苦しみや悲しみ

 幸福の科学大川隆法総裁は、「本来、悲しみなし。本来、苦しみなし」という考え方に、正面から異議を唱えられます。そしてその根拠に、根本仏がこの大宇宙を創造した理由を、まずあげておられます。

 大宇宙という庭園に、人間の目には不完全に見えるさまざまな物事が何もなければ、なんらの進歩、発展も、また喜びもないことになり、根本仏が大宇宙を創造した意味がないことになってしまう。

 しかし、人間は、究極的には、喜びや楽しみの世界、つまりユートピアへと向かうようになっている。

 苦しみや悲しみなどの苦悩は、大宇宙という庭園の景観をかもしだす一つの情緒として、また、よりよきものへと進歩、発展していくための砥石の役割を果たす「魂の糧」としてのみ、存在が許されているのです。

 大川隆法総裁は、『永遠の法』で以下のように説かれました。

「根本仏は根本仏である以上、なんらの進歩、発展もないのです。根本仏は根本仏である以上、完全であり、無欠であり、また、至善であり、至愛であり、至福です。すなわち、究極の善であり、究極の真理であり、究極の美です。こうした存在である以上、根本仏は、なんらの進歩、発展もなく、また、喜びも伴わないものなのです。そこで、根本仏は、たとえば庭園をつくるような気持ちでもって、この大宇宙を創造したのです。まるで庭仕事のように、岩をすえ、池を掘り、そこに魚を放ち、小さな木や大きな木を植えたり、果物を実らせたり、ときには雑草を植えてみたりと、さまざまなことをして、庭の景観をつくるために努力したのです。人間の目には不完全に見えるさまざまな物事も、実は、根本仏が一つの庭園をつくるために醸し出した情緒にしかすぎないのです。少しは雑草もあっていい。背の高い木も低い木もある。うず高い小山だけではなく、池のようにえぐれた部分もある。こうしたさまざまなものがあって、根本仏の庭園ができており、根本仏はその庭づくりを楽しんでいるのです。したがって、悲しみや苦しみは、実在とまでは言いきることができないけれども、ある一定の制約のなかで、その存在が許されていることは事実なのです。悲しみや苦しみが現にあるのは、それがよきものと思われているからではありません。この地上の悲しみや苦しみ、また、四次元界や五次元界における悲しみや苦しみは、大きな飛躍のためのものであることも事実なのです。自分はこのようにしたいと思うことがなかなか実現しない場合は、それに悲しみや苦しみがつきまといます。また、自分の意図に反した結果が現われたときには、その結果しだいでは、それが苦しみとなったり、悲しみとなって涙がほとばしったりします。しかし、この涙は、この汗は、決して、涙のための涙ではなく、汗のための汗ではなく、より高次なものを招くための涙、清涼感の前の汗だということです。したがって、この世の世界を、苦の世界、苦しみの世界、悲しみの世界と見てしまわずに、「苦しみや悲しみも、あることはあるけれども、それはよりよきもののための砥石の役割をしているのだ」ということを知らなければなりません。悲しみや苦しみも用意されてはいますが、それがずっと続くことが予定されているのではありません。魂の糧としてのみそうしたものを経過することが許されているのです。そして、究極的には、喜びや楽しみの世界、常楽の世界、常夏の世界へと向かうようになっています。したがって、「苦悩というものは、魂の糧としてのみ存在が許されている」と考えるのが最もよいのです。」

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