諸行無常

 諸行無常は、時間的な流れの中で、一切のものが変化変転していくことを中心に捉える思想です。

 仏教における時間論です。

 すべてのものは移ろいゆくものである。 変化変転していくものとして、一切の現象を見つめなさい。 一切の現象のなかには、物質や肉体のみならず、あなた方の心のなかに生起し、去来するものも含まれている。 すべてものは流れ去っていくものである。 そのような、川のながれのようなものであるのだから、執着してはいけない。 何一つ、「自分のものだ」と思ってつかんではいけない。 「これが私だ」と思ってもならない。 「私のものだ」と思ってもならない。 そこのあるものを所有しようと思ってもならない。 すべては過ぎ去っていく。 親であったものも親でなくなり、子であったものも子でなくなる。 夫婦であっても、友人であっても同じである。 すべては変化変転のなかにある。 そのようななかにあって、ほんとうに自分自身の人生を考えるならば、執われから脱しなくては、自分自身のほんとうの姿はわからない。 人は固定化し、固形化したもののなかに、自分を求めようとするが、そうした試みが、かえって、本来の自己というものを見失わせることになっている。 しかし、そうではなく、「変化のなかにすべてあるのだ。 変化変転してくことこそが真理なのだ」と思ったときに、「さあ、そうであるならば、流れゆく川のなかを下っていく筏のように、自分は生きていかねばならないのだ。 この川の流れを止めることができないならば、いかに竿を操って川を下っていこうか」と考えていかねばならない。 これが人生の真実なのである。

 このような智慧を得ることによって、無明が破られ、「悟りの境地」が得られるのです。 真理知識を獲得することで、自由な境地に到ることが可能となるのです。 真理の知識を知っていれば、迷わなく済むこと、犯さなくて済むこと、悩まなくて済むこと、間違いを犯さなくて済むこと、心に毒を生じさせたりしないで済むことをようなことを知らないがために、様々な出来事に巻き込まれて苦悩し、煩悶し、罪を犯したりして、心を曇らせてしまうのです。  

 真理の智慧、真理知識、深い知識を得ることで、迷いという名の束縛を断ち切って、心の自由を得る。これが「慧解脱」なのです。

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