光一元

 谷口雅春が 光明一元の思想が日本神道の教えであるかのように言っているが、日本神道の教えのなかに明るい考え方があるにしても、邪霊、悪霊の類を追い祓う「邪を祓う」という思想もあって、善悪を峻別する考え方ははっきりと入っていた。

 「伊邪那岐(いざなぎ)」という名前も、「邪気を祓う」というところから出ており、むしろ「闇の部分を取り除く」というところに主眼があった。

 日本神道の解釈において、「光明一元」「光一元」と言い切るならば、それは新説と言わざるをえない。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『伊邪那岐・伊邪那美の秘密に迫る 日本神話の神々が語る「古代史の真実」』で以下のように説かれました。

「「谷口雅春説」によって、光明一元の思想が日本神道の教えであるかのように言われておるが、彼自身は、ちょうど、アメリカで流行っていたところの、「積極思考」や、あるいは、「思いの力で病気が治る思考」等を、英文を読める者として、翻訳して自分の教義に取り入れた。つまり、そうした成功思想だな。二十世紀のアメリカの成功思想を翻訳し、導入して、それにフロイトの心理説を掛け合わせて教義をつくったと思われる部分がそうとうあるので、「それ、すなわち日本神道の教え」と言うわけにはいかないと思う。というのも、日本神道の教えのなかには、確かに明るい物事の考え方があることは事実ではあるけれども、「禊祓い」という思想もあるように、やはり、「邪を祓う」というのも大切な大切な儀式であり、教義でもある。  その「邪を祓う」という思想は、実は、あらゆる宗教につきまとっている思想ではあろうと思うが、つまり、邪霊、悪霊の類を追い祓うわけだ。それが、幣を用いて、邪気を祓ったり、あるいは、注連縄を張り巡らせて結界をつくったりする思想と関係があって、これは、日本神道のかなり根本的な部分とかかわっていると思われる。すなわち、「聖なる空間をつくり出すために、その地域や、その立場の周りに邪気を寄せ付けないように追い祓う」という思想があったわけであって、これは、必ずしも光明一元の思想とは言えないわけだ。「善悪を峻別する考え方は、はっきりと入っていた」と言わざるをえない。だから、日本神道の解釈において、「光明一元」「光一元」と言い切るならば、それは、「新説」と言わざるをえないと思われる。むしろ、「邪悪なるものを追い祓う」という面には、古代より、ニーズが非常に大きくあった。キリスト教であればエクソシスト(悪魔祓い師)がそうであろうと思うけれども、庶民のニーズも、ほとんど、そうした死霊の祟りや憑依を追い祓うというところにあり、民族的には、そういう多くの依頼があって、霊力を持つ者への信仰が立っていたと思われる。だから、私の「伊邪那岐」という名前も、「邪気を祓う」というところから出ているわけで、「光一元」という考えでも説明できないことはないけれども、むしろ、「闇の部分を取り除く」というところに主眼があったと言えると思います。」