命を奪われています。その現場を見れば、その肉を食べられたものではありませんが、その嫌な仕事を他の人がやってくれているので、機嫌よく食べることができるのです。
 魚だって同じです。魚にだって、考えはありますし、魂もあります。魚も喜怒哀楽の感情を持っています。しかし、人間は魚を食べて生きています。
 人間が一人、一生を生きるためには、多くの生き物の命が犠牲になっています。この犠牲なくして人が生きられるかというと、なかなか、そうはいかないのです。
 「私は、ベジタリアン(菜食主義者)であって、肉を食べていない」と言う人がいるかもしれませんが、菜食だって同じです。
 植物にも魂があります。植物は、動物のように躍動的ではなく、もっとゆっくりとした動きしかしませんが、植物にも、きちんと魂はあるのです。その姿形は、ある意味では、動物よりも、もっと人間的な姿をしています。
 植物だって、この世での使命を果たしたいのですが、やはり食べられてしまいます。その点では動物と同じです。
 動物や植物の命を奪うことなくして一生を生きることは、今世に生まれた以上、できません。それは不可能なことなのです。そのため、実際に、多くの動植物が犠牲になっています。
 さらには、そういう動植物だけではなく、多くの人たちの汗と涙、その他の努力の下に、人間は生活できているのです。
 罪なくして生きることは、なかなか、できるものではなく、むしろ、罪多くして生きることになります。
 そこで、多くの動植物が犠牲になってくれたとしても、それを贖(あがな)えるだけの高度な価値を生む生き方、「あの人が生きていてよかった」と言われるだけの生き方をしなければいけないのです。」

 

 悪の発生原因の一つとして、「時」というものもある。

 時期やタイミングさえよければうまくいくのに、自分でもがいて墓穴を掘ることがある。

 行動としては同じであっても、チャンス、機会を間違ったときには悪となることがある。

 総裁は、『リーダーに贈る「必勝の戦略」』で以下のように説かれました。

「悪の発生原因の一つとして、「時」というものもあります。行動としては同じであっても、チャンス、機会を間違ったときには悪となることがあるのです。
 会社経営を題材に取って説明しましょう。
 将来は発展する会社だということが分かっていても、現時点での人員や資金力に見合う活動範囲を見極めずに、たとえば一年後の活動を先取りしようとすると、そこで失敗が起きます。これは当然あることです。
 大した資本金もないのに、「宣伝を打てば人が集まってくる」と思って、どんどん宣伝をしたところ、大して人が集まらず、経営不振に陥ってしまったなどということは、幾らでもあります。
 ある程度、実績をつくり、「よし、もう一歩」というときに拡大戦略を採れば、成功することがあるのですが、「一か八か」という、神風特攻隊のような気持ちで全資金を投入して、結局、その賭けが外れるということは、幾らでもあるのです。
 これらは、「時を間違った」と考えてよいと思います。
 失敗者のパターンを見てみると、時の部分で引っかかっている人が数多くいます。人生に失敗する原因の一つは、「待てない」ということである場合が非常に多いのです。
 あと半年待てば何とかなるものを、その半年が待てないで右往左往し、自分なりに動いて墓穴を掘ることが、 けっこうあります。胸に手を当てて考えれば、みなさんのうちの七、 八割の人は心当たりがあるはずです。 
 時期さえ逸しなければ、タイミングさえよければ、うまくいくものを、失敗の考え方、イメージというものが心のなかにある人は、自分でもがいて墓穴を掘ることが、けっこうあるのです。」(144~146ページ)

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